港北の狩人ー横浜市立博物館訪問記
天候 | 晴れ |
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過去天気図(気象庁) | 2015年12月の天気図 |
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電車
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写真
感想
どこかでポスターを見て気になっていた横浜市立歴史博物館の「港北の狩人」展を見に行く。中央国家形成期には武蔵国に属していた横浜市域だが、旧石器・縄文時代は無論そんなことは関係ない。地形的には港北は鶴見川とその支流の矢上川、早渕川などに挟まれた台地上の地域が多い。博物館の浦山には弥生時代の大塚・歳勝土遺跡があるように、この辺りは水や石、動物や魚介類などが容易に得られる暮らしやすい場所だったのだろう。石器を見ると、姶良AT層の下から出土しているので、3万年よりは前の時代から住み着いていることになる。4万年前ごろの氷河時代の後期に列島に南北からやってきた狩人たちがおそらく関東で出会い、独自の文化を形成していったと思われる。氷河期であったために海水面は100mほど下がり、港北は標高100m以上の高台だったようだ。港北ニュータウンの各遺跡(北側貝塚南遺跡・畳屋の上遺跡など)から発見された炭化物の調査から、当時は針葉樹に交じって落葉広葉樹も生育し、針葉樹広葉樹混交林だったことがわかる。現在の東北か北海道位の寄稿だったようだ。後期旧石器時代には生息していた大型動物ーナウマンゾウ、ヤベオオツノジカ、バイソン、ヘラジカなどーは次第に温暖化する環境や狩猟圧などにより次第に減少し、やがて列島から姿を消していく。彫器や細石刃はそうした氷河期終末の石器のようで、北川表遺跡の黒曜石は信州産、権田原遺跡出土掻器の石材は日本海側の頁岩で、当時の移動距離の長さを示すか?北川表・権田原遺跡からは赤く焼けた礫集中部があり、この場で調理などを行ったことを示している。
港北ニュータウン西側の谷本川東岸の四枚畑遺跡からは切り出し状ナイフ形石器・尖頭器、多量の剥片があり、接合関係があることから、石器製作地と考えられている。その北方の三ノ丸遺跡からは二倍の長さの剥片が出ており、石器製作技術が異なる集団が生活していたと考えられている。鶴見川上流部では花見山遺跡のような縄文草創期の遺跡があり、最初期の隆線文土器片の他、槍型尖頭器、有舌尖頭器や石鏃もまとまって出土し、大型動物からシカやイノシシなどの注。小型動物が増加し、生活スタイルが変化していくその過程を示しているようだ。
2時からは常設展示室の古墳・古代の展示室で学芸員による展示解説(毎最終土曜日)があり、宅地開発などで大半はその姿を消してしまったとはいえ、残された出土品から当時の村とその有力者による弥生時代形続く各河川流域開発の姿、古墳時代交換の谷戸開発の姿の興味深い話、出土した甲冑や刀剣などに見るヤマト王権との関係、埴輪に見る関東地域の他の有力者らとの関係など、見どころは多い。神奈川県内では唯一出土しているこの時代の甲冑は短甲で三角板鋲綴短甲で、帯金式であり、5世紀に入ってヤマト王権が大阪湾岸で数多くの鉄器生産、武具・武器生産を行って各地の有力首長に配給した状況が浮かび上がる。これが古代に入ると、有力首長らは独自に鉄・鉄器生産や潮の生産などをはじめ、「富豪」と呼ばれてやがては武士団を形成していくその過程を示す遺跡もあるようだ。
また青葉区長者ヶ原遺跡は武蔵国都築郡の郡衙(郡家)遺跡で、郡庁・厨・正倉・館という郡衙を構成する主要な建物遺構が発見されているが、高速道路建設で遺跡が残らなかったのは大変残念だ。隣の川崎市では現在橘郡の郡衙の発掘が盛んに行われ、すでに国史跡に指定されている。
横浜市は横浜港や東京を控えて明治以降開発が急速に進み、多くの遺跡が失われてしまったのは返す返すも残念だ。残された遺跡や遺物を大切にして過去の姿を復元し、将来を見据える作業を続けてほしいものだ。展示解説の後、しばらく学芸員さんに質問をして展示を見ながらその後、外の大塚。歳勝土遺跡を見学し、帰宅した。
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