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四十三万の滝(よんじゅうさんまんのたき)

最終更新:malten
四十三万の滝
四十三万の滝
先日訪れた修学院離宮 【テキスト】   京都市北郊に後水尾上皇が造営した広大な山荘。幕府の朝廷圧迫政策を不満として寛永六年(一六二九)に退位した後水尾上皇は、隠棲の地を洛北に求めていた。  上皇は、聖護院宮の山荘の近くの長谷殿や顕子内親王の山荘の中の岩倉殿、また比叡山の借景で知られる円通寺の地に営まれた幡枝御所などに、女院としばしば御幸していた。  退位から四半世紀を過ぎた承応四年(一六五五)、長谷殿に御幸していた上皇は、第一皇女梅宮(円照寺尼宮)が修学院村に営む草庵を訪れた折、その草庵にほど近い上皇の御茶屋隣雲亭のあたりをようやく適地と定め、山荘の造営を開始した。  山荘は万治二年(一六五九)にはほぼ完成したが、造営にあたっては、上皇自らがプランを練ったようだ。近衛予楽院の記録『カイキ』によると「御庭ノ一草一木二至ルマデ尽ク後水尾院ノ御製ナリ」と記されている。それは「雛型ガ出来テ、草木ヲハジメ踏石、捨石ニ至ルマデ、皆ソレゾレニ土ニテ石形ヲコシラヘ、ソノ処置テ見テ、恰好ヨキヤウニアソバシ」といわれるほど徹底したものであった(同前)。  現在は上中下と三ヵ所に茶屋があるが、当初は上の茶屋と下の茶屋の二ヵ所であった。今に残る天和年間(一六八一〜八四)の指図によると、上の茶屋には大堰堤が築造され、比叡山から流れ出る音羽川の渓流を引いた浴龍池があり、窮邃亭や隣雲亭などが配されている。この隣雲亭からは、今も京都市街が一望でき、修学院離宮を代表する絶景の地といえる。  また万治二年(一六五九)、山荘に招かれた鹿苑寺の鳳林承章は、日記『カクメイキ』のなかで「御庭の滝風景凡そ眼を驚かせ、肝胆に徹するものなり、二階の御亭隣月亭、寿月観所々の御飾、目を驚かすものなり」と記している。これは下の茶屋のことを記したものと考えられ、寿月観は上皇、女院が御幸した時の御座所であった。  一方、中の茶屋は当初から離宮内に造られていたのではなく、かつて同地にあった林丘寺内の楽只軒・客殿などの建物が、明治十九年(一八八六)林丘寺の移転に際し、そのまま同地に残されたため、離宮に取り込んだものであった。ちなみに楽只軒は寛文八年(一六六八)頃、後水尾上皇が第八皇女朱宮光子内親王の御所として造営したものであり、客殿は天和二年(一六八二)後水尾上皇の中宮東福門院の御所から奥御対面所を移築したものであった。  文政七年(一八二四)には徳川家斉の援助によって大規模な修理が加えられ、同年には光格上皇が御幸。その後、家斉が太政大臣に任ぜられたお礼として、修学院御幸の費用を提供したことから、上皇による御幸は以後も続けられた。なお後水尾上皇が、鹿苑寺の鳳林承章に命じて修学院離宮十境を選定させた。そのうちの七境菩提樹.寿月観.洗詩台.隣雲亭・窮遼亭・浴龍池・万松鳩は今も残る。  また修学院離宮内には、かつて修学院焼と呼ばれる御庭焼の窯があった。これは後水尾上皇が好みの品を焼かせたもの。寛文四年(一六六四)に窯開きの行われたことは記録によってわかるが、上皇の没後は使われなくなった。この窯は享保年問(一七一六〜三六)、霊元法皇によって再興されるが、その後ふたたび廃れ、明治十二年(一八七九)には五条坂の三代清水六兵衛の弟子が焼いたというが、不明な点が多い。
基本情報
場所 北緯33度00分03秒, 東経130度56分56秒
水場
危険個所
展望ポイント

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