(はじめに)
この3−5章では、3−4章で説明した、木曽駒ヶ岳、宝剣岳に続いて、木曽殿越のコルより南へと続く稜線上にある、空木岳(うつぎだけ、標高;2864m)、南駒ヶ岳(2841m)、仙涯嶺(せんがいれい、2734m)、越百山(こすもやま、2613m)あたりの地質と地形的特徴について説明します。
1)中央アルプス南部の地質
木曾殿越えは中央アルプス中核部にある大きなコルですが、その南側にも、空木岳(うつぎだけ)、南駒ヶ岳などの2600−2800mの高峰が続いています。
この付近の地質も、山稜部は、産総研「シームレス地質図v2」を確認すると、前章で紹介した木曽駒ヶ岳あたりと同じ、花崗岩類(花崗閃緑岩、トーナライト)でできています。
詳細は前章で述べましたが、白亜紀後期に、地下深くでできた花崗岩類が、第四紀における中央アルプスの急激な隆起により、地上に現れ、険しい山々を形成しているものです。
また、山麓部は、中ア中核部と同様に、「領家変成岩類」が分布しています。
例えば空木岳から伊那谷側へ下る池山尾根を行くと、標高1700m付近に、池山という小ピークがありますが、「地質図」によると、その付近は領家変成岩類(主に泥質片麻岩)が分布しています。
これも前章で述べた通り、もともとは主稜線を形成している花崗岩類の構造的上位にあった地質が、稜線部では隆起に伴う浸食によってその地層が失われてしまい、隆起量が少ない山麓部にのみ、残存しているものと考えられます。
この付近の地質も、山稜部は、産総研「シームレス地質図v2」を確認すると、前章で紹介した木曽駒ヶ岳あたりと同じ、花崗岩類(花崗閃緑岩、トーナライト)でできています。
詳細は前章で述べましたが、白亜紀後期に、地下深くでできた花崗岩類が、第四紀における中央アルプスの急激な隆起により、地上に現れ、険しい山々を形成しているものです。
また、山麓部は、中ア中核部と同様に、「領家変成岩類」が分布しています。
例えば空木岳から伊那谷側へ下る池山尾根を行くと、標高1700m付近に、池山という小ピークがありますが、「地質図」によると、その付近は領家変成岩類(主に泥質片麻岩)が分布しています。
これも前章で述べた通り、もともとは主稜線を形成している花崗岩類の構造的上位にあった地質が、稜線部では隆起に伴う浸食によってその地層が失われてしまい、隆起量が少ない山麓部にのみ、残存しているものと考えられます。
2)中央アルプス南部の山々の地形
この地域について、地質についてはあまり述べることがないので、地形的な特徴を主な山ごとに見ていきます。
まず日本百名山でもある空木岳と、その南にある南駒ヶ岳は、似たような山容をしています。具体的には、遠目からでもはっきりわかる大きな山体で、山稜部には花崗岩の巨石(コアストーン)群がごろごろと転がっていて、花崗岩の山ならではの風景を作っています。特に空木岳では、頂上の少し東側に「駒石」とよばれる20mほどの巨岩があり、シンボル的な存在です。
風化、浸食の度合いからいうと、この2つの山は、木曽駒ヶ岳よりは風化、浸食が進んでいる感じです。
南駒ヶ岳の更に南には、仙涯嶺(せんがいれい)という山がありますが、この山は花崗岩の岩稜でできており、標高は空木岳などよりも低いものの、意外と険しい山です。
風化、浸食の度合いからいうと、空木岳よりさらに浸食が進んでいる感じです。
さらに南へ下ると、越百山(こすもやま)に至ります。この山は仙涯嶺とは対照的に穏やかな山容をしています。通常は、この越百山が南アルプス主要部縦走路の南端です。ここから木曽側へ下ると越百小屋があり、さらに登山道は木曽谷側へと続いています。
主稜線はさらに、越百山より南へと延びており、稜線上に登山道が続いているようですが、標高2500m付近より下は樹林帯になっており、稜線上にも目立つピークは見られなくなります。この付近は中ア中核部よりも標高が相対的に低いことや、稜線部まで森林帯のためか、まだ大きく浸食されてない状態だと思われます。
