杭全神社前の道標には葛井寺、高野山、大峰山の文字。
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6/21 4:44
杭全神社前の道標には葛井寺、高野山、大峰山の文字。
古市街道はここで龍田越奈良街道と分かれて南下します。道標には先ほどと同様のものが刻まれています。
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6/21 4:46
古市街道はここで龍田越奈良街道と分かれて南下します。道標には先ほどと同様のものが刻まれています。
この通りは普段は車の交通量が多いのですが、さすがにこの時間は誰もいないですね。
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6/21 4:48
この通りは普段は車の交通量が多いのですが、さすがにこの時間は誰もいないですね。
ここを左へ。かつての平野は堺と同じような環濠都市・自治都市を形成していた町でした。戦災は殆んどなかったようで堺とは対称的に今も古い雰囲気がよく残っています。
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6/21 4:54
ここを左へ。かつての平野は堺と同じような環濠都市・自治都市を形成していた町でした。戦災は殆んどなかったようで堺とは対称的に今も古い雰囲気がよく残っています。
田畑口は平野郷十三口の一つ。かつては門が設けられていました。
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6/21 4:55
田畑口は平野郷十三口の一つ。かつては門が設けられていました。
田畑口にあるお地蔵様の特徴は役の行者像が一緒に祀られていることでしょう。これは大峰山への参詣道であるという証拠でもあります。
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6/21 4:55
田畑口にあるお地蔵様の特徴は役の行者像が一緒に祀られていることでしょう。これは大峰山への参詣道であるという証拠でもあります。
ここから先は、かつては田畑の中を進んでいましたが戦後は市街地化が進み街道ルートは分断されています。左に迂回します。
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6/21 4:59
ここから先は、かつては田畑の中を進んでいましたが戦後は市街地化が進み街道ルートは分断されています。左に迂回します。
【迂回中】ここを左へ。この辺りは斜めに横切る形で旧道がありました。
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6/21 5:01
【迂回中】ここを左へ。この辺りは斜めに横切る形で旧道がありました。
【迂回中】ここを右へ。曲がった先から短いですが旧道に復帰します。
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6/21 5:03
【迂回中】ここを右へ。曲がった先から短いですが旧道に復帰します。
本来は白い車の辺りに左へ抜ける旧道があったのですが消滅しています。奥の信号を左に曲がって迂回します。
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6/21 5:04
本来は白い車の辺りに左へ抜ける旧道があったのですが消滅しています。奥の信号を左に曲がって迂回します。
ここは右へ。先ほどの消滅した旧道が左手から合流してきます。
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6/21 5:05
ここは右へ。先ほどの消滅した旧道が左手から合流してきます。
この先で左へ。かつては左側に池があり、曲がった先でも右側に池がありました。街道は築堤の上を通る道筋になっていたようです。
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6/21 5:07
この先で左へ。かつては左側に池があり、曲がった先でも右側に池がありました。街道は築堤の上を通る道筋になっていたようです。
この先の信号を右へ。
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この先の信号を右へ。
北出戸バス停。まだ町は静まり返っています。名前に出戸が付きますが昔からの出戸の集落はもう少し先です。
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6/21 5:10
北出戸バス停。まだ町は静まり返っています。名前に出戸が付きますが昔からの出戸の集落はもう少し先です。
この広い空き地は阪和貨物線の跡。ここをキハ82特急あすかが走っていと思うと胸熱です。
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6/21 5:18
この広い空き地は阪和貨物線の跡。ここをキハ82特急あすかが走っていと思うと胸熱です。
ここを左へ。
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6/21 5:24
ここを左へ。
静かな旧道風情。この左手に西出戸、東出戸集落がありました。
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6/21 5:24
静かな旧道風情。この左手に西出戸、東出戸集落がありました。
長居公園通りと交差します。
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6/21 5:27
長居公園通りと交差します。
長原集落。かつての長吉村の中心地で出戸・六反・長原東・長原・長原西・川辺の六地域によって構成されていました。集落内の道は狭く昔ながらの風情を感じます。
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6/21 5:34
長原集落。かつての長吉村の中心地で出戸・六反・長原東・長原・長原西・川辺の六地域によって構成されていました。集落内の道は狭く昔ながらの風情を感じます。
ここを左へ。右手から瓜破方面から来た道筋と合流します。
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6/21 5:35
