記録ID: 4271265
全員に公開
ハイキング
東海
日程 | 2022年05月08日(日) [日帰り] |
---|---|
メンバー | |
天候 | 晴れ |
アクセス |
利用交通機関
静岡駅、浜松駅
電車、
バス、
自転車
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地図/標高グラフ


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歩行時間
到着時刻通過点の地名出発時刻
8:00静岡駅北口シェアサイクル・ステーションー8:08麓山神社駐輪場ー8:10賎機山古墳ー8:45浅間山ー9:05賎機山城址石碑ー9:27浅間山ー9:56駐輪場ー10:20大里生涯学習センターー10:40登呂博物館11:00--11:20静岡駅11:54-12:19浜松駅ー12:45浜松市立博物館13:35--蜆遺跡散策ー13:50博物館バス停
写真
感想/記録
by hirokok510
ゴールデンウィーク最後の日曜日、静岡市の賤機山古墳群に出かけてみた。昨日からジパングのゴールデンウィークの制限は解けたので割引チケットを東京駅新幹線の窓口で購入し、こだまの始発電車で静岡に向かう。
静岡駅に7時47分に到着。シェアサイクルの予約と解錠に手間取り静岡駅北口のサイクルポートを8時過ぎに出発。最初に賤機山古墳群を見学するので浅間神社に向かう。浅間神社はチャリを停められないので隣の麓山神社の中にある駐輪スペースを見つけて駐輪し電子キーで施錠して出発するも解錠の仕方はうろ覚えで少し不安。
ともあれ階段を登るとすぐに賤機山古墳(三号墳)がある。階段下には国史跡の石碑があり登ると解説板があるが石室内には入れず上にも登れない。ただし外から石室を覗くと内部の石棺などが見えるような照明のようなものがなされていた。
賤機山古墳は六世紀に築造された円墳で県内一とされる石室や豪華な副葬品からこの地を治めた首長の墓とされる。賤機山からつらなる舌状の尾根の南の先端部にあり、裾墳頂の標高は50mで比高差は30m、町を一望できるようだ。首長の墓にふさわしい場所だ。
それからハイキングコースとなっている道を進んでいく。散歩やハイキング、ランナーなど次々に現れる。しばらく階段を登ると麓山神社本堂がありこれも国の重要文化財に指定されているようだ。さらに登るとどなたかのHPの写真で見た麓神社後古墳(賤機山2号墳)の目印となる壊れて地面に落ちている石碑があるが墳丘の姿は見えず削平されてしまったのか?
さらに登ると一本松の標注がありこの辺りが一本松古墳(賤機山一号墳)のようだ。丸い段の着いた高まりの上が休憩場所になっている。このコースはいたるところに展望台があり、太平洋まで見渡せる絶好の場所で古墳や山城の立地としては最高の場所だ。
その先には観音像のたっている浅間山となり、ここからは山道らしくなってくる。やや険しいアップダウンを進むと、急に落ち込んでいる場所があり、左右を見ると堀の跡のようだ。所々に土塁や空堀のような遺構と思われる地形を見かける。
いくつかのアップダウンを経て賤機山山頂に出る。ここには賤機山城址の石碑と解説板がある。山頂では地元のグループがなにやら植樹のようなことをしていた。
このまま進めば鯨池方面に向かうが今日はチャリを回収するため、引き返すことにした。往路では確認できなかった一本松の標注を確認してこの辺りは賤機山2号墳であるらしい。ほどなく麓山神社、賤機山古墳に出て駐輪場に降り立った。
賤機山城址(wiki):市内を南北に流れる安倍川の左岸に沿うように伸びる賤機山(標高171メートル)山頂にある。築城年代は駿河の守護・今川範政が駿府に入った1411年(応永18年)ごろとされるが、さらに古いとする意見もある。
馬の背状の尾根最上部に本曲輪を構え、櫓台や土塁が配置されている。南北の尾根にも複数の曲輪があり、狭い尾根筋には堀切を設けて遮断し防御性を高めている。本曲輪のある山頂は今川館(後の駿府城)の北西、今川氏の菩提寺である臨済寺の真裏にあたり、詰の城であったとされている。
『甲陽軍鑑』等の史料では「籠鼻」や「籠山」の名で登場し、武田信玄が駿河を侵攻した1568年(永禄11年)の12月13日に武田勢に占拠されて落城。この時、武田側により一部改修が加えられた可能性が指摘されている[2]。その後さらに1582年(天正10年)の徳川家康入府の際に再び落城し、廃城となったという。
