夜道で鹿の新しい仏さんを見た。
近づくまで「丸い金属のような大きいもの」に見えたのは鹿の腸を包んでいるものだった。
人に例えるなら上半身の部分はいたって綺麗で眠っているように見えるくらいだった。
が鹿はあんな格好で道の真ん中で眠りはしないし、臓器を包んでいるであろう風船のような物はえらく生々しかった。
このシチュエーションで「これは生でもいけっから」「焼き肉どぅわー!」とならなかった理由について昨日から考えている。
瞬間思ったことは「可哀想に。なにかかけてやるとか埋めてやらなくてよかろうか。」だった。
実に自己満足的な発想だが瞬間はそう思った。
結局、埋めるも食べるもしなかった訳だが。
解体に必要な最低限の物はあったと思うが現実的には「面倒」というのも1つの理由としてあったのかもしれない。
でも瞬間自分が思ったのは「コワイ」だった。
その時は鹿が病気で死んだ可能性等衛生的な事については考えていなかったし、食べたら鹿に祟られるなどと思いはしないのだがなぜだろうか。
何がコワカッタのだろうか。
夜道で鹿肉を切り取るシチュエーションそのものだろうか。
では昼間のジビエパーティーなら嬉々としてやっただろうか。
どうもよく分からない。
つい1週間前、血の滴る鹿リブを前に包丁のキレが悪いとかULのピッケルじゃ骨が折れない役立たずと笑って鹿肉を頂いていたのはなんだったのだろうか。
切り身は生き物の命を食らうという感覚を麻痺させるからだろうか。
自分で仕留めるのに躊躇するなら分かる。
毎日、色んな生き物を頂いてはいるが自分で殺す事はなかなかないのだから。
しかしあれは死んでいた。
翌日の帰り道で大鷹が2匹飛んでいったと思ったらその下で四肢がバラバラになっていた。
不思議とその時は可哀想だともコワイとも思わなかった。
ただ、どうせなら自分が食べれば良かったかと思った。
あの夜道で私は何がコワイと思ったのだろうか。
何だかよくは分からないがコワくて良かったとは思う。
食って食われて生きるはずなのだろうが人はまず食われない。
だからよくは分からないが瞬間コワイと思えて良かったとは思う。
このコワイは人ならではだろうか。
いずれ釣りや鉄砲に手を出すにしてもあの鹿の事をおぼえていたいと帰ってきてから思った。
こんにちは。
ご無沙汰しております。
コメ欄に登場しておきつつなんですが、
話題が高尚すぎて、言いたい事がまとまらないのですが、
考えさせられる良いお話しでした。
何がコワかったのか、私なんぞには判るよしもありませんが、
私もこの日記を読ませて頂いた事をおぼえておきたいと思います。
しかし、
>ただ、どうせなら自分が食べれば良かったかと思った。
…さすがです。
なにやら難しい題材でw
道端の死体は感覚的にコワイし可哀想にと思う
台所の肉塊は食料にしか見えないしおいしそうとも思う
山道で生きて飛び跳ねてる鹿はかわいいと思う
シチュエーションもあるんだろうなとは思います。
ありえない話だけど仕事から帰ったら台所に鹿の死体
があったら・・・・
矛盾してようと偽善的であっても
どれも自分の中にある心だからねー
全部かかえてるからおもしろいよね
【takecさんへ】
いえいえ。決して高尚な話しなどではありません。
ただ、ふとなぜ食べなかったかなと^^;
刺しは駄目でも焼きはイケたんじゃないかとか下山してから考えましたね。
しかし瞬間は…本能的に美味しそうだなあとは思えませんでしたよ。うん。
お久しぶりですね。コメントありがとうございます^^
【悦楽お師匠へ】
そうですね。シチュエーションというのは大きい要素のようです。
帰宅して鹿の死体を見たら普段あり得ない状況という意味ではコワイですが、それが例えば管氏邸であったなら「ワーイ!鹿刺しどぅわー!」と思わないとは…言い切れない…かも。
しかし知性の優劣が生き物の優劣ではないのでしょうが、狩猟ひとつとっても魚だとそうでもないのに鹿だと遥かに罪悪感を感じてしまいそうなのは人間のサガですかねえ。
切り身も丸々一頭も同じだろうに人間の感覚とはある意味面白いもんです。
ところで来夏は源流釣りに参りましょう^^←(食べる気満々
自分で(あるいは人が)とらえた(殺した)ものは食べても、死んでいるものを食べたりはしない。そのような巨大な教育システム(タブー)が脳の中にあるのかもしれない。だから同じ肉であっても「おいしそう」と思えないんじゃないかな。「あれは肉だ」「あれは屍体だ」ふたつの思いが交錯してる感じ…。あらゆるタブーはきっと幻想なんだろうけど、人間は幻想の中で生きていくしかない。「食べてはいけない」と私も子どもに教えると思う。
いろいろ考えました。
おはようございます。はじめまして
たぶん、よごれとけがれの精神上の違いだったのではないでしょうか。死体に見て取れたものは、背景にある確認できない死への怖れ。よごれは洗えても、けがれは落としにくいものです。つまり、よごれは物理、けがれは心理です。
私も山道で鹿の死体を見た際には、食欲よりも恐怖感がわきました。
【kiyoshiさんへ】
屍体。そうですね。
まさに屍体だったんですよね。
頭の中にというか心の中にというかタブー視する何かがインプットされているのでしょうね。
さらにコメントを下さったjinzaemonさんのお話とも通ずるのでしょうが「食糧」ではなく「穢れと瞬間的にとったのだというのがシックリきました。
やはりこの感覚は人ならではかもしれません。
【jinzaemonさんへ】
こんばんは。はじめまして。
穢れ・死に対するおそれという言葉がとてもしっくりくるような気がいたしました。
人が長い歴史と共にもった感覚なのか本能的なものなのか私には分かりませんが。
あの鹿の事をおぼえていようとまた思いました。
皆さんコメントありがとうございます。
意地汚い私ですがよく考えるキッカケを頂きましたm(__)m
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