朝のウォーキング 大徳寺、今宮神社、船岡山
過去天気図(気象庁) | 2017年08月の天気図 |
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感想
京都検定のテキストで振り返る。
■歴史・史跡
○京都の歴史
1平安京以前の京都
2平安時代の京都
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地相とは「四神相応之地」を意味するが、北に玄武、南に朱雀、東に青竜、西に白虎が配されている。四神には、地形状のシンボルがあり、北の玄武は大岩、南の朱雀は大池(湖)、東の青竜は大川、西の白虎は大道とされる。これは現在、北は船岡山、南は巨椋池(昭和十六年干拓)、東は鴨川、西は山陰道とされる。
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3鎌倉時代の京都
4室町時代の京都
5安土桃山から江戸時代の京都
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徳川政権は同時に京都の都市産業にも手厚い保護を加えている。なかでも、高機七千台を持つといわれた、日本最大の西陣織への保護は大きく、これによって京都は大きな復興をみる。
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6近現代の京都
○京都の史跡
1近世の史跡
2幕末維新の史跡
3近代の史跡
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一方、西陣織は江戸時代の後半に衰退の一途をたどっていたが、明治二年には西陣物産会社が京都府の肝いりで設立され、機織機のフランス式ジャカード機を導入するなどの技術革新を行った。
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■神社・寺院
○京都の神社
▼北区
今宮神社/大田神社/上賀茂神社/建勲神社/平野神社/わら天神
・今宮神社(北区紫野今宮町)
祭神は大己貴命、事代主命、奇稲田姐命。摂社の疫社に素盞嗚尊を祀る。紫野社ともいう。平安初期に疫病を祓うために京中の人々が当地に疫神を祀ったのに由来するとされ、長保三年(一〇〇一)の疫病流行の時には神殿を造営し、今宮社と呼ばれた。創祀以来。一貫して疫病退散の上頭され、やすらい祭は疫病を鎮める鎮火祭として始まった。今も門前で売られているあぶり餅は古くから祭の名物として知られ、これを食べれば疫病が祓えると伝える。やすらい祭は広隆寺の牛祭(現在は中止)・鞍馬の火祭とともに京都三大奇祭の一つである。境内には疫社・斎院(若宮杜)など多数の摂末社が建ち、西陣機業者が祀った織姫神社もある。また、手のひらで軽く三度叩いて持ち上げると大変重くなり、次に願いを込めて三度撫でて持ち上げ、軽くなれば願いがかなうという「阿呆賢さん」という不思議な石も人気を集めている。
・建勲神社(北区紫野北舟岡町)
祭神は織田信長・信忠。正しくは建勲神社。天正十年(一五八二)の本能寺の変の後、豊臣秀吉が正親町天皇の勅許を得て、船岡山を信長の霊地と定めたことに始まるという。明治二年(一八六九)明治天皇の命により織田信長を祭神とした神社を創建し、建勲神社の神号を賜わった。同八年には別格官幣社に列し、社地を船岡山に得て、社殿を新営した。同十三年には信長の子信忠を配祀し、同四十二年に本殿以下、諸舎を船岡山中腹から山上に移した。
▼上京区
首途八幡宮/上御霊神社/北野天満宮/伴氏社/護王神社/出世稲荷神社/白峯神社/清明神社/梨木神社
