松尾山☆古戦場を見渡す陣跡に
- GPS
- 01:21
- 距離
- 6.6km
- 登り
- 241m
- 下り
- 247m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2019年04月の天気図 |
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アクセス |
写真
感想
全国の各所にありがちな名前の山であり、実際にも山容に個性の乏しいこの山が知られるのは関ヶ原の戦いにおいて小早川秀秋が1万5千の大軍を率いて陣を構えた山としてであろう。関ヶ原の戦場のほぼ全体を俯瞰することが出来る格好の場所であり、戦局を決定するのに最も重要な場所に思われる。
そもそもこの重要な場所になぜ小早川秀秋が布陣したかというと、そもそも石田三成はここに西軍の総大将、毛利輝元に布陣させるつもりで、廃城となっていた松尾山城を整備させたらしい。ところが実際には毛利輝元は大阪から動かず、かわりに戦いの前日になって小早川秀秋が入場したのである。
関ヶ原の駅に降り立つと駅前に立派な観光案内所があり、関ヶ原の古戦場を巡る地図が用意されている。出張の荷物を格安のコインロッカーに預け入れて外に出ると、たまたまコミュニティー・バスが通りがかる。松尾山の登山口に向かう途中、福島正則の陣跡の近くで降ろして下さる。
名神高速の向こう側には新緑が鮮やかな松尾山が目に入る。登山口からは歩き始めると林道には砂利が綺麗に敷き詰められている。林道のすぐ先からガタガタと工事の音が聞こえると思うと、まもなく林道に砂利を敷き詰める工事をしている現場を通り過ぎる。その先も十分に整備された林道が峠まで続いている。砂利を綺麗に敷き詰めているのは舗装の下準備なのであろう。
峠からは尾根伝いに松尾山の山頂を目指すことになる。関ヶ原の古戦場めぐりのハイキングコースだけあって、木の階段が綺麗に整備されている。尾根の左手にはなだらかで広々とした谷の源頭が開ける。三葉躑躅が彩るなだらかな尾根道を歩いてゆくとまもなく伐採地の上の山頂に辿り着いた。
山の上は古城の跡らしく、いくつかの段が形成されている。山頂には何本もの桜が植えられているが、桜は既に散りかけている。小早川秀秋がこの山を下り東軍の陣に攻め込んだとしたら歴史は大きく変わっていたことだろう。果たしてこの山を駆け下りて、大谷吉継の陣に攻め入った兵士達はいかなる心境で戦地に向かったのだろうかと思いを馳せざるを得ない。実際、主君の離反に同調せず、陣を離れた家臣もいたらしい。
山頂では電波が通じるので、タクシー会社に電話したところ、「登山口まで車を回送するのに1時間以上かかります」という。登山の前にタクシーを手配しておくべきであったのだが、仕方がない、関ヶ原の駅まで歩かねばならない。そもそも観光案内所は17時過ぎには閉まるのだが、順調に歩けばなんとかたどり着けるであろう。
安全にもと来た道を引き返せばよいのであるが、山頂から往路を引き返すと、左手の斜面に入ってゆく送電線巡視路が目に入る。巡視路に入ってみると、先程までの道に比べると道は細いものの十分に整備された歩きやすい道である。すぐにも送電線鉄塔に出る。鉄塔の下からは関ヶ原方面をの展望が広がるが、先程の山頂からの展望には及ばない。
ピンク色のテープに導かれてアップダウンの少ない道を歩く。新緑の自然林からいつしたか杉の植林地に入る。ふと気がつくと、送電線から大きく離れてしまっているが、道は尾根に沿って北西の方向へと続いている。送電線巡視路とばかり思ってピンク・テープのついた道を辿っていたのは、どうやら植林の作業道だったようだ。それにしてはあまりにも明瞭な道に思われたが。
地図を見ると名神高速のすぐ南側を走る道があるので、その道に目がけて下る尾根を選んで下降する。まもなく車道の法面の上に出るが、到底、下ることが出来るような斜面ではなく、車道との間にはフェンスも設けられている。法面の上を歩いてゆくと木の階段が現れ、法面の切れ目に無事着地することが出来る。
登山口から藤古川を北上すると新幹線の高架の手前に井上神社がある。この地は東軍と大海人皇子と西軍の大友皇子に別れて戦ったもう一つの天下分け目の戦い、672年の壬申の乱での舞台でもあったらしい。藤古川左岸には大海人皇子、後の天武天皇を祀る神社であり、対岸には大友皇子(弘文天皇)を祀る八幡神社がある。関ヶ原の駅までは道端に様々な花が咲く市街地を歩く。福島正則、藤堂高虎の陣跡をつないで、関ヶ原の観光案内所に戻りついたのは17時をわずかに過ぎた時刻であった。
小早川秀秋、関ヶ原の戦いにおいては東軍に寝返ったことで戦況は一挙に東軍に傾き、東軍の勝利の立役者の一人なのであるが、歴史に名を留めるのは義理を欠いた裏切り者といったイメージがつき纏う。関ヶ原の戦いの時点では若干19歳であったらしい。戦いの功労により備前、美作、備中の55万石に転封されるのだが、そのわずか2年後、21歳にして急逝する。大谷吉継の怨念のせいとの説を信じたくなるところだが、最近の説ではこの年にして酒色に溺れていたためということである。
関ヶ原からは予定の東海道線に乗り込むと、小早川秀秋の短い生涯に思いを馳せつつ、名古屋での酒席に向かうのだった。
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