いにしえの鎌倉街道をたどる〜高田馬場の”馬場”を訪ねて〜
- GPS
- --:--
- 距離
- 6.6km
- 登り
- 20m
- 下り
- 10m
コースタイム
天候 | 曇り |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2014年03月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
[復路]池袋駅+++高田馬場駅+++東伏見駅 |
コース状況/ 危険箇所等 |
特に問題となる箇所はない。 ■歩数 13787歩 ■鎌倉街道 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E8%A1%97%E9%81%93 鎌倉時代に、鎌倉へとつながる道が整備されました。「いざ鎌倉」ということですぐに武士たちが馳せ参じることができるようにということのようですね。 またWikipediaには、今回歩いた場所のことが次のように記されています。 南向茶話[編集] 江戸時代の寛延4年に酒井忠昌により著された「南向茶話」によると、『王子村の脇に谷村という所があり、畑道の間道が昔の当国の往還道であったため鎌倉海道と呼び伝えられているそうですね、と質問した。これに対し、そのとおりです。私(酒井忠昌)もそう聞いています。この谷村という所ではそのように呼ばれており、畑道も鎌倉海道と呼ばれています。谷村の古老の方に拠れば、当国の方には池沼が多くぬかるみの土地柄のため、現在の青山百人町の西北の方、原宿という所を経て、千駄ケ谷八幡の前(この土地では今も地名の小名として「鎌倉海道」と呼んでいる)、大窪を過ぎ、高田馬場より雜司ケ谷法明寺の脇を通り、護国寺の後ろを通り、現在の中山道を横切り、谷村、滝野川村を経て、豊島村より千住の方へ向かうのが、いにしえの道筋です、とのことです。この説を考察するに、その間の道筋に三箇所も旧名鎌倉海道が残っていることから、何の根拠も無いことではありません。現在の青山百人町から真っ直ぐに相模国の小田原への往還道を俗に中道と呼び、東海道より二里近く、日本橋より相州小田原まで十八里であり、・・・(後略)』とある。 ■鬼子母神 鬼子母神は、都電荒川線の駅のローマ字では「きしぼじん」となっていて、すぐ隣の道の案内には「きしもじん」となっていましたが、後者が正しいようです。鬼子母神堂の由来と歴史は、次のHPにありました。 http://www.kishimojin.jp/history/index.html 鬼子母神堂の由来と歴史 当山におまつりする鬼子母神(きしもじん)のご尊像は室町時代の永禄4年(西暦1561年)1月16日、雑司の役にあった柳下若挟守の家臣、山村丹右衛門が清土(文京区目白台)の地の辺りより掘りだし、星の井(清土鬼子母神〈別称、お穴鬼子母神〉境内にある三角井戸)あたりでお像を清め、東陽坊(後、大行院と改称、その後法明寺に合併)という寺に納めたものです。 東陽坊の一僧侶が、その霊験顕著なことを知って、ひそかにご尊像を自身の故郷に持ち帰ったところ、意に反してたちまち病気になったので、その地の人々が大いに畏れ、再び東陽坊に戻したとされています。 その後、信仰はますます盛んとなり、安土桃山時代の天正6年(1578年)『稲荷の森』と呼ばれていた当地に、村の人々が堂宇を建て今日に至っています。 現在のお堂は、本殿が寛文4年(1664年)徳川4代将軍家綱の代に加賀藩主前田利常公の息女で、安芸藩主浅野家に嫁した自昌院殿英心日妙大姉の寄進により建立され、その後現在の規模に拡張されています。 昭和35年に東京都有形文化財の指定を受け、昭和51年から54年にかけ、江戸時代の姿に復する解体復元の大修理が行われました。 鬼子母神は安産・子育(こやす)の神様として広く信仰の対象となっていますが、もともとの来歴には深いいわれがあります。 鬼子母神 その昔、鬼子母神はインドで訶梨帝母(カリテイモ)とよばれ、王舎城(オウシャジョウ)の夜叉神の娘で、嫁して多くの子供を産みました。 しかしその性質は暴虐この上なく、近隣の幼児をとって食べるので、人々から恐れ憎まれました。 お釈迦様は、その過ちから帝母を救うことを考えられ、その末の子を隠してしまいました。その時の帝母の嘆き悲しむ様は限りなく、お釈迦様は、 「千人のうちの一子を失うもかくの如し。いわんや人の一子を食らうとき、その父母の嘆きやいかん」と戒めました。 そこで帝母ははじめて今までの過ちを悟り、お釈迦様に帰依し、その後安産・子育の神となることを誓い、人々に尊崇されるようになったとされています。 