・晴明神社(上京区葭屋町通一条上ル晴明町)
祭神は安倍晴明、倉稲魂命。寛弘四年(一〇〇七)に一条天皇の勅命によって晴明の邸跡に創建されたという。晴明は平安中期の天文博士で、星座の急変するのを見て花山天皇の退位を予知したとされる。境内の晴明井は、晴明の念持力で湧き出たといい、飲むと悪病難病が治ると伝える。現在は方除け・火災除け・病気平癒の神として信仰されている。
▼左京区
▼中京区
▼東山区
▼山科区
▼下京区
▼右京区
▼西京区
▼伏見区
▼京都市外
○京都の寺院
1天台宗
2真言宗
▼北区
▼上京区
引接寺/雨宝院/大報恩寺
・雨宝院(上京区智恵光院通上立売上ル聖天町)
山号は北向山。本尊は歓喜天(聖天)。西陣聖天とも呼ばれる。弘法大師二十一ヵ所参りの一つ。平安初期、嵯峨天皇の御悩平癒を弘法大師(空海)が等身大の歓喜天像を造って祈願した。その功績によって大師は天皇の別荘であった時雨亭を賜わり、雨宝堂(大聖歓喜寺)としたことに由来するという。開基は弘法大師とされる。観音堂に安置される千手観音立像は平安初期の作風を示して重要文化財。本堂前の桜は「歓喜桜」と称される御室桜と同種の八重桜で、開花時には根元から花をつける。
▼中京区
▼東山区
▼山科区
▼南区
▼右京区
▼西京区
▼伏見区
▼京都市外
3臨済宗
▼北区
金閣寺/正伝寺/大徳寺/黄梅院/高桐院/孤篷庵/聚光院/真珠庵/大仙院/芳春院/龍源院/龍光院/等持院
・大徳寺(北区紫野大徳寺町)
臨済宗大徳寺派の大本山。山号は龍宝山。本尊は釈迦如来。大燈国師(宗峰妙超)が赤松則村の帰依を得て紫野の地に小庵を建立して「大徳」と名付けたのに由来。創建は正和四年(一三一五)と伝える。建武元年(一三三四)後醍醐天皇により「本朝無双の禅苑」として京都五山の上に置かれ、寺域も拡大した。しかし、当寺と対立する夢窓疎石に帰依した足利尊氏が政権を執ると急速に衰退、寺格も五山の下の十刹に置かれた。永享三年(一四三一)自ら五山を脱し、「林下」と呼ばれる在野の禅院として独自の宗風を築いた。一時荒廃したが、堺の豪商尾和宗臨の援助で復興、さらに連歌師宗長の支援も受け再興した。この頃一休宗純の真珠派、陽峰宗韶の龍泉派、束漢宗牧の南派、古嶽宗亘の北派の四派が生まれた。天正十年(一五八二)豊臣秀吉が織田信長の葬儀を盛大に挙行し、その菩提寺として総見院を建立、以後武将による塔頭建立が相次いだ。千利休の帰依を受けて以来、茶道との関わりが深く、千家の菩提寺である聚光院をはじめ、ほとんどの塔頭に茶室があり、俗に「大徳寺の茶面」と称される。本坊は勅使門から山門(三門)、仏殿、法堂と南北に一直線上に並び、後方に庫裏、束に方丈が配される禅宗寺院の典型的な伽藍配置を示している。唐門は桃山時代の建築で国宝。玄関および方丈も国宝指定を受け、勅使門は内裏の門が下賜されたもの。天正十七年(一五八九)に上層が完成した山門は金毛閣と通称される。いずれも重要文化財。以上のほか寝堂・浴室・経蔵・庫裏・廊下・待真寮が重要文化財。本坊方丈の南の庭園は、東南の隅に賀茂川の黒大石と紀州の青大石を並べ立て滝口とし、その下に平石を置いて渓流をかたどったもので、東の庭園は細長い枯山水の庭。方丈庭園は国の史跡および特別名勝に指定されている。この他、本坊の「観音猿鶴図」は牧籍の代表作として国宝に指定されている。
・黄梅院(北区紫野大徳寺町)
