天皇陵巡礼3(王寺〜香芝/ 孝靈・武烈・顯宗の三天皇)
- GPS
- 10:14
- 距離
- 9.7km
- 登り
- 43m
- 下り
- 43m
コースタイム
- 山行
- 2:05
- 休憩
- 0:10
- 合計
- 2:15
過去天気図(気象庁) | 2017年07月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
電車
●帰り = 香芝 12:43 (大和路線快速・難波行・500円) 天王寺 13:16 |
写真
感想
天皇陵巡り第3弾。今回もひとりで。
王寺駅から南へ。川を渡って交通量の国道168号線を進む。
今日の最高気温は34度の予想。最初から汗を拭き拭きの暑さだ。
達磨寺の向い、王寺小学校の北辺を右折したが、これは間違い。
小学校の南を右折して住宅街に入り、急坂を登っていくと、第7代 孝霊天皇陵の制札があった。
林の中のため虫がブンブンまとわりつく石段を登っていくと、陵墓。立派なたたずまいだ。
参拝。祈るは個人的な細かいことではなく、周辺の敵国や在日左翼からこの素晴らしい日本をお守りくださいというようなこと。私はこのおこないを聖地巡礼のようなものだと感じてきた。これからは「天皇陵巡礼」とする。
高台の住宅街を通って南下。
国道に合流し、車がひっきりなしに通る道を行く。柵はなく、ただ白線で区切られただけの狭い歩道で、「危険箇所」だ。
西名阪自動車道をくぐって、左手 (車道の向こう) にドンキ・ホーテがあるところで右折。
ほどなく武烈天皇陵が見えてきた。この天皇は日本書紀に残虐なことしか書かれていないという特殊な天皇だが、思いのほか立派で美しいたたずまい。
しかも宮内庁書陵部畝傍陵墓監区事務所がある。これまで行ったところで事務所があったのは神武天皇陵のみ。
事務所内に数人が食事中だったが、植木の手入れの間の休憩時間のようだ。常駐しているのだろうか?
だとしたら なぜ特異な天皇の陵墓にあるのだろう。特異ゆえ いたずらされないようにしているのだろうか?
すぐ南にある志都美神社に寄って参拝。藤原鎌足の四世の孫 片岡民部少輔綱俊ゆかりの神社とのこと。
国道に戻ってさらに南下。
暑い…。アレルギー対策でマスクをしているので余計だ。
川を渡ると、右手に餃子の王将が見えてきた。顕宗天皇陵は近い。
参拝を済ませた後 王将で食べる予定だったが、腹は減っておらず 暑さで食欲がないので やめた。
国道の左手すぐに顕宗天皇陵。中華の臭いがただよってくる。おいしそうな臭いだが、天皇の御霊はどうお思いだろう。
お昼はどうしようと考えながら香芝駅へ。
近鉄下田駅近くまで来てしまって引き返す。
小さな香芝駅は学生でいっぱい。すぐに電車が来て、一本で天王寺へ。
結局 チョコを少しかじって、家まで腹を持たせることにした。
夏の山登りではかならず起きる頭痛は少しで、薬を飲むほどではなかった。
体重を6.5キロ減らし、中性脂肪を正常に戻すことができたのが功を奏したのだろう。
***
●第7代 孝霊 (こうれい) 天皇
【諡号】大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)
【生没】前324〜前215年 (128歳)
【在位】前290〜前215年 (76年間)
【父】孝安天皇 【母】押媛
【皇后】細媛命 (くわしひめのみこと・ほそひめのみこと)
【皇居】黒田廬戸宮 現在の奈良県磯城郡田原本町黒田周辺
【陵所】片丘馬坂陵 (かたおかのうまさかのみささぎ) 現在の奈良県北葛城郡王寺町本町 ※山形
◇「欠史八代」のひとりで、記紀に事跡の記載なし。
面白いのは皇子の彦五十狭芹彦命 (ひこいさせりひこのみこと)、または 吉備津彦命(きびつひこのみこと)の伝説。岡山市の吉備津神社の縁起によると、皇子は四道将軍のひとりで 西道に派遣されたが、地域を荒らしていた鬼を3人の家来とともに討ったという。これが桃太郎の話のモデルになったとも言われている。
また皇女に倭迹迹日百襲姫命 (やまとととびももそひめのみこと) がいる。箸墓を陵墓とし、また「魏志 倭人伝」の「卑弥呼」であるという説があることで有名。
***
●第23代 顕宗 (けんぞう) 天皇
【諡号】弘計王 (おけのすめらみこと)
【生没】450〜487年 (38歳)
【在位】485年1月〜487年4月 (2年間3ヶ月)
【父】市辺押磐皇子 (いちのへのおしはのみこ) 【母】荑媛 (はえひめ)
【皇后】難波小野王(なにわのおののみこ)
【皇居】近飛鳥八釣宮 現在の奈良県高市郡明日香村八釣、あるいは大阪府羽曳野市飛鳥?