ここを左へ。右手から瓜破方面から来た道筋と合流します。
振り返って見ると立派な祠がありました。「長吉」の地名は一説には「いつまでもよい」という願いを込めた縁起のよい名前とされています。
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6/21 5:36
振り返って見ると立派な祠がありました。「長吉」の地名は一説には「いつまでもよい」という願いを込めた縁起のよい名前とされています。
大和川付替え前は狭山池からの東除川が集落内を通っていて付替え後は埋め立てて歩道になった話があるので街道は元の河川上を通っていたと考えられます。おそらく付替え前も東除川の堤防上が道筋だった思いますのでルート自体はそれほど変わってないのかもしれません。
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6/21 5:36
大和川付替え前は狭山池からの東除川が集落内を通っていて付替え後は埋め立てて歩道になった話があるので街道は元の河川上を通っていたと考えられます。おそらく付替え前も東除川の堤防上が道筋だった思いますのでルート自体はそれほど変わってないのかもしれません。
この付近の左手に真田幸村休息所跡があったようですが街道沿いからは見当たらず。大阪市のホームページには立派な自然石がある様子が掲載されています。古市街道は大坂夏の陣で使われた道でもあります。
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6/21 5:39
この付近の左手に真田幸村休息所跡があったようですが街道沿いからは見当たらず。大阪市のホームページには立派な自然石がある様子が掲載されています。古市街道は大坂夏の陣で使われた道でもあります。
川辺地区の素晴らしい家並み。
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6/21 5:47
川辺地区の素晴らしい家並み。
川辺八幡神社の鳥居。古市街道には八幡神社が多いのが特徴的でゴール付近にある河内における八幡宮の代表格である誉田八幡宮の影響もあるのでしょうか。かつての社領は4町歩以上におよんだそうですが大和川付け替え工事よって移転となり元の大部分がの川床となっています。
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6/21 5:49
川辺八幡神社の鳥居。古市街道には八幡神社が多いのが特徴的でゴール付近にある河内における八幡宮の代表格である誉田八幡宮の影響もあるのでしょうか。かつての社領は4町歩以上におよんだそうですが大和川付け替え工事よって移転となり元の大部分がの川床となっています。
大和川の堤防が見えてきました。江戸時代を通じて新大和川に架かる橋は紀州街道の大和橋だけだったので古市街道には架けられず渡し舟もしくは徒歩渡りだったと思われます。
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6/21 5:49
大和川の堤防が見えてきました。江戸時代を通じて新大和川に架かる橋は紀州街道の大和橋だけだったので古市街道には架けられず渡し舟もしくは徒歩渡りだったと思われます。
立派な家が多いのも川辺集落の特色の一つでしょう。大和川関連での利益が多かったのかもしれません。
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6/21 5:51
立派な家が多いのも川辺集落の特色の一つでしょう。大和川関連での利益が多かったのかもしれません。
大和川。付替え以前はそのまま大堀集落へ道が続いていたものと思われます。明治に入って明治橋が架けられます。今回は上流側にある府道の橋(新明治橋)で迂回します。
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6/21 5:52
大和川。付替え以前はそのまま大堀集落へ道が続いていたものと思われます。明治に入って明治橋が架けられます。今回は上流側にある府道の橋(新明治橋)で迂回します。
かつての明治橋はちょうどこの辺りから伸びていたようです。一代目は木橋で二代目は昭和5年に橋長170m、幅員5.5m、十四径間の単純鋼鈑橋となります。三代目は昭和63年に下流側に場所を変えて架けられています。
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6/21 5:56
かつての明治橋はちょうどこの辺りから伸びていたようです。一代目は木橋で二代目は昭和5年に橋長170m、幅員5.5m、十四径間の単純鋼鈑橋となります。三代目は昭和63年に下流側に場所を変えて架けられています。
この川幅の付け替えを江戸時代によくやったものです。特に浅香山付近は難工事だったと聞きます。大和川の付け替えについては河内地域の学校でよく習わされます。
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6/21 6:02
この川幅の付け替えを江戸時代によくやったものです。特に浅香山付近は難工事だったと聞きます。大和川の付け替えについては河内地域の学校でよく習わされます。
大和川を渡った先では堤防沿いに進んで旧明治橋の付け根に進みます。
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6/21 6:04
大和川を渡った先では堤防沿いに進んで旧明治橋の付け根に進みます。
工場がありますが右側の出っ張りが橋の痕跡でしょう。かつての街道もこの付近を通っていたと思われます。左に進んで大堀集落へ。
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6/21 6:07
工場がありますが右側の出っ張りが橋の痕跡でしょう。かつての街道もこの付近を通っていたと思われます。左に進んで大堀集落へ。
大堀大橋を渡って広い車道を地下道で抜けます。
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6/21 6:09
大堀大橋を渡って広い車道を地下道で抜けます。
大堀集落は西名阪自動車道建設によって移転などがあり随分と雰囲気が変わったようです。付近には大堀遺跡があり大堀城あるいは大堀塁があったと伝承にあることから古い時代からここに人が住んでいたことは間違いないようです。
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6/21 6:11