大徳寺の塔頭。永禄五年(一五六二)創立の春林宗傲の庵室に始まる。天正十五年(一五八七)から十七年にかけて本堂や庫裏を新造し、小早川隆景を檀越に、春林を開祖として黄梅院と改称した。武野紹鴎好みとされる茶室昨夢軒がある。庫裏は大徳寺山内に現存する庫裏の中で最も古い。大書院南側の枯山水庭は、鯨型をした細長い枯池のほぼ中央に石橋が架かり、かつては水を引いていたという説もある。石橋を渡った対岸の左手に据えられた巨石が、起伏の少ない庭景を引き締めている。客殿の襖絵である「竹林七賢図」は雲谷派の祖である雲谷等顔の代表作とされ、重要文化財に指定されている。
・孤蓬庵(北区紫野大徳寺町)
大徳寺の塔頭。慶長十七年二六一二)に小堀遠州が龍光院内に建てた子院。開祖は江月宗玩。寛永二十年(一六四三)に現在地へ移されるに際して、改めて建物と庭が造られた。著名な重要文化財の茶室忘笙席と書院直入軒があり、忘笙席の庭は「露結の手水鉢」と寄燈籠を近景とし、背後の直入軒の庭を遠景として取り込んだ構成で知られる。忘笙席は庇下に中敷居を通し、吹き放ち障子になっており、一度焼失したが寛政九年(一七九七)に元の姿で再建された。他に山雲床と称する茶室もある。庭園は国の史跡および名勝に指定されている
・聚光院(北区紫野大徳寺町)
大徳寺の塔頭。永禄九年(一五六六)三好長慶の菩提を弔うため、子の義継が創建。開祖は笑嶺宗訴。茶道三千家の菩提寺であり、境内の墓地には千利休の供養塔をはじめ、歴代の墓がある。また閑隠席および桝床席と称する茶室は有名で、露地も見事である。方丈の南庭は枯山水の庭で、現在は苔が一面に広がっているが、明治中期頃の写生図には白砂敷が描かれている。国の名勝。なお方丈の襖絵「琴棋書画図」は狩野永徳によって描かれたもの、同じく方丈襖絵「濡湘八景図」は永徳の父松栄の作で、ともに国宝に指定されている。
・真珠庵(北区紫野大徳寺町)
大徳寺の塔頭。延徳三年(一四九一)に堺の豪商尾和宗臨が、一休宗純の塔所として建立した。現在の建物は江戸初期のもので、方丈、庫裏、および書院の通倦院は重要文化財。茶室庭玉軒は、雪の多い土地に暮らした金森宗和好みの茶室で、内坪と呼ばれる建物内の露地をもつのが特徴的。二畳台目の茶室は引き違い障子で内坪と仕切られ、変化のある空間を演出している。庭園は方丈の南庭と東庭、通倦院と庭玉軒前にあり、いずれも国の史跡および名勝に指定されている。大燈国師墨蹟や一休宗純墨蹟をはじめ多数の寺宝を所蔵。重要文化財の襖絵四十一面は特に著名。伝長谷川等伯筆の「蜆予・猪頭図」は白眉とされる。一休の弟子で、周文に水墨画を習ったといわれる墨漢筆「達磨図」には寛正六年(一四六五)の年紀とともに一休の画賛が添えられている。墨渓は一休の弟予とされ、周文に水墨画を習ったといわれるが、作者と制作年代が明確であるという点で重要な遺品といえる。
・大仙院(北区紫野大徳寺町)
大徳寺北派の本庵。永正六年(一五〇九)に近江の六角氏の出身である古嶽宗亘が開創した。以後、大林宗套・笑嶺宗キンなど名僧を輩出した。本堂(方丈)は永正六年(一五〇九)の造営で国宝。禅寺の客殿遺構として大徳寺山内で最古。方丈南面の砂庭は大海を表わし、書院の庭園も枯山水で、東と北にわたる鉤形の狭い敷地区画に樹木・景石・白砂を配置し、密度の高い山水が表現されている。大石を立てて滝口とし、滝口下には白砂を敷いて水流とし、中央下段は渓流が大河となるさまを、白砂敷の中に舟形の石を配置することで表現した見事なもの。庭園は国の名勝に指定されており、なかでも書院庭園は国の史跡および特別名勝となっている。客殿の障屏画として名高い「四季耕作図」「花鳥図」「瀟湘八景図」はともに重要文化財。
・芳春院(北区紫野大徳寺町)
大徳寺の塔頭。慶長十一二年(一六〇八)に前田利家の夫人松子(芳春院)が創建し、寛政十年(一七九八)、前田家の援助により再興した。開祖は玉室宗珀。創建時の建物としては、前田利長の極彩色の霊屋と松子の白木の霊屋が現存する。寛政十年(一七九八)再建の楼閣呑湖閣は、昭堂建築としては異色であり、金閣・銀閣・飛雲閣とならび京の四閣とも称される。庭園は元和三年(一六一七)横井等恰と小堀遠州の作と伝える。飽雲池と呼ぶ池に打月橋が架かり、客殿と呑湖閣を結ぶ。
