チベット チョモランマBC
コースタイム
天候 | 晴れ |
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アクセス |
利用交通機関:
タクシー
飛行機
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写真
感想
ラサからニューティンリーの町まで延々とランクルに揺られました。
日本を出発してから9日目になります。
ここまでの展開は以下のURLをどうぞ。
http://www.asahi-net.or.jp/~nm3k-tgc/tibet/index.html
=========================== 9日目 ==================================
【ニュー・ティンリー出発】
7:52出発。 ガイドと運転手はホテルから大きな布団を借りていた。 どうやらシュラフの代わりらしい。 寒さがへっちゃらなチベット人の彼らにとってもロンボクは寒いところのようだ。
ロンボクで部屋が満室になることをおそれて(結局満室ではなかったけど、こういう配慮はうれしい)早めに出発の予定であったが、ガイドたちの準備などでゆっくりの出発になった。
団体観光客(30人くらいの欧米人)はバスに乗客だけのせ、 スーツケースなどの重い荷物はトラックで運ぶらしい。彼らをロンボク寺で見ることはなかったので、カトマンズに抜けたのだろう。(そもそもあのバスではロンボクまではかなり険しそう)
チェックポイントでは軍事施設なので撮影をしてはいけないと私たちは注意されていたが、何も考えていなそうな中国人観光客が適当に撮影をしていた。私たちの方にも寄ってきたが、面倒なことになっては旅が台無しなので、身振りと英語で撮影禁止であることを伝えた。
その中国人観光客は不満そうだったが、こっちの言うことは理解したようだった。
ここのチェックポイントは特に厳しそうなチェックポイントなので、気をつけすぎて問題があることはないだろう。
【パンラ峠】
ギャンツェで会った日本人のおじさんは 「ニュー・ティンリーからBCまでの道はとても揺れがひどくて、忍の一字だ」と言っていたが、それほどつらいものでもない。というか、チベット郊外の道はずっとこんな揺れ、と言った方が適切か。
おそらく高山病などの体調にもよるのだろう。
パンラ峠に到着。世界には8000mを超える山が14座あるけれど、その中の4座がここから見渡せる。
「8000mという区切りにどれほどの意味が?」などどいう愚問は心置きなく忘れましょう!
【ロンボク到着】
11:47ロンボク寺に到着。 この土地ではラサ〜カトマンズ間に走っているようなバスを見ることはなく、 9割方の車両はランクル。 ラサ市内ではパジェロなどの他社のランクル系の車両をそれなりに見かけけど、この付近では本当にランクル、それもオンボロばかり。
ロンボクの招待所は去年建てられたものらしく、それまでは寺の中に泊まっていたらしい。その頃の前提で書かれたガイドブックではかなり不便な場所として説明されている。今でも便利な場所ではないけど。。。
招待所の中ではカップ麺や缶コーラなどを売っている。 注文すれば麺やパンケーキなども作ってくれる。トイレは宿泊棟の外にある。 部屋の中はベッドが3つ置いてある。床は砂埃が積もっていて、物を落としたらすごく汚れそう。
目の前にチョモランマの北西壁がその素晴らしい勇姿を現している。
この姿を見るためにここまで来たのだ。
やっぱりチベット側から見たこの山はかっこいい。 (ネパール側から見たことがないのに、こんなことを言うのも何だけど、 写真で見る限りそんな気がする。 ここに来るまでの他の山々はチベット側の方がかなりさびしいけど。。。)
この時まで見えているのは北壁だと思っていたのだけど、どうやら北西壁らしい。
【BC(ベースキャンプ)往復】
ガイドたちは、今日と明日の二日間BCまで行かなきゃいけない、という連絡を旅行会社から受けていなかったらしくって、運転手が「BCに行くのは今日か明日のどちらか1回だ!」などとガイドに叫んでいる。(チベット語なので正確には分からないがガイドがそう言っていた)
これは全て日本の西遊旅行の確認不足がいけないのだが、こんな場所でそんなことを言っても始まらない。日本語で書かれた西遊旅行の行程表を見せて、ガイドに頼んでなんとか連れて行ってくれることになった。
このガイドには本当に感謝するばかり。
BCに到着したときに偶然にも日本の還暦登山隊(正式名称は違うようだけど、テレビではそんな感じで紹介していた) がいた。少し日本語で話(日本人同士だから当然か)をしたけれど、BCの部隊でその時点では大きな問題は起こっていなかったとはいえ、やはりどうもピリピリした感じがして、それほど会話は盛り上がらなかった。