現在の賤機山は市街地に程近いハイキングコースとなっており、曲輪や堀切などの遺構を見ることが出来る。
賤機山をこのまま進めば鯨池方面に向かうが今日はチャリを回収するため、引き返すことにした。往路では確認できなかった一本松の標注を確認したが、この辺りは賤機山2号墳であるらしい。ほどなく麓山神社、賤機山古墳に出て駐輪場に降り立った。
チャリを回収し、予定の大里生涯学習センターまでチャリを走らせたが、残念ながら見学しようとした県埋蔵文化財センターの巡回展「弥生時代を科学する」は4月で終わっていた。気を取り直して登呂博物館に向かう。ここは何度か来ているが、今日は「誕生スガルノクニ」として、古代の駿河国ができる頃の様子の企画展だ。
静岡市のHPでは、
「〜いまはむかし、静岡が「スルガノクニ」とよばれはじめたころのおはなし〜」
として
「 古墳時代に大和地方を中心にできた大和王権は地方の豪族をまとめ大きな国となり、天皇を中心とした国づくりがはじまりました。その後、奈良・平安時代(8世紀〜12世紀)には、大陸の影響を受けた新しい制度により地方は統治されていき、静岡市を含む地域は、「駿河国(するがのくに)」とよばれました。
今回の展示では、日本の政治の原点となる「制度」がどのように地方に整備され、古代「駿河国」は生まれたのか、これまでの考古資料等から紐解く、静岡市の歴史シリーズ第4弾。
【会 期】 令和4年(2022年)3月19日(土)〜令和4年(2022年)6月12日(日)」と出ていた。
静岡県のデジタルミュージアムのキッズページには、静岡の古代を
「平安時代には律令制(りつりょうせい)が施行(しこう)され、役所の機能を持った郡衙(ぐんが)や国府(こくふ)がおかれました。ケイセイ遺跡:駿河区中田では、墨で「有厨」(読み方不明)と書かれた墨書土器(ぼくしょどき)や、税として徴収(ちょうしゅう)した穀物(こくもつ)を管理する正倉(しょうそう)と考えられる総柱建物跡(そうばしらたてものあと)が見つかりました。ケイセイ遺跡は、地域を統治する役目を担った駿河国有度郡衙(するがのくにうどぐんが)の可能性が考えられています。」
ここに出ている「ケイセイ遺跡」が静岡、スルガノクニを解明するきっかけとなった遺跡で有度郡衙(郡役所)に比定されている。この遺跡からは土師器や須恵器の他、硯(円面硯)、墨書土器、木簡など様々な古代役所関連の遺物が出土している。また確定していないようだが、駿府城跡からは同じく様々な古代役所関連の遺物が出ており、こちらは駿河国府ではないかと考えられているようだ。
また片山廃寺跡は、古代駿河国の国分寺跡と推定されていたが、
「 片山廃寺跡は、JR静岡駅の南東約3.5kmの有度山西麓に造られた奈良時代の寺院跡です。昭和23年に登呂遺跡周辺調査の一環として日本考古学協会による発掘調査が行なわれて以来、境内のほぼ中央に南側から金堂(中心的建物、本尊を安置)・講堂(法要や教典の講議を行なう建物)・僧房(僧侶が居住する建物)が配置されていたこと、境内のまわりは木の柱を支柱にした板塀がめぐっていたこと、火災によって建物が焼失しその後再建されなかったことなどが分かってきました。
各施設の規模・屋根瓦の特徴・出土した土器などをもとに推定される時代から駿河国国分僧寺であるとする説や、塔が見つかっていない点や中世以降「国分寺」が今の駿府城北方に存在していたことが文献資料に見えることなどから有度郡の有力豪族の氏寺である、とする説がありましたが、平成20年度に塔跡が確認されたことで、主要建物の規模や伽藍範囲の広さによって、駿河国分寺であることが有力となりました。
また、南方約500mの山裾には、片山廃寺で使用する屋根瓦を焼いた「宮川瓦窯跡群」も見つかっています。
現在、金堂跡の基壇・礎石を復元・公開しています。(静岡市)」
どうやら塔跡が発見され、片山廃寺跡は国分寺である可能性が高まったようだ。静岡、スルガ地域の古代に触れ、駅北口にチャリを変革し、再び新幹線に乗って浜松へと向かった。