大堀集落は西名阪自動車道建設によって移転などがあり随分と雰囲気が変わったようです。付近には大堀遺跡があり大堀城あるいは大堀塁があったと伝承にあることから古い時代からここに人が住んでいたことは間違いないようです。
大堀集落内の街道はどのように通っていたかは不明です。古地図から東除川沿いではなく集落内を通っていたものと思われます。突き当りを左へ。
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6/21 6:12
大堀集落内の街道はどのように通っていたかは不明です。古地図から東除川沿いではなく集落内を通っていたものと思われます。突き当りを左へ。
直進。
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6/21 6:13
直進。
幅が狭くなっていますが左側の家が道に増築したことが原因のようです。
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6/21 6:15
幅が狭くなっていますが左側の家が道に増築したことが原因のようです。
突き当りを左へ進むのが本来の旧道ですが車道に阻まれているので右に迂回し東除川沿いに進みます。
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6/21 6:15
突き当りを左へ進むのが本来の旧道ですが車道に阻まれているので右に迂回し東除川沿いに進みます。
【迂回中】東除川は付替え工事によって新大和川に分断されますが大和川には直接には流れず平行する落堀川に一旦流れる形になっています。
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6/21 6:17
【迂回中】東除川は付替え工事によって新大和川に分断されますが大和川には直接には流れず平行する落堀川に一旦流れる形になっています。
車道をくぐった先で左へ進みます。写真の場所では旧道が左から合流してきます。この場所で右に曲がります。
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6/21 6:21
車道をくぐった先で左へ進みます。写真の場所では旧道が左から合流してきます。この場所で右に曲がります。
左手に深居神社。
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6/21 6:24
左手に深居神社。
古市街道の文字。ここが旧街道であった証拠ですね。ちなみに明治以降は大和川堤防上の道筋が古市街道と呼ばれ津堂で合流します。
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6/21 6:25
古市街道の文字。ここが旧街道であった証拠ですね。ちなみに明治以降は大和川堤防上の道筋が古市街道と呼ばれ津堂で合流します。
深居神社は由緒によると創建は717年なのでかなり古く、元は周辺の総産土神だったところ後に小川集落だけの産土神となったそうです。本殿には1660年の棟札があり、拝殿も1792年の棟札があります。敷地は元は古墳址ではないかと言われています。
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6/21 6:27
深居神社は由緒によると創建は717年なのでかなり古く、元は周辺の総産土神だったところ後に小川集落だけの産土神となったそうです。本殿には1660年の棟札があり、拝殿も1792年の棟札があります。敷地は元は古墳址ではないかと言われています。
ここを右へ。
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6/21 6:32
ここを右へ。
ここを左へ。入口が狭くなっていますが左側の建物が道に増築したものです。
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6/21 6:33
ここを左へ。入口が狭くなっていますが左側の建物が道に増築したものです。
このとおり、建物の先は広くなっています。
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6/21 6:33
このとおり、建物の先は広くなっています。
ここを右へ。
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6/21 6:34
ここを右へ。
左へ。小川集落内での道筋は曲がり角が多いですが古地図を見る限りこれで正解であると思われます。
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6/21 6:34
左へ。小川集落内での道筋は曲がり角が多いですが古地図を見る限りこれで正解であると思われます。
その先から田畑が広がる光景になり景色が一変します。小川集落の東側に関しては古地図を見ると昔から集落と田畑の境がほぼ同じです。それは100年近くは土地の使われ方が変わっていないことを意味しています。
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6/21 6:37
その先から田畑が広がる光景になり景色が一変します。小川集落の東側に関しては古地図を見ると昔から集落と田畑の境がほぼ同じです。それは100年近くは土地の使われ方が変わっていないことを意味しています。
ここから土道を進みます。
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6/21 6:38
ここから土道を進みます。
舗装されてない昔ながらの道筋です。
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6/21 6:39
舗装されてない昔ながらの道筋です。
ここを右へ。
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6/21 6:43
ここを右へ。
左の小川に沿って進みます。右側には藤井寺高校。
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6/21 6:44
左の小川に沿って進みます。右側には藤井寺高校。
そのまま小川に沿って進むと25mほど草道になります。
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6/21 6:45