車に戻ろうとした時に、笑顔でおじさんが手招きを してくるので、言われるままに日本隊のテントの一つに入ると「まぁこれでも飲みなよ」と言ってお茶を出してくれた。
彼はネパールから連れてこられたガイドで、日本人たちのピリピリした感じとは違って、「今回のルートは簡単なのに、日本人はいつも登ったり下ったり(高所順応のことだろう)を繰り返してばっかりでなかなか頂上につかないから、なかなかネパールの家に帰れない」などと笑えるけど、BCまででさえのんびり車で登ってきた私たちには笑い飛ばせないようなことを楽しそうに話していた。
久しぶりにネパール語で「タパインコ・ナーム・ケ・ホ?」と名前を尋ねてみると、いつも通り「メラ・ナーム?」(私の名前?の意味)と聞いてきたあと、教えてくれた。自分のネパール語が通じていたことに満足した私は彼の名前をすっかり忘れてしまいました。ごめんなさい。
BC内を駐車場に戻ろうとすると、陽気なおじさんが川の水を指差して何か話し掛けてくる。どうやら、「この川の水で顔を洗うと気持ちいいよ」ということらしく、自分でやってみせてくれた。
じゃぁ、と言って手をつけたら、すごく冷たい。すぐ横に雪があったりするんだから当たり前か。こんなところで風邪をひいたらシャレにならないので、「冷たすぎて無理だよ」というようなジェスチャーをして、さよならした。
【ロンボク寺】
寺の中には僧がいてお経(棚に入っているお経を順番に読むらしい)を読んでいた。ほんの少しだけ英語が話せるらしく、極力複雑じゃない単語で会話した。
その内容はとても興味深く、本当はここに書きたいのだけど、書いてしまうにはあまりも大きな問題を含んでいるのでここでは我慢するとしましょう。その内容が笑って話せるようなチベットになる日が来るといいのだけど、今の中国政府には難しいかも。
勧めてくれたバター茶を飲む。社会はなかなか変えられないけど、そういうことを乗り越えて理解しあうことはできるはずだよね。
【ロンボク招待所】
部屋に帰ってから、窓を開けて正面にそびえるチョモランマの写真を撮った。三脚で望遠レンズをつけて撮影するけど、室内であっても窓をあけると強風でカメラがどうしても揺れてしまう。
結局そのまま撮影してぶれた写真となっちゃったけど、今から思えばもう少しシャッタースピードを速くしたのも撮っておけばよかったかも。
この宿は多くの部屋からチョモランマが見えるようになっている平屋。部屋の全面がガラスなのは確かにいいのだけど、駐車場などを歩いている人たちが旅行者、現地人を問わず堂々と覗いてくる。
興味が自然にわくのは分かるけど、チラッと見るようなものじゃなくて、立ち止まって「じー」っと覗き込んでくるからこっちが恥ずかしくて目をそらすことも。夜中にヘッドライトで部屋の中を照らされて覗かれたときにはさすがにマイッタ。。。
部屋の扉をあけてきた人はさすがに部屋を間違えたのだと思いたいけど、私たちに気づいても「じー」っと見つめていられるのはなぜなんだろう。
18:30 夕食。
アメリカ人の親子が隣の席になったので、少し話をした。息子の方が現在中国(成都)に留学中で通訳係として中国を旅しているらしかった。「成都って大きい街だね」と言ったら「あんなので大きな街って、君はどんな東京に住んでるの?」とからかわれてしまった。
「明日はここからBCまでを歩く」と言うので「BCから先は歩かないの?」と聞くと、「俺たちはバックパッカ-だから」との答え。つまり、バックパッカ-は登山者ではないから、BCより先へは興味がない、という意味らしい。さすが本場のバックパッカ-はちょっと違う。
脈は妻108、夫80。「チョモランマもこの目で見れたことだし、明日はちょっと無茶しても登れるところまで登ってみよう」などとこの時は思っていた。翌日、高山病になってみてすごく後悔したけど。。。
=========================== 10日目 ==================================
【BCトレッキング】
ロンボクをランクルで8:40に出発。
さらにBCからABC(アタック/アドバンスベースキャンプ)を目指して(この時は本当に目指していた)出発したのが、9:30。
「チョモランマを本気で登頂してやろう!」という世界中の人々があつまるチョモランマBC。いかにもそれらしい服装と装備を持っているので彼らを現地人と間違えるのは不可能。基本的にとてもシリアスな雰囲気を漂わせているので、とてもではないが、気さくな無駄話をするような雰囲気じゃない。
彼らにとっては一生に一度かもしれない夢をつかむチャンスなのだから、敬意を表して距離を保ちましょう。
チョモランマを登頂する隊は、その目的がゆえにチベット人でなく、ネパール人をネパールからガイドとして連れてきている登山隊も少なくない。
