![]() |
自分事でいえば、音楽をやっている時期は山やら海にはまるで縁がなくなり、山や海に行っている時期は音楽からまるで遠ざかってしまう。集中していると、お金も時間も余裕などなくなる。どちらか一方が生活の中心になってしまう。
それでも記憶の中を辿ると、いくつか結びついているイメージがある。
昔二人(母親と(^^;)で北アルプスの後立山を白馬から縦走した。針ノ木峠まで来て、この後どうするかで意見が分かれ、母親は黒部、剣の方面に、自分は船窪の方面に行くことになった。食料もほとんどなくなり(夕食は小屋で食べる)、昼にインスタントラーメンの汁だけ作って飲むという山行になったが、北アルプスレベルの山を単独で歩くのは初めてだったので、とても印象に残っている。
船窪は思ったとおり、とても良いところだった(本当は以前行った南沢岳まで行って、白馬から笠ヶ岳まで繋ぎたかったのだが)。でも、船窪小屋で、なぜか延々とユーミンの「何もなかったように」がかかっていた記憶がある。もしかしたらアルバム「14番目の月」だったのかもしれないが、この曲だけ妙に印象に残っているのだ。
小屋の人のお気に入りだったのだろうか、すでに自分の中では、船窪といえば、「何もなかったように」になってしまっている(^^; というか、この曲を聴くと、船窪の光景が浮かんでくる。離れがたく、結びついてしまった。
まだ高瀬ダムが出来る前か、出来てすぐだったと思うが、ひとりでの旅はとても緊張もしたし、楽しかった。そういう状況もあったのだろう。
北八のイメージは、バロック(以前書いたように、黒百合ヒュッテでコンサートをやっていたせい)。
千葉の山は、ロマンポルシェ。だ(千葉に何度も行っていたころ、丁度ハマって車でよくかけていたのでw 千葉すまん(^^;)。
山ではないが、チャクラの「島の娘」を聞くと、長者ヶ崎の海の香りがする。毎週通っていたころ、いつも聞いていた。
そのくらいで、基本的に、山では音楽を連想しない。多分、音楽を必要としないのだろう。そこには、すでに音楽があるようなものだから。風の音や鳥の声はもとより、何も音がせず、耳がつーんとなるような感じ、音楽があると、そういうものをすべてかき消してしまう。つまり、邪魔なのだ。実際に山にいたら、リヒャルト・シュトラウスの音などうるさくてたまらないのだ(^^;
人間の作り出す音が劣るわけではない。存在感がありすぎる。両立しないものなのだろう。自分にとっては、どちらも比較などできない。
とはいっても、たまにいいなあと思う曲もある。そこに行くと、聞きたいなあと思うような曲。
たとえば、宮ヶ瀬に行くと、この曲を聴きたくなる。
「みやがせの歌」
http://www.voiceblog.jp/koheijapan/1647452.html
http://www.nicovideo.jp/watch/sm18672959
(ニコニコ動画のアカウントが必要)
変な声だなあと思った人は正しい。知っている人も少しはいるだろうが、歌っているのはボーカロイドというパソコンのソフトである。
これは名曲だと思う。ぜひ宮ヶ瀬のテーマソングにしてください(^^;
写真:辺室山に向かう稜線から宮ヶ瀬湖を望む
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する