JR尼崎駅。設置当初は神崎駅でした。尼崎という地名は尼崎城下であった阪神尼崎駅付近が元々の場所なので開業当時の明治期としては神崎と名付けるのが自然だったのでしょう。
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3/18 10:43
JR尼崎駅。設置当初は神崎駅でした。尼崎という地名は尼崎城下であった阪神尼崎駅付近が元々の場所なので開業当時の明治期としては神崎と名付けるのが自然だったのでしょう。
神崎津。大坂からの中国街道や瀬戸内海から舟で来る人々の重要拠点でした。神崎川には橋はなく「広四十間程」の川幅を渡し舟が行き来して旅人は1人につき40文、増水時はプラス24文の料金がかかっていました。港の起源は天平年間で行基によって築かれた摂播五泊の一つの河尻泊です。14・15世紀になると尼崎が神崎川河口地域の中心的な港になっていきます。
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3/18 11:06
神崎津。大坂からの中国街道や瀬戸内海から舟で来る人々の重要拠点でした。神崎川には橋はなく「広四十間程」の川幅を渡し舟が行き来して旅人は1人につき40文、増水時はプラス24文の料金がかかっていました。港の起源は天平年間で行基によって築かれた摂播五泊の一つの河尻泊です。14・15世紀になると尼崎が神崎川河口地域の中心的な港になっていきます。
摂津名所図会。往時の賑わいがわかります。神崎津は商人荷物を扱うことでも繁栄しました。神崎川を利用した近隣の年貢米の船出しや伊丹の酒造米の受け入れもしていました。このような荷物を扱う問屋が江戸中期では6軒あったそうです。
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3/18 11:03
摂津名所図会。往時の賑わいがわかります。神崎津は商人荷物を扱うことでも繁栄しました。神崎川を利用した近隣の年貢米の船出しや伊丹の酒造米の受け入れもしていました。このような荷物を扱う問屋が江戸中期では6軒あったそうです。
神崎津のメインストリート。突き当りで左を西宮方面(中国街道)右を有馬方面(有馬道)と分けます。
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3/18 11:06
神崎津のメインストリート。突き当りで左を西宮方面(中国街道)右を有馬方面(有馬道)と分けます。
絵図まんまの光景が広がっています。
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3/18 11:09
絵図まんまの光景が広がっています。
突き当りに仏像を兼ねた道標があります。側面には左大坂などの文字が刻まれています。
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3/18 11:10
突き当りに仏像を兼ねた道標があります。側面には左大坂などの文字が刻まれています。
旧道風情。この付近はダイセルの工場があるのですが日曜のためか車通りは少なく静かなものでした。
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3/18 11:15
旧道風情。この付近はダイセルの工場があるのですが日曜のためか車通りは少なく静かなものでした。
ここで右(本道)と直進(間道)とで分かれます。今回のゴール地点の安倉で再び合流します。
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3/18 11:17
ここで右(本道)と直進(間道)とで分かれます。今回のゴール地点の安倉で再び合流します。
明治初期のもの。「右 伊丹 中山 池田 能勢」「左 昆陽 小濱 有馬 三田」反対側の文字には「大坂 西京」とあって西京とは東京に対しての京都の言い方です。
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3/18 11:17
明治初期のもの。「右 伊丹 中山 池田 能勢」「左 昆陽 小濱 有馬 三田」反対側の文字には「大坂 西京」とあって西京とは東京に対しての京都の言い方です。
神崎交差点。横にはコストコ。
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3/18 11:27
神崎交差点。横にはコストコ。
途中まで新幹線と平行して進み何度か交差するので不思議な感覚があります。
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3/18 11:31
途中まで新幹線と平行して進み何度か交差するので不思議な感覚があります。
ここは左へ。昔は真っすぐの道は田んぼでした。
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3/18 11:33
ここは左へ。昔は真っすぐの道は田んぼでした。
ここは新幹線工事の際に土地区画整理されてマンションの入口辺りで右に折れていたのですが現在は道が消滅しているので新幹線高架に沿って迂回します。
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3/18 11:35
ここは新幹線工事の際に土地区画整理されてマンションの入口辺りで右に折れていたのですが現在は道が消滅しているので新幹線高架に沿って迂回します。
マンションの反対側に出ると新幹線の高架の先に旧道があるのが見えます。
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3/18 11:37
マンションの反対側に出ると新幹線の高架の先に旧道があるのが見えます。
こちらがその旧道。
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3/18 11:37
こちらがその旧道。
車道で分断されていますが右側にあるトンネルを使って向こう側に出ます。
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3/18 11:38
車道で分断されていますが右側にあるトンネルを使って向こう側に出ます。
旧道が続いています。突き当りが猪名川水系である藻川の堤防です。
