蟹ヶ谷古墳群現地見学会+お花見1
- GPS
- 02:12
- 距離
- 4.7km
- 登り
- 33m
- 下り
- 20m
コースタイム
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2014年03月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
|
写真
感想
右手親指付け根の骨折も治療が終わり、かなり右手の握る力も9割以上回復し、左膝の変形ひざ関節症も痛みが少なくなったので、そろそろ山歩きを再開しようかというところーー午前中、神奈川県川崎市の蟹ヶ谷古墳群の現地見学会に行き、その足で幕山の梅見、松田山の河津桜と、早春の花見歩きをすることにした。リハビリの最初としてはこんなものかーー
8時過ぎに自宅近くのコンビニに寄ってから、南武線の武蔵小杉で東急東横線に乗り換えて日吉へ。当初は元住吉から川崎市営バスに乗る予定だったが、幕山のある湯河原に出るのに日吉から横浜に出るので、日吉駅までの道を確認するためーー日吉駅から徒歩で往復することに。東横線の線路沿いを元住吉方面に戻り、矢上川沿いに西に向かう。日本山妙法寺を過ぎると、上流方面に丘陵地帯が見え始める。この奥が蟹ヶ谷古墳群のある尾根だ。対岸にある井田公園を過ぎるあたりで、河から離れ、細い路地を登ると中原老人福祉センター入口の信号とバス停に出る。元住吉からのバスはここに出る。地図をよく見て、中央右の階段を上る。丘陵地帯の上を目指すと住宅地の先に福祉施設群が見え始める。古墳見学会を案内する学生が立っていたので道を確かめる。福祉センター先の養護施設を右折し、道なりに古墳群入口に出ると、見学会の受付があった。
受付を済ませ、古墳群を散策する。三号古墳から一号、二号と歩いて全体の地形把握につとめ、四方の斜面の道を確認する。古墳に戻って出土品の埴輪のかけらやトレンチの発掘状況を見る。学生が丁寧に発掘している光景を観察しているうちに、時間となり、見学会が始まる。ケーブルテレビ局も取材に来ているそうだ。
この川崎市に残された最後と思われる前方後円墳の発掘は昨年から開始された。4年前の3.11の東日本大地震の際に、この古墳のチェックに訪れた市民ミュージアム担当者から、崩れた斜面の状況から前方後円墳発見の一方があり、調査の結果、昨年から発掘作業に入ったという。見学会が始まり、発掘事業代表者として、日大の浜田教授が解説を始める。発見の一報から、地元の専修大学考古学教室と川崎市と縁の深い日大の浜田教授と川崎市教育委員会とでチームを組んで発掘調査を担当することになったようだ。またこの辺り一帯は神庭緑地として、川崎市と、ボランティアとで管理され、下草刈りなどが行われていたため、前方後円墳の発見につながったといえる。川崎市は、歴史的には多くの古墳があったはずだが、急速な工業・都市・宅地開発などで、もはや前方後円墳などはすべて失われたと考えられていたが、最後の前方後円墳であるとすれば貴重な古墳だ。日大の浜田教授は昨年、日大文理学部の弥生土器展の時に展示解説(学生に対する考古学の基本解説をしていた)でお目にかかっている。
さて、一号古墳からトレンチごとに、発掘調査の基本的な解説が行われた。昨年も見学会が行われたようだが、昨年はまず測量の段階で、発掘は始まっていなかった。今回は最初の発掘調査で、わかったことを報告する。
まず、古墳の規模を確認するために、周辺を少しづつ掘る。トレンチという細長い溝に番号を付けて発掘作業を進めていく。発掘というのは一面遺跡の破壊につながり、一度掘ると永久に失われてしまう情報もある。したがって、「遺跡の保存」を考えながら、極力破壊しないように少しづつ進めるのが、考古学の発掘作業の基本になる、と解説の浜田教授。一度に発掘してしまうと取り返しのつかない事態にもなりかねない。発掘場所を残しておくのも、将来の世代がより優れた技術、方法を編み出すかもしれないし、「遺跡の保存」上も必要だ。だから、遺跡をいっぺんに掘り返すということは行われない。
最大の一号古墳’前方後円墳)には2,9,10,11の4つのトレンチが掘られている。9〜11のトレンチでは墳丘の側面に並行した溝の跡が現れた。墳丘を区画する溝のようだが、上から見ると発掘側で白い線が引かれているが、それでなければよくわからない。円墳部の北西側の第二トレンチからは、より広い溝跡が見つかっている。しかし浜田教授によれば溝の外は赤い関東ローム層が出ており、溝の中になると黒い土が混ざっており、ローム層とはやや異なる。つまり、かつて、溝を掘ったために、ローム層でない新しい腐植土が最終的に溝に入り込み、現在のような姿になっているという。土質の違いがかつての溝の姿を示しているということだ。また一号古墳のトレンチからは、埴輪などの破片が出土しており、その破片の観察から、この古墳は6世紀終わりごろのものであるらしい。
一号古墳の西側は農地造成のため、かなり斜面が削られて急になっており、遺構がかなり失われている可能性が高いようだ。そのため、溝の底の部分しか残らなかったとう。また第9トレンチからは、堆積の厚い黒色土が見つかったが、ここからは8千年前の縄文土器破片が出ている。この古墳の南側にある養護学校の建設時に縄文時代の住居跡などが出土し、8千年前はこの辺りまで海岸線が迫っていたことから、このあたりは古墳時代のはるか前にローム層を掘って居住した縄文人が存在していたようだ。その後人が住まなくなり、古墳時代になって、こうしたかつての住居跡を含めた場所に古墳を造成したものらしい。この一号古墳より後に造られたと思われる2号古墳は、現在第一トレンチの発掘が進められ、溝の部分と盛り土の跡が見つかっている。これは土の色の変化などから推定されている。このため、この円墳(と思われる)の規模は見かけよりも大きい可能性があるようだ。いずれにしても、まだまだ発掘途上で、未解決の謎もいくつか出ている。こうした謎を解いていくことが今後の発掘作業上のテーマでもある。今後の発掘成果に期待したい。
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