高野山町石道(高野口駅―九度山ー上天野―上古沢駅)
- GPS
- --:--
- 距離
- 12.5km
- 登り
- 772m
- 下り
- 630m
コースタイム
天候 | 晴れ時々曇り |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
電車
帰りは南海電鉄高野線上古沢駅に出た。 |
コース状況/ 危険箇所等 |
現在と違って、高野山に至る町石道は廃れていて、あまり歩かれていないようだった。九度山の女人高野から雨引山を巻いていく道には下草がかなり生えて分かりにくかったように思う。上天野の集落から峠を越えて上古沢へ下る道は、地面が濡れていたことと暗くて足元の見通しが悪かったため滑りやすく、一緒に行った父は数回転んでいた。 |
その他周辺情報 | 上古沢には飲食店、宿泊施設のようなものは見当たらない感じだった。 |
感想
中学2年の夏、確か父方の祖父の三回忌で、お墓のある和歌山に家族で行った帰りに、父と二人で高野山に行った時の記録です。父方の祖先が和歌山の出で、墓は和歌山市内の真言宗の寺にあるので、父としては真言宗の総本山に連れて行ってくれようとしたのだと思います。母と姉は神戸であったか、どこか別のところを尋ねて東京に帰ったように思います。
うだるような暑さの和歌山市内で法事を済ませた後、和歌山線に乗って紀ノ川添いの平野を上流に向かいました。電車ではなく確か気動車で、高野口の駅で降り、紀ノ川にかかる橋を渡って九度山に向かいましたが、紀ノ川の水が青緑色に澄んで、豊かな水をたたえているのが印象的でした。
女人禁制だった高野山には女性は立ち入れず、空海の母さえも麓で我慢しなければならなかったという話の残るいわゆる女人高野の慈尊院の裏から登りだしました。高野口の駅あたりで水を汲んでおかなかったため、慈尊院の裏の集落にあった水道をお借りして水を汲みましたが、少し濁った水だったのを覚えています。
当時はペットボトルの飲料などなく、ポリタンクに水を詰めて持っていっていました。ゲータレードなどスポーツドリンクが一般に出回るようになったのも、私の記憶では1982年頃の話で、この時にはまだその前の時代でした。駅には(今でもかなり残っていますが)必ずプラットホームに水飲み場や水道が設置されていて、かなり利用されていました。山に行くときは下車駅で水を汲んでいくようなことがよくあったのです。
九度山から高野山に向かう町石道は、一町(109m)ごとに道筋を示す石碑が立っていたのでこの名がありますが、当時は荒廃してあまり歩く人も多くない様子で、夏の盛りということもあって、下草が生い茂って一部道が分かりにくくなっていたように思います。道は雨引山の山腹(確かミカンかなにかの果樹園になっていた)の山腹をからんで、紀ノ川の谷間を見下ろしながら登っていきましたが、出発が4時半ころだったこともあって段々と夕闇が迫り、分かりにくい道を進んでいくとやがて下りになって、どこやら里に出てしまいました。すでに真っ暗で、わびしい電灯の下にはジュースの自動販売機の明かりだけが煌々と輝いていました。
あまり種類がなく、確かメロンクリームソーダを買って飲みましたが、すでに汗を絞られた後で、濁り気味でぬるい水しか飲んでいなかったので、とても美味しく感じました。
元々時間が遅く、町石道を高野山まで歩くつもりは毛頭なく、途中の適当なところから降りて電車で高野山に向かう予定だったのですが、どこに降りるかは決めておらず、どこかで稜線の左側に降りて、南海電鉄高野線の駅に出ればいいや、と考えていたのです。しかし、歩いていた里の人に尋ねて、現在地が丹生川村上天野であることが分かりました。下るべき南海電鉄の通っている谷間とは反対側に降りてきてしまったわけです。
尋ねると、神社の裏を登っていくと尾根に出て、反対側に下っていけば上古沢の駅に出られる、とのことでしたので、お礼を言って真っ暗な杉林の中の道を歩きました。当時ヘッドランプはあったのでしょうが持っておらず、持ち歩いていたのは懐中電灯で、心細い気持ちで真っ暗な道をたどると、割合とすぐに稜線に出て、反対側の下の方に集落の明かりが見えてほっとしました。上天野は山に囲まれた標高500m近くにある集落で、そこから峠まではわずか100m程度の登りだったのです。
そこからは、カエルの大合唱の中、田んぼの間を縫ったり、林を抜けたりして下って行きましたが、谷に降りるまでは結構距離もあり、しかもようやく降り切ったところで川を渡ってから、上古沢の駅までは50m以上も登り返さなければならず、最後が大変でした。虫の声ばかりが賑やかな上古沢の駅に着いたのは8時を過ぎていたと思います。
この時は、5万分の一の地形図は持っていたと思いますが、父も忙しくて準備ができなかったためか、かなり行き当たりばったりの旅で、上古沢の駅に出たのは良かったものの、高野山で泊まる宿も決まっていませんでした。電車の終点に当たる極楽橋であったか、あるいはケーブルカーで上がった高野山の駅であったか覚えていませんが、そこで電話をかけると、夜遅い時間(多分9時近くなっていた)にもかかわらず快く宿坊での宿泊を許していただきました。父もほっとしたような顔をしていました。
迎えていただいた宿坊は確か蓮華院(もしくは蓮華定院)で、清潔な部屋に若いお坊さんがおいしい夜食を運んでくださったように思います。精進料理も大変おいしかったのですが、蓮華院での何よりの思い出は、翌朝早朝目覚めた折の鳥のさえずりで、そのあまりに豪勢なことから、私はしばらく、録音テープを流しているに違いない、と信じて疑いませんでした。後にも先にも、あれほど爽快な目覚めというのはなかったように思います。
その日は金剛峯寺から空海の入定したという奥の院まで高野山を見て回り、ケーブルカー、南海電鉄、和歌山線を乗り継いで和歌山市内に戻ったように思います。午後遅めの時間に、粉河あたりの田舎びた風景の中を気動車で下って行ったようなかすかな記憶があります。翌日伊丹空港から飛行機で羽田に戻ったのが私にとっての飛行機の旅初体験でした。
大した山登りをしたわけではありませんが、遠い昭和の夏の日の暑さと田舎の風物、高野山の宿坊の爽やかな朝の印象が合わさって、私にとってはとても大切な思い出になる旅でした。その後高野山には電車とケーブルカーを使って再訪し、蓮華定院に泊めていただいていますが、いつか機会があれば、また町石道を歩いてみたいと思っています。
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