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3/18 11:39
旧道が続いています。突き当りが猪名川水系である藻川の堤防です。
堤防は改良を受けて往時の道筋とは若干違います。この付近でいうと右の河川敷に弧を描く形で進んでいました。
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3/18 11:41
堤防は改良を受けて往時の道筋とは若干違います。この付近でいうと右の河川敷に弧を描く形で進んでいました。
この付近では左手に道筋があったみたいです。
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3/18 11:43
この付近では左手に道筋があったみたいです。
阪急の鉄橋をくぐり左へ。右に架かる宮園橋の旧橋は元々は横断歩道のあたりにありました。
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3/18 11:47
阪急の鉄橋をくぐり左へ。右に架かる宮園橋の旧橋は元々は横断歩道のあたりにありました。
この付近は昔は左の川の右岸に沿った道筋だったのですが後に橋が架けられ直進する形で進んでいます。次の分岐までは「津門中道」との重複区間。津門中道とは塚口・富松を経て守部で武庫川を渡って津門を経由しての西宮に至る道です。
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3/18 11:50
この付近は昔は左の川の右岸に沿った道筋だったのですが後に橋が架けられ直進する形で進んでいます。次の分岐までは「津門中道」との重複区間。津門中道とは塚口・富松を経て守部で武庫川を渡って津門を経由しての西宮に至る道です。
ここを右へ。
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3/18 11:51
ここを右へ。
先ほどあった川が再び現れ右岸沿いに進みます。
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3/18 12:05
先ほどあった川が再び現れ右岸沿いに進みます。
大井組とは猪名川水系の最大の井組で水争いで乱闘の末に刑で斬首数名となった話が書かれています。
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3/18 12:07
大井組とは猪名川水系の最大の井組で水争いで乱闘の末に刑で斬首数名となった話が書かれています。
この先の旧道へ。
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3/18 12:08
この先の旧道へ。
学校の手前を左に曲がって学校に沿って進みます。
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3/18 12:09
学校の手前を左に曲がって学校に沿って進みます。
そのまま直進。ここからしばらく交通量の多い道になります。
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3/18 12:11
そのまま直進。ここからしばらく交通量の多い道になります。
新幹線の高架手前に旧道の痕跡が残ります。ちなみに左に少しいったところに南清水という集落がありますが街道は集落内にあえて乗り入れない道筋になっていたようです。
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3/18 12:18
新幹線の高架手前に旧道の痕跡が残ります。ちなみに左に少しいったところに南清水という集落がありますが街道は集落内にあえて乗り入れない道筋になっていたようです。
旧道は新幹線の高架をくぐって先ほどの道に合流します。
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3/18 12:19
旧道は新幹線の高架をくぐって先ほどの道に合流します。
郵便局横の道が旧道です。
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3/18 12:23
郵便局横の道が旧道です。
猪名寺の集落。古い雰囲気が残ります。
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3/18 12:25
猪名寺の集落。古い雰囲気が残ります。
少し脇に逸れると猪名寺廃寺跡。東に金堂、西に五重塔の白鳳時代創建の大きな寺だったのですが織田信長による有岡城攻めで焼失しています。
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3/18 12:27
少し脇に逸れると猪名寺廃寺跡。東に金堂、西に五重塔の白鳳時代創建の大きな寺だったのですが織田信長による有岡城攻めで焼失しています。
摂津名所図会に有馬街道が描かれています。廃寺跡の背後の森が佐璞丘(さぼくがおか)で大阪湾なども見渡せる景勝地になっていました。「猪名の笹原」と呼ばれて有名でした。
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3/18 12:28
摂津名所図会に有馬街道が描かれています。廃寺跡の背後の森が佐璞丘(さぼくがおか)で大阪湾なども見渡せる景勝地になっていました。「猪名の笹原」と呼ばれて有名でした。
「猪名の笹原」のモニュメントが右手にあって復元で笹が植えられているのですが季節がら背丈は短い感じでした。
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3/18 12:40
「猪名の笹原」のモニュメントが右手にあって復元で笹が植えられているのですが季節がら背丈は短い感じでした。
JR宝塚線の踏切を渡ります。この付近の寺に道標があったのですが見落としてしまいました。ちなみに「左 大坂 右 尼崎」と書かれてあったそうです。
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3/18 12:44
JR宝塚線の踏切を渡ります。この付近の寺に道標があったのですが見落としてしまいました。ちなみに「左 大坂 右 尼崎」と書かれてあったそうです。