その他の特徴的な地形としては、氷河地形として、「すり鉢窪カール」が挙げられます。この「すり鉢窪カール」は、南駒ヶ岳の東側にあり、地形図では明瞭なカール地形を示しています(文献1)。
なお、空木岳の東側斜面に、長さ 約1000m、最大幅 約500mの、舟形をした緩斜面がありますが(頂上直下から、空木岳避難小屋がある標高 約2500m付近まで)、これも氷食地形の一種ではないかと思います(私見)。
まず日本百名山でもある空木岳と、その南にある南駒ヶ岳は、似たような山容をしています。具体的には、遠目からでもはっきりわかる大きな山体で、山稜部には花崗岩の巨石(コアストーン)群がごろごろと転がっていて、花崗岩の山ならではの風景を作っています。特に空木岳では、頂上の少し東側に「駒石」とよばれる20mほどの巨岩があり、シンボル的な存在です。
風化、浸食の度合いからいうと、この2つの山は、木曽駒ヶ岳よりは風化、浸食が進んでいる感じです。
南駒ヶ岳の更に南には、仙涯嶺(せんがいれい)という山がありますが、この山は花崗岩の岩稜でできており、標高は空木岳などよりも低いものの、意外と険しい山です。
風化、浸食の度合いからいうと、空木岳よりさらに浸食が進んでいる感じです。
さらに南へ下ると、越百山(こすもやま)に至ります。この山は仙涯嶺とは対照的に穏やかな山容をしています。通常は、この越百山が南アルプス主要部縦走路の南端です。ここから木曽側へ下ると越百小屋があり、さらに登山道は木曽谷側へと続いています。
主稜線はさらに、越百山より南へと延びており、稜線上に登山道が続いているようですが、標高2500m付近より下は樹林帯になっており、稜線上にも目立つピークは見られなくなります。この付近は中ア中核部よりも標高が相対的に低いことや、稜線部まで森林帯のためか、まだ大きく浸食されてない状態だと思われます。
その他の特徴的な地形としては、氷河地形として、「すり鉢窪カール」が挙げられます。この「すり鉢窪カール」は、南駒ヶ岳の東側にあり、地形図では明瞭なカール地形を示しています(文献1)。
なお、空木岳の東側斜面に、長さ 約1000m、最大幅 約500mの、舟形をした緩斜面がありますが(頂上直下から、空木岳避難小屋がある標高 約2500m付近まで)、これも氷食地形の一種ではないかと思います(私見)。
(参考文献)
文献1)町田、松田、海津、小泉 編
「日本の地形 5 中部」東京大学出版会 刊 (2006)
のうち、4−6章「中部山岳(日本アルプス)の氷河地形」の項
「日本の地形 5 中部」東京大学出版会 刊 (2006)
のうち、4−6章「中部山岳(日本アルプス)の氷河地形」の項
このリンク先の、3−1章の文末には、第3部「中央アルプス」の各章へのリンク、及び、序章(本連載の各部へのリンクあり)を付けています。
第3部の他の章や、他の部をご覧になりたい方は、どうぞご利用ください。
第3部の他の章や、他の部をご覧になりたい方は、どうぞご利用ください。
【書記事項】
初版リリース;2020年10月3日
△改訂1;文章見直し、一部修正。3−1章へのリンク追加。書記事項追記。
△最新改訂年月日;2022年1月5日
△改訂1;文章見直し、一部修正。3−1章へのリンク追加。書記事項追記。
△最新改訂年月日;2022年1月5日
お気に入りした人
人
拍手で応援
拍手した人
拍手
ベルクハイルさんの記事一覧
- 日本の山々の地質;第7部 東北地方の山々の地質;7−9章 奥羽山脈(3)奥羽山脈の非火山の山々、及び奥羽山脈の隆起について 8 更新日:2024年01月27日
- 日本の山々の地質;第7部 東北地方の山々の地質、7−8章 奥羽山脈(2) 奥羽山脈南半分の火山群 11 更新日:2024年01月15日
- 日本の山々の地質 第1部 四国地方の山々の地質、 1−10章 香川県の山々;讃岐山地、香川県の山々の地質と地形 18 更新日:2023年03月18日
※この記事はヤマレコの「ヤマノート」機能を利用して作られています。
どなたでも、山に関する知識や技術などのノウハウを簡単に残して共有できます。
ぜひご協力ください!