【陵所】傍丘磐坏丘南陵 (かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ) 現在の香芝市北今市 ※前方後円
◇時代は古墳時代。億計 (おけ)・弘計 (をけ) 兄弟の父 市辺押磐皇子が雄略天皇 (第21代) に殺されたため、兄弟は丹波国などに逃亡、身を隠した。名を変え、長い間 牛馬の飼育に携わっていたが、ある時 弘計が播磨国司 (くにのみこともち) に身分を明かしたところ、都に呼び戻され、子がなかった清寧天皇の後継者となった (億計が皇太子)。
清寧天皇が崩御した後、兄弟で皇位を譲り合ったが、「身分を明かした勇気ある弘計こそ皇位を継ぐにふさわしい」という説得に折れ、弟 弘計が即位することとなった。億計が引き続き皇太子を務めたが、天皇の兄が皇太子という事例は、他に例がないとのこと。
父の雪辱を果たすべく雄略天皇の陵墓を破戒する計画を立てたことがあったが、兄に諌められて思いとどまったという。
長く辺境で苦労した経験から、下情に通じて庶民のために仁政をおこなったとのこと。
在位3年で崩御。兄 億計王が即位した (仁賢天皇)。
ただし この兄弟王物語は典型的な「貴種流離譚」として、古くからその実在性に疑問を呈されてきたとのこと。
●第25代 武烈 (ぶれつ) 天皇
【諡号】小泊瀬稚鷦鷯尊 (おばつせわかさぎのすめらみこと)
【生没】489〜506年 (18歳)
【在位】498年12月〜506年12月 (8年間)
【父】仁賢天皇 【母】春日大娘皇女 (かすがのおおいらつめ)
【皇后】春日娘子 (かすがのいらつこ)
【皇居】泊瀬列城宮 現在の奈良県桜井市出雲の十二柱神社?
【陵所】傍丘磐坏丘北陵 (かたおかのいわつきのおかのきたのみささぎ) 現在の香芝市今泉 ※山形
◇前代 仁賢天皇が崩御 (498年) された後、大臣の平群真鳥 (へぐりのまとり) が国政をほしいままにしていた。一方 真鳥の子 平群鮪 (へぐりのしび) は皇太子であった武烈と影媛(かげひめ) を巡る因縁があった。そこで大伴金村 (おおとものかなむら) を使って平群親子を討伐。その後 即位し、泊瀬列城 (桜井市長谷?) に都を定め、大伴金村を大連 (おおむらじ) とした。
日本書紀は「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず」として、武烈天皇の異常な行動を列記している。「胎児を見るために妊婦の腹を割いた」とか「女と馬を交わらせて 云々」など。
しかし古事記にはそうした記述はないことから、血縁関係の薄い次代 継体天皇の即位を正当化するため、武烈天皇を暴君に仕立てたのではないかという説が一般的。
実在したかどうかさえ 疑問が呈されている。
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