伊丹城下では大坂道と呼ぶことが多かったようですね。
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3/18 12:46
伊丹城下では大坂道と呼ぶことが多かったようですね。
事細かに街道が書かれてあります。伊丹城下の道筋は資料によって違うことがあるのですがこの付近ではこれが正解でしょう。
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3/18 12:46
事細かに街道が書かれてあります。伊丹城下の道筋は資料によって違うことがあるのですがこの付近ではこれが正解でしょう。
このような古い地図が載った案内板もありました。
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3/18 12:54
このような古い地図が載った案内板もありました。
古い家々が立ち並ぶ街道筋。手元の資料ではこの次の角で左に曲がって大通りを進み郵便局横を通るのが旧街道(A)になっています。
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3/18 12:58
古い家々が立ち並ぶ街道筋。手元の資料ではこの次の角で左に曲がって大通りを進み郵便局横を通るのが旧街道(A)になっています。
ただ先ほどの古地図が描かれていた案内板を見ると不自然な場所があったので、そのまま直進する道も歩くことにしました。これがルート(B)。説明ではわかりづらいのでルートマップをご覧ください。
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3/18 13:09
ただ先ほどの古地図が描かれていた案内板を見ると不自然な場所があったので、そのまま直進する道も歩くことにしました。これがルート(B)。説明ではわかりづらいのでルートマップをご覧ください。
再び(A)と(B)と合流して大通りを進みます。この左手付近には昔は庁舎があったそうです。
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3/18 13:12
再び(A)と(B)と合流して大通りを進みます。この左手付近には昔は庁舎があったそうです。
この角には道路元標があります。昔は高札場があったということで伊丹の中心だったことでしょう。この先のルートも資料を見るに悩ましかったので2手に分かれて進みました。ここで大通りから左に曲がるルートを(A)とします。
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3/18 13:16
この角には道路元標があります。昔は高札場があったということで伊丹の中心だったことでしょう。この先のルートも資料を見るに悩ましかったので2手に分かれて進みました。ここで大通りから左に曲がるルートを(A)とします。
そしてもう一つ先の角を左に曲がるのが(B)ルートとします。こちらは手元の資料では有馬道として描かれているルートです。
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3/18 13:19
そしてもう一つ先の角を左に曲がるのが(B)ルートとします。こちらは手元の資料では有馬道として描かれているルートです。
(B)ルート上には資料館があり伊丹の歴史を知ることができます。
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3/18 13:19
(B)ルート上には資料館があり伊丹の歴史を知ることができます。
(A)ルートはこんな感じ。この道の延長上には伊丹城の正門があり高札場もあったことから現地を見る限りこのルートのほうが一般的な街道筋であったと思われます。もっとも街道がどこを通っていたかは城下には道が幾重にもあったので特に決まった道筋がなかったとは思います。
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3/18 13:35
(A)ルートはこんな感じ。この道の延長上には伊丹城の正門があり高札場もあったことから現地を見る限りこのルートのほうが一般的な街道筋であったと思われます。もっとも街道がどこを通っていたかは城下には道が幾重にもあったので特に決まった道筋がなかったとは思います。
(A)ルート上にある寺の前で右に曲がります。先の震災では倒壊が酷かった地区です。ここは三軒の寺があることから三軒寺と名付けられていて震災後に大きな広場が設置されています。
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3/18 13:38
(A)ルート上にある寺の前で右に曲がります。先の震災では倒壊が酷かった地区です。ここは三軒の寺があることから三軒寺と名付けられていて震災後に大きな広場が設置されています。
この付近で(A)ルートと(B)ルートが合流して進路を北へと進みます。
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3/18 13:44
この付近で(A)ルートと(B)ルートが合流して進路を北へと進みます。
猪名野神社は伊丹郷町の北端に位置するとともに有岡城(伊丹城)の北端でもあって惣構えの「岸の砦」が置かれていた場所です。古くは「野宮、天王宮、牛頭天王宮」と呼ばれていて摂津名所図会では「野宮牛頭天皇」と紹介されています。
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3/18 13:45
猪名野神社は伊丹郷町の北端に位置するとともに有岡城(伊丹城)の北端でもあって惣構えの「岸の砦」が置かれていた場所です。古くは「野宮、天王宮、牛頭天王宮」と呼ばれていて摂津名所図会では「野宮牛頭天皇」と紹介されています。
この付近から若干の勾配が始まります。こういう段差がある場所は美味しい水が湧き出ることが多いので伊丹の酒造りの源の一つかもしれませんね。周辺の地名が「清水」になっているのもそういう関係でしょう。
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3/18 13:49