そのまま小川に沿って進むと25mほど草道になります。
小川の右岸が旧道だったわけですが、この先の小川を渡る場所には橋がないので迂回しなければなりません。
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6/21 6:46
小川の右岸が旧道だったわけですが、この先の小川を渡る場所には橋がないので迂回しなければなりません。
右に池を見て進みます。池の南東部が若干埋め立てられています。このような池は大阪南部でよく見られるもので灌漑用として今も数多く存在します。それは新大和川の北側とは対照的な景色です。
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6/21 6:49
右に池を見て進みます。池の南東部が若干埋め立てられています。このような池は大阪南部でよく見られるもので灌漑用として今も数多く存在します。それは新大和川の北側とは対照的な景色です。
馬街道。この道筋はこう呼ばれることもあったそうで詳細はわかりませんが立派な造形をしています。
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6/21 6:53
馬街道。この道筋はこう呼ばれることもあったそうで詳細はわかりませんが立派な造形をしています。
津堂集落。
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6/21 6:56
津堂集落。
ここを右へ。正面は津堂八幡神社で古墳の後円部に建てられています。
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6/21 6:57
ここを右へ。正面は津堂八幡神社で古墳の後円部に建てられています。
突き当りを右へ。小山産土神社があります。
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6/21 7:02
突き当りを右へ。小山産土神社があります。
案内板を要約すると社殿の蟇股は藤井寺市内では最古の物で神仏習合社の証とあります。室町時代に神宮寺として再建になった時は祭神は牛頭天王でしたが現在は素戔鳴命と櫛稲田姫を祀っているそうです。
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6/21 7:05
案内板を要約すると社殿の蟇股は藤井寺市内では最古の物で神仏習合社の証とあります。室町時代に神宮寺として再建になった時は祭神は牛頭天王でしたが現在は素戔鳴命と櫛稲田姫を祀っているそうです。
立派な大峰山と書かれた道標。ちょうど目に付く場所に置かれています。
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6/21 7:03
立派な大峰山と書かれた道標。ちょうど目に付く場所に置かれています。
この辺りから葛井寺まで南北方向に進みます。風情ある町並みです。
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6/21 7:06
この辺りから葛井寺まで南北方向に進みます。風情ある町並みです。
常夜灯もなかなかのもの。
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6/21 7:08
常夜灯もなかなかのもの。
小山善光寺。国宝の一光三尊仏は信濃善光寺の御本尊ですがインドからやってきて大阪で行方不明になり時が経って拾われ、長野に持って帰ろうとしたところ、この地で分裂したという話でその片方がここに安置されてるとのこと。いわば信濃善光寺とは同等の存在と言えるのですが初めて聞きました。
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6/21 7:09
小山善光寺。国宝の一光三尊仏は信濃善光寺の御本尊ですがインドからやってきて大阪で行方不明になり時が経って拾われ、長野に持って帰ろうとしたところ、この地で分裂したという話でその片方がここに安置されてるとのこと。いわば信濃善光寺とは同等の存在と言えるのですが初めて聞きました。
日本最初善光寺とアピールしています。
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6/21 7:10
日本最初善光寺とアピールしています。
ここは直進ですが右手から長尾街道と合流します。
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6/21 7:12
ここは直進ですが右手から長尾街道と合流します。
長尾街道から見た伊勢道標。半分埋もれています。
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6/21 7:12
長尾街道から見た伊勢道標。半分埋もれています。
小山、岡の集落は古地図で見ても規模が大きく見え街道と街道の交わる場所ゆえに古くから賑わっていた場所であることがわかります。
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6/21 7:13
小山、岡の集落は古地図で見ても規模が大きく見え街道と街道の交わる場所ゆえに古くから賑わっていた場所であることがわかります。
ここで長尾街道と分かれます。古市街道はそのまま直進。
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6/21 7:17
ここで長尾街道と分かれます。古市街道はそのまま直進。
やがて商店街の中へ。雰囲気的には東高野街道の瓢箪山と似てますね。
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6/21 7:18
やがて商店街の中へ。雰囲気的には東高野街道の瓢箪山と似てますね。
祝・世界遺産登録。
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6/21 7:19
祝・世界遺産登録。
藤井寺駅前付近。朝早いこともあって閑散としてますが日中は参詣者も多くいて賑わっていることでしょう。
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6/21 7:20
藤井寺駅前付近。朝早いこともあって閑散としてますが日中は参詣者も多くいて賑わっていることでしょう。
葛井寺。西国三十三か所の一つ。境内には立派な藤棚があります。