チベットの経済状況を考えるとチベット人も登山ガイドやポーターをすればいいのに、彼らは登山にはほとんど興味がないらしい。(ネパール人も純粋な登山としての興味ではなくて生きる手段としての興味だけど)
かと言ってチベット人が全く登山道にいないわけではなく、ヤクを使って重量物をABCなどへ輸送している。地方のチベット人はトルコ石などの飾りをつけているので、見ただけでも区別がつく。ちなみにチベット人でもラサなどの都会に住んでいる人たちは飾りなどをつけないそうだ。
燃料に使うガスボンベを背負っている人に会った。 チベット語かネパール語だと思うが、何を話しているかはさっぱり分からないが、(彼らからすれば)お金持ちの外国人のためのすごく重たい荷物を背負っている姿というのはいつ見てもつらいものがある。ポーターを雇ってトレッキングをしている人間が言っても説得力はないけど。。。
プロトレックの高度計では最高到達標高は5525m。 BCの標高が5200mなので、325m登ったことになる。
キャンプ1だと思ったのは気のせいで、ヤクとその飼い主たちが野宿するキャンプのような場所だった。 BCから出発して4時間がたっていて、どう考えても本に載っているキャンプ1にはついてもいいだけの時間が経っているし、ペースもほとんど平地を普通のペースで歩いてきたので予定の6kmは絶対に過ぎていると思う。やはり途中横に見えた別のルートが昔の登山道で、 今は左へ迂回する別のルートに変わったのだろう。
現状では一日でBCからABCを往復するのは無理だと思う。(その後、調べた結果ABCは標高6,400mらしい。あれから900m登るのではやっぱり絶対無理)
オランダ人の数十名のグループがトレッキングをしてきた。 後にガイドから聞いた話によると、彼らはオールドティンリーからトレッキングをしてきたそうで、 ABCまで数泊の予定で歩くそうだ。 ABCまで行きたければこれくらいしないとだめなのだろう。
いきなりの高所でのトレッキングはやはり無謀だった。 氷河が見えたところから先は、前衛峰の影になってチョモランマも見えなくなってしまうのだから、あそこで引き返すべきだった。 標高もあそこまでならBCから100mくらいしか登っていないだろう。
BCの一番はじの方(一番ABCに近い側のチョモランマにアタックする人たちがテントを張っているあたり)まで戻ってきて、ガイドたちが待っている受付のある建物周辺が遙かかなたに見えて疲れがどっと出てくる。
車が2台ほど止まっているが、おそらく先ほどのオランダ人たちのランクルだろう。彼らならばトレッキングパーミットをとっているだろうから、ここまで車で入っても文句を言われないのだろう。
「あれに乗れたらどんなに楽だろう」などと考えながら歩き始めてしばらくすると、車がこっちによってきて「乗って行け」という。すっかり疲れがたまっていたので、 「お金を要求されてもちょっとくらい払ってもいいや」と簡単に妥協して乗せてもらうことにした。
昨日、今日と歩いたこの広いガレ場(広河原?)も、車で行けばあっと言う間だ。この後ひどい高山病にかかったことを考えるとこの車に乗せてもらって本当によかった。
私たちの車の付近に到着すると、運転手とガイドが何か話をしていた。どうやら話はついているようで、特にお金を払う必要はなさそう。長いトレッキングも15:50に終了。
8時間のトレッキングを終えて、ロンボクの招待所に戻ると、当然の仕打ちとして頭痛が始まった。
【招待所の子供たち】
ガシは幼くして両親が死んでしまったそうで、 そのような場合に通常であれば親戚が引き取るそうだが、彼の場合には親戚もいなかったらしく、 数年したらロンボク寺院で僧侶になることになっているそうだ。
それまでの間はロンボクの招待所で子供として育てられているらしく、食堂での手伝いなどをしている。
ニマの方がいかにもお姉さんらしく、私たちの部屋に遊びに来て日本のお菓子を喜んでもらっていきながらも、食堂ではしっかりと手伝っていた。それに比べるとガシはまだまだ子供というか、食堂でも私たちのところにいりびたって、私たちが話す日本語の真似をしたり、不思議なダンス(結構笑える)を踊ったりしていた。
何にしても微笑ましい姉弟(血はつながっていないけど)で、やっぱり旅の楽しみは人との出会いなんだと思い出させてくれる。
彼らの普段のおやつはひまわりの種のようで、手伝いながらも合間に食べていた。
彼らは今でも元気にしてるのかな?幸せに暮らしてるといいのだけど、、、
【高山病発病】
あまりにも頭が痛いのと、ここで酸素ボンベを使わなければ使う時がないだろうと思って、 酸素ボンベを吸ってみたが、頭痛には効果がなかった。 というよりは、吸い方に気を使いすぎて、頭痛がひどくなったかもしれない。。。
どうやら、息苦しいときに使う物らしい。
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