bergheilさん、おはようございます。
bergheilさんの膨大な知識に毎回圧倒されています。
地質のお話しから脱線して申し訳ありませんが、伊那谷について自分は妄想を持っています。
日本列島がほぼ現在の位置に到達した1500万年前にフォッサマグナは海であり、フォッサマグナに流れる川があったはずです。
自分は、吉野川と天竜川はほぼ中央構造線に沿う川で、天竜川は現在と反対、即ちフオッサマグナに流れていたと妄想しています。地図をみると伊那谷は結構広いです。伊那谷が東西に長い徳島平野に似ているように見えるのです。
ただ、1500万年前は南アや中央アが隆起する前ですので、現在の場所に天竜川が存在していたか不明と思いますが。
天竜川が逆流していた。もしそのような文献があれば教えていただければ幸いです。
fijikitaさん、コメントありがとうございます。このヤマノートの連載で、コメントを頂けると、ちょっと張り合いがでます。
さて、伊那谷の起源や、天竜川の流れに関してですが、十分なお答えにはなってませんが、私の頭の整理のためも含め、調べた内容を、以下、つらつらと書いてみます。(長文で失礼します)。
まず、約2000-1500万年前に起きた、日本海拡大/日本列島の移動の時代から話を始めましょう。
この日本海拡大/日本列島移動イベントにおいて、日本列島に相当する部分は、西南日本ブロックと、東北日本ブロックの大きく2つに分かれて移動した、ということは、古地磁気学により明らかにされています。
西南日本ブロックの東の端は、地質の連続性が断ち切らている現在の糸静線であることは、ほぼ定説です。(なお東北日本ブロックの西の端は不明)。
西南日本ブロックと東北日本ブロックの移動様式や、移動後の位置関係については諸説あり、明確ではありません。
なお、文献1)によると、今のフォッサマグナ地帯は、約1500万年前においては、西南日本ブロックと東北日本ブロックと間にできた地溝帯として存在し、海峡状の細長い海だった、とされています。
そのころの、西南日本ブロックの地形(古地理)については、なにも解っておらず、天竜川も含め、どういう川やどういう山があったのかは全く不明です。
次に、時代が飛んで、鮮新世(約530〜260万年前)および第四紀(約260万年前〜現在)ころの話に移ります。
日本列島移動イベントの後、日本列島は長く平穏な時代が続き、約600万年前ころ(中新世末)までは、日本列島は平坦な地形が広がっていた、と想定されています。文献2)によるとこの時代、南アルプス/伊那谷/中央アルプス/三河高原にいたる一帯は、広い浸食小起伏面(低い丘陵地帯)と想定されています。
新第三紀 鮮新世になると、少し変化が生じ、伊那盆地の底には、飛騨、奥美濃地方に広がっている、「濃飛流紋岩」と呼ばれる地質による礫が見られるようになります。ということは、飛騨、奥美濃から伊那地域へ向かう、北西部が源流部で南東へ流れる古河川が推定されています(文献2)。
その後、第四紀に入って、特に日本の中部地方は強い東西圧縮応力場となり、南アルプス、中央アルプス、北アルプスなどが隆起し、伊那谷や松本盆地は逆に沈降場となり、盆地化しました。
第四紀初期(約250万年前)には、伊那盆地には南アルプス起源の礫が堆積するようになり、また、天竜川の下流に相当する、静岡県掛川市付近の堆積層にも同様に、南アルプス起源の礫層が見られます(文献2)。
つまり、少なくとも250万年前頃には、南アルプスが山地として隆起しはじめていたとともに、南北に長い伊那谷が形成され、そこに天竜川が南流して、現在と同様に太平洋側(静岡県)に流れていたことがわかります。
文献2)によると、天竜川の中流域(伊那盆地より南)のちょっとした山地部分(下条山脈)は、約200万年ころから隆起したようですが、天竜川はそこを下刻しつつ南流を維持した、先行河川ということになります。
ということで、手持ちの資料を調べてみましたが、天竜川水系の古流路は、約250万年前までしか遡れないようです。
※ 地質学は現地で地質を調べることによって、過去の地質堆積状況などを復元できますが、古地形(古地理)学は、なかなか復元のための証拠が無くて、
難しいですね。
文献1)「日本地方地質誌 第5巻 中部地方」のうち、第13章「北部フォッサマグナ」の項。
文献2)「日本の地形 第5巻 中部」のうち、4−9章(1)「伊那盆地(伊那谷)」の項。
ご回答をいただき心より感謝いたします。600万年前以後の中部地方の地形がイメージできました。
しかし凄いです。何でもご存じで眩暈がしてきました。
余談ですが、自分が天竜川は逆流していたのかなと妄想を抱いていた時に、BLUE BACKS の「川はどうしてできるか」藤岡勘太郎著を読みましたら、著者は荒唐無稽な考えと前置きしていますが次のようにおっしゃっています。天竜川の源流は、日本海が出現する前は大陸だった。塩尻市の善知鳥峠はなく犀川(信濃川)は北から南に流れ、これが天竜川の原型だった。そして大陸ではウスリー川に繋がっていた(現在ウスリー川はアムール川の支流で日本海に流れていませんが)。
素人の自分が意見するのは失礼ですが、このお考えはちょっと飛躍しているかなと思っています。
自分はBergheilさんのような膨大な知識を持っていません。成書を読む必要があることは認識していますが、現場主義の私には地図(地質図)を見た時や登山中に疑問に思ったことを調べるほうが性に合っています。
今後も質問させていただくかと思いますが、宜しくお願いいたします。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する