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6/21 7:24
葛井寺。西国三十三か所の一つ。境内には立派な藤棚があります。
街道は境内の中を通らずここを左へ。実際は皆さん境内の中を通って歩いていたと思われますが。
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6/21 7:27
街道は境内の中を通らずここを左へ。実際は皆さん境内の中を通って歩いていたと思われますが。
この先で右へ。角には立派な道標があります。
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6/21 7:28
この先で右へ。角には立派な道標があります。
壺阪、吉野、長谷寺、伊勢、道明寺、龍田、法隆寺、奈良の文字が見えます。巡礼者の多くの目についたことでしょう。
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6/21 7:29
壺阪、吉野、長谷寺、伊勢、道明寺、龍田、法隆寺、奈良の文字が見えます。巡礼者の多くの目についたことでしょう。
立派な酒造の横を通ります。
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6/21 7:33
立派な酒造の横を通ります。
ここを左へ。
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6/21 7:38
ここを左へ。
ほぼ道なりに進みますが鉄塔がある辺りは昔は鉄塔の下を通る形で道筋がありました。
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6/21 7:40
ほぼ道なりに進みますが鉄塔がある辺りは昔は鉄塔の下を通る形で道筋がありました。
右へ。
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6/21 7:43
右へ。
野中付近。
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6/21 7:47
野中付近。
この辺りで左に曲がる形で旧道があったのですが消滅しているので先にある横断歩道で向こう側へ。
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6/21 7:50
この辺りで左に曲がる形で旧道があったのですが消滅しているので先にある横断歩道で向こう側へ。
向こう側にある旧道の入り口。
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6/21 7:52
向こう側にある旧道の入り口。
道なりに進みます。左へ。
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6/21 7:53
道なりに進みます。左へ。
付近には古い道標が二基。壺阪、吉野、藤井寺、大阪、堺、和泉。慶応年間のもの。
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6/21 7:54
付近には古い道標が二基。壺阪、吉野、藤井寺、大阪、堺、和泉。慶応年間のもの。
こちらも似た感じですが伊勢や金剛山、高野山の文字があり広範囲です。嘉永年間のもの。
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6/21 7:56
こちらも似た感じですが伊勢や金剛山、高野山の文字があり広範囲です。嘉永年間のもの。
この辺りから古墳が増え始めます。見渡して小さな山があるなと思ったら大体は古墳だったりします。世界遺産百舌古市古墳群の中を進みます。
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6/21 7:56
この辺りから古墳が増え始めます。見渡して小さな山があるなと思ったら大体は古墳だったりします。世界遺産百舌古市古墳群の中を進みます。
この場所は元はクランクになっていました。左手に祠があります。
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6/21 8:01
この場所は元はクランクになっていました。左手に祠があります。
この場所も元はクランク状になっていて交差点の右手に駐車場がありますが、おそらく昔の道筋だと思われます。
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6/21 8:07
この場所も元はクランク状になっていて交差点の右手に駐車場がありますが、おそらく昔の道筋だと思われます。
誉田八幡宮。こちらは裏門になりますが正面からの光景は河内一と言われる壮大さがあります。
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6/21 8:09
誉田八幡宮。こちらは裏門になりますが正面からの光景は河内一と言われる壮大さがあります。
ここで東高野街道と合流してゴールとしました。
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6/21 8:11
ここで東高野街道と合流してゴールとしました。
おはようございます、yaonyaosuke2さん!
おひさしぶりです。
新型コロナウイルス禍はkatatumuriの山ライフ、ウォーキングライフにも
大きな影響を与え、やっと最近、電車にも片道だけ2〜3駅乗れるようになり
ました
今回の古市街道、いい感じの街道ですね 古さを感じます。写真の誉田八
幡宮は記憶にありましたが、最後に東高野街道とあって納得。
スタート地点まで車で行くのは思いつきませんでした。Good Idea
最近は以前のように長い距離は歩けませんが、この古市街道13kmは程よい
距離。参考にさせていただき歩いてみます。お疲れさまでした。
おひさしぶりです。katatumuriさん。
街道歩き自体は散歩なのでいいのですが、
やはり行き帰りはどうするか悩ましいところでして
早く今までのような歩きをしたいものです
ちなみに今回の平野の駐車場は1日400円でした。
今やネットで現地の駐車場を調べれるようになりましたし、
この方法を使って街道を発掘していこかなと思ってます
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