この付近から若干の勾配が始まります。こういう段差がある場所は美味しい水が湧き出ることが多いので伊丹の酒造りの源の一つかもしれませんね。周辺の地名が「清水」になっているのもそういう関係でしょう。
ここは左の直進で。
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3/18 13:52
ここは左の直進で。
大鹿(おじか)。ここで西国街道と交差します。
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3/18 13:55
大鹿(おじか)。ここで西国街道と交差します。
「すぐ西宮」「すぐ京」「すぐ中山ありま」「すぐ大坂」。中山とは中山寺のことですね。
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3/18 13:55
「すぐ西宮」「すぐ京」「すぐ中山ありま」「すぐ大坂」。中山とは中山寺のことですね。
周辺の絵図が現代語で分かりやすく書かれています。昔は大鹿にも池が多くあったことがわかります。
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3/18 13:55
周辺の絵図が現代語で分かりやすく書かれています。昔は大鹿にも池が多くあったことがわかります。
大きな道路と交差します。
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3/18 14:05
大きな道路と交差します。
この先の瑞ヶ池にかけては消滅しています。
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3/18 14:09
この先の瑞ヶ池にかけては消滅しています。
ここで右に曲がって池に出ます。
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3/18 14:15
ここで右に曲がって池に出ます。
ここを左。旧道が復活します。
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3/18 14:15
ここを左。旧道が復活します。
瑞ヶ池。伊丹市民の貴重な水がめです。
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3/18 14:20
瑞ヶ池。伊丹市民の貴重な水がめです。
旧道は堤防の上だったのですが改築されて崩されたようで元々の道はこの右端を進んでいたと思われます。ここから先も旧道が再び消失しているので左に曲がって迂回します。
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3/18 14:19
旧道は堤防の上だったのですが改築されて崩されたようで元々の道はこの右端を進んでいたと思われます。ここから先も旧道が再び消失しているので左に曲がって迂回します。
迂回中。ここを右へ。
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3/18 14:23
迂回中。ここを右へ。
この付近から旧道が復活します。
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3/18 14:33
この付近から旧道が復活します。
鴻池は「鴻池財閥」の出身地で清酒の醸造を始めたことにはじまります。その後、大坂に進出して両替商に転じて江戸時代における日本最大の財閥になっていきます。
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3/18 14:36
鴻池は「鴻池財閥」の出身地で清酒の醸造を始めたことにはじまります。その後、大坂に進出して両替商に転じて江戸時代における日本最大の財閥になっていきます。
道なりに。
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3/18 14:42
道なりに。
大きな道路の先の旧道へ。
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3/18 14:46
大きな道路の先の旧道へ。
ここを右に曲がって橋を渡ります。かつては直進して橋を渡っていました。
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3/18 14:47
ここを右に曲がって橋を渡ります。かつては直進して橋を渡っていました。
「阿り満たしま」は有馬但馬。他に中山観音、小浜、三田の意味する文字が書かれています。享保年間のもの。
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3/18 14:48
「阿り満たしま」は有馬但馬。他に中山観音、小浜、三田の意味する文字が書かれています。享保年間のもの。
姥ヶ茶屋(ばんがちゃや)。ここで有馬街道の別ルートの間道と合流します。
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3/18 14:53
姥ヶ茶屋(ばんがちゃや)。ここで有馬街道の別ルートの間道と合流します。
祠の中には寛文八年の兵庫県下で最も古い道標が残っています。「あまがさきみち」「いたみみち」
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3/18 14:53
祠の中には寛文八年の兵庫県下で最も古い道標が残っています。「あまがさきみち」「いたみみち」
yaonyaosuke2 さんお疲れ様でした。
特に後半、伊丹市街以北は普段からジョギング等々で慣れ親しんだエリア。ちょうど昨日『阿り満たしま』の道標に気付いて眺めていたところでした
道筋に古さを感じる程度、街道として意識しておりませんでしたが、一本の道筋として紹介していただくと、俄然興味が出てくるものですね
続きを楽しみにしております
伊丹市内の案内看板の充実振りには、改めて関心しております
おひさしぶりです!
有馬への道は歴史が深いこともあって面白いですね。
これまで兵庫の街道歩きは少な目だったのですが
今後はいろいろ歩いていこうと思ってます
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