当山の鬼子母神像は、鬼形ではなく、羽衣・櫻洛をつけ、吉祥果を持ち幼児を抱いた菩薩形の美しいお姿をしているので、とくに角(つの)のつかない鬼の字を用い 「雑司ケ谷鬼子母神」と尊称しております。 日蓮聖人は御書のなかで「十羅刹女と申すは10人の大鬼神女、四天下の一切の鬼神の母なり。また十羅刹女の母なり、鬼子母神これなり」と述べられ鬼子母神を重視されています。 もともと鬼子母神信仰は平安朝の昔から一般的な信仰としてありましたが、法華信仰に生きる者、日蓮宗に属する者にとって、鬼子母神はただ単に子供を守る神であるばかりでなく、信者・宗徒の外護神として崇められています。 ・鬼子母神は、法華経の守護神として日蓮宗・法華宗の寺院で祀られることが多く、「恐れ入谷の鬼子母神」で知られる、東京都台東区入谷の鬼子母神(真源寺)、東京都豊島区雑司が谷の法明寺鬼子母神堂、千葉県市川市の遠寿院(法華経寺塔頭)の鬼子母神が有名である(江戸三大鬼子母神)。 ・慶大の地理学の教授だった佐藤仁威はその著書「日本の文化と地域性」の中で「・・・・東京には三大鬼(実際には「鬼」の上の点をとった文字)子母神といわれてきた入谷鬼子母神、目黒鬼子母神、雑司ヶ谷鬼子母神があるが、鬼子母神様は夜叉の娘として自分の悪行の非を悔いて「鬼」としてのツノをとったのであるから「鬼[実際には「鬼」の上の点をとった字]」と書かなくてはならない。最近、これらのところに行ってみると看板屋が文字を知らないというか「歴史」を知らないというのか、「鬼」と書いてあって誤字だらけである。『「鬼」子母神』であっては子供の守り神でなく、子供を取って食べてしまう「恐ろしい鬼」となってしまうのである」と述べている。 ■高田馬場 史跡の「高田馬場跡」はかつての戸塚村の中、現在の新宿区西早稲田一丁目5の一部、および三丁目1〜2、12〜14番付近(西早稲田交差点の北側一帯、およびそこから西へ、早稲田通りと一本北の茶屋町通りに挟まれた一帯)にあたり、広さは東西へ6町(約650m)、南北へ30余間(約55m)。横長の形状をしていた。 |
写真
感想
新潮社が主催する新潮講座「東京古道散歩」の野外フィールドワーク2回目。
あいにくの曇り空。ときおり霧雨が身を包むような天気だったけれど、20人ほど集まったメンバーみんな元気に、荻窪先生の洒脱な語りを聴きつつ、いにしえの鎌倉街道を歩きました。
高田馬場から諏訪神社を経、早稲田大学のすぐそばにある穴八幡へ。古墳時代の横穴墓が発見されたことから、穴八幡の名前がつき、未公開ながら今でもその穴は境内にあるらしい。
長期にわたって改修を行っており、境内にはまだクレーンが作業中でありましたが、おおかた本殿は改修がすんで立派な姿によみがえっている。やはり神社も周囲の氏子さんたちの経済力によるところが大きいと思いました。
穴八幡から、高田馬場の名の由来となった”高田馬場”へと向かいました。
早稲田大学に近い西早稲田の交差点は、「高田馬場」があった場所の南東角にあたり、そこのお寿司屋さんには説明版がありました。(butちょうど工事中で一部が隠れてしまっています。でも全文が読めますよ)
かつて蹄(ひづめ)の音がぽこぽこ聞こえていたであろう”高田馬場”は、いまやドンキなどぎっしりと商店や住宅がひしめき合ってしのぶものは何もありません。それでもここを歩いていると馬のいななきや騎手たちのムチの音が聞こえてきたような気がしました。
高田馬場周辺は、東西に流れる神田川の南側の段丘上にあり(だから高田と云ったのか?)、ゆるやかに神田川・面影橋まで下ります。
面影橋では、都電荒川線が「電車なのに道路の赤信号でクルマと並んで停止する」”風景”を見たり、面影橋が江戸名所図会などの絵図でも紹介されていることを説明板から学びました。
そのあともかつての鎌倉街道沿いに歩き、宿坂で神田川の北岸の段丘を登り返すことになります。
途中鬼子母神に立ち寄って休憩しましたが、境内にある江戸時代からやっているという駄菓子屋”上川口屋”は閉まっていました。残念!
鎌倉橋があったと云われる小さな交差点を越え、東京音大を回り込み、最後は区役所の工事現場に張られている鎌倉街道の地図(これは傑作です!)を堪能して解散となりました。
天気に恵まれませんでしたが、歴史のタイムマシンに乗り、かつての旅人となったような充実した一日となりました。みなさん、ありがとうございました!
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