・龍源院(北区紫野大徳寺町)
大徳寺南派の本庵。文亀・永正年間(一五〇一〜二一)に畠山義元・大友義長らが東渓宗牧を開祖として創建した。創建当初は霊山一枝軒と称した。本堂は永正十一年(一五一四)頃の建立で重要文化財。大徳寺山内に残る中世の客殿遺構の代表例の一つで、創建時の形態をよく伝えている。庭園は室町時代の作といい、方丈北庭の「龍吟庭」が当時のものとされる。二十八個の庭石が据えられた、東西に細長い平庭の枯山水で、中心は中央の東に向け力強く傾斜した立石。その手前には蓬拝石と称される水分石があることから枯滝石組の表現とも見られる。他に東滴壷、コ沱底などの庭がある。
▼上京区
▼左京区
▼東山区
▼右京区
▼西京区
▼京都市外
4曹洞宗
5黄檗宗
6浄土宗
7浄土真宗
8日蓮宗
9その他の宗派
■建築・庭園・美術
○京都の建築
○京都の庭園
○京都の美術
■芸術・文化
○伝統工芸
1工芸
2染織
西陣織/京友禅/京小紋/京鹿の子絞/京繍/京黒紋付染/京くみひも
・西陣織
西陣織は先に糸染めした糸を使い、紋様を織り出す高級紋織物。多くの品種を少量ずつ作る方式をもととしている。西陣織は平安京の朝廷所属の織り手集団(大舎人座)以来の伝統を誇る。応仁の乱で、山名宗全らの西軍が陣地を構えたため西陣の名前が生まれた。乱は約十年続き、織りの匠は堺や奈良に避難、乱後旧地に戻り復興させた。西陣織は江戸中期の「西陣焼け」で織機三千余を失い、幕末の奢修品禁止令で打撃を受けた。明治初期に佐倉常七らがフランスからジャカード機械織機を輸入、絹織物の先進地となった。能装束の唐織は絶品。上京区の堀川通今出川に西陣織会館がある。経済産業大臣指定の伝統的工芸品。
○伝統文化
1歌道
2茶道
前文/千利休/三千家/藪内家/煎茶道
・千利休
大永二年〜天正十九年(一五二二〜九一)。今日の茶道の大成者。生家は和泉国堺。幼名は与四郎、法名宗易。武野紹鴎に師事して、村田珠光が創始した草庵の茶を習得、また大徳寺で禅を学び、茶禅一味をとなえてわび茶を大成した。織田信長・豊臣秀吉に茶頭として仕え、天下一の茶匠となった。
3華道
4能
5狂言
6歌舞伎
7京舞と井上流
○花街
■生活・行事
○祭と行事
○京料理
○京菓子
1京菓子の歴史
京菓子のルーツ/点心の普及/南蛮菓子の影響/京菓子の大成
2京菓子の種類・由来
●季節と行事の京菓子
亥の子餅/嘉祥菓子/かしわ餅/きつね面/行者餅/さくら餅/真盛豆/洲浜/ちご餅/粽/はなびら餅/引千切/吹き寄せ/松風/水無月/麦代餅/清浄歓喜団
●寺社・街道・関所ゆかりの菓子
あぶり餅/粟餅/鎌餅/おせき餅/唐板/狐煎餅/幽霊子育飴/長五郎餅/どら焼/鳩餅
/法螺貝餅/やきもち/みたらし団子
・あぶり餅(今宮神社参道 北区紫野今宮町)
今宮神社の門前名物。東門前参道には、向かい合わせに二軒のあぶり餅の茶店がある。北側が長保二年(一〇〇〇)創業の一和、南側が江戸時代から続く、かざりや。あぶり餅は、長さ二十センチほどの竹串に親指大にちぎった餅をさし、きな粉をつけて炭火であぶり、溶いた白味噌のたれをつけて食べる。疫病退散を祈願する神事やすらい祭(四月の第二日曜日)では、あぶり餅を食べ、無病息災を願う。
○京都のならわし
○ことばと伝説
○京都の地名
■自然・観光
堀川ウォーキング
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