静岡市内の古墳と博物館めぐりの後、再び新幹線に乗り浜松へ。ここのレンタサイクルは千円だが、場所がわからないし、バスのほうが安上がりなので、北口バスターミナルに出て0番を探すがバス停は1番からしかなく、あわててチケット販売所で1番バス停の0番バスと聞き、慌ててすぐ裏のバス停に向かうと出発直前でセーフし蜆塚町など貝塚にちなむ名前の街を進み、博物館バス停で下車。ここは蜆塚遺跡(+古墳)が敷地内に遺跡公園としてあるところ。まず展示を見る。常設展示ではシジミ貝塚の貝層剥ぎ取り、人骨、出土土器、石器や装飾品などの展示がある。その続きには弥生時代以降でとりわけ弥生時代から古代へと続く伊場遺跡は有名だ。
浜松駅西方の砂丘列の低湿地付近に立地する弥生時代の環濠集落で、古代の郡衙八駅家跡など周辺に多くの関連遺跡を持つ遺跡群で国鉄貨物駅建設のために史跡指定が解除され、行政訴訟が起こされたが、訴えた考古学者らに原告適格がないという日本の官製法律らしい馬鹿な判決で史跡指定解除されたが、一部は史跡として生き残り、史跡公園となっているようだ。またいつか訪問してみたい。
そうした弥生時代から古代にかけての出土品を見学してから、企画展の「古墳に出かけよう」を見る。
蜆塚遺跡:
「縄文時代後期から晩期前葉の貝塚を伴う集落の跡。
貝塚の規模は東海地域各地に残る縄文時代の貝塚の中でも有数であり、静岡県内においては磐田市の小規模な貝塚を除けば縄文時代の貝塚はほとんど例がなく、貴重な原始遺産。
貝塚から出土した貝類は入り江や河口に多いヤマトシジミが9割以上であり、そのほかにはハマグリ、マガキ、キサゴなどもみられる。動物の骨ではシカ、イノシシ、クジラ、ウミガメ、鳥はツルやキジ、魚はコイ、フナ、クロダイ、スズキ、カツオなども出土。
縄文土器や動物の骨を加工した道具、そして墓地と思われる場所からは縄文人の骨も発見されている。
1959(昭和34)年5月13日に国の文化財に指定された。
貝塚に接するように発見された平地住居跡からは、一時期の集落は3〜5戸ほどで、20人を超えないくらいの人口で村が形成されていたと考えられる。
また、貝塚に保護されていた人骨から、縄文時代の人々の平均身長が150cm、平均寿命が35歳程度であったことがわかる。発掘された人骨のほとんどが、掘った穴の中に手と足を曲げて直接埋めた屈葬(くっそう)であった。中には犬歯のみが抜歯された頭蓋骨もあり、当時の習俗と考えられる。
出土した動物の骨からは、やじりが刺さった状態のものも見つかっており、縄文人が弓矢で狩りをしていた事実だけではなく、弓矢の威力も証明した。しかし、貝塚から見つかった貝や動物の肉のみを食べて生活していたわけではなく、木の実を食料として使う際に皮を剥くのに使ったと思われるくぼみ石などが見つかっていることから、木の実なども貴重な食料であったと思われる。(浜松情報Book)」
伊場遺跡:
「伊場遺跡(いばいせき)または伊場遺跡群(いばいせきぐん)は、静岡県浜松市中区伊場にある弥生時代から平安時代にかけての複合遺跡。浜松駅西方の、遠州灘沿岸低地に複数形成された砂丘列上に位置する低湿地遺跡である。
1949年(昭和24年)2月、先の太平洋戦争中に連合国軍の艦砲射撃によって出来た大穴から弥生土器が出土し、遺跡があることが判明、同年4月から國學院大学考古学研究室による発掘調査が行われた。弥生時代の環濠集落のほか、古代敷知郡の郡衙および栗原駅家跡と見られる遺構・遺物が発見された。1954年(昭和29年)に県指定史跡に指定されたが1973年(昭和48年)に指定解除された。このため1974年(昭和49年)には指定解除の取消を求めた行政訴訟「伊場遺跡訴訟」を引き起こした。
伊場遺跡の周囲2キロメートル四方には、梶子遺跡・梶子北遺跡・城山遺跡・鳥居松遺跡・中村遺跡・九反田遺跡・三永遺跡がひろがっており、それぞれ数次の発掘調査が行われている。伊場遺跡を含めたこれら8遺跡は伊場遺跡群と総称され、調査の進展により、奈良時代から平安時代初期にかけての地方官衙である、敷知郡衙(郡家)と栗原駅家跡であることが解ってきた。
前述の「伊場大溝」は、遺跡群内を蛇行しながら流れており、流路内やその周辺から大量の奈良・平安時代の遺物が出土し、その中には紀年銘資料の木簡も含まれていた。最初に発見された木簡は1970年(昭和45年)10月の伊場遺跡第3次調査で発見されたもので、「乙未年」(695年:7世紀末)の銘があった。発見当時、地方官衙から大宝令施行(701年:8世紀初頭)以前の木簡が出土するとは考えられていなかったため、にわかには信じられず議論を呼んだ。
他に「己亥年五月十九日渕評竹田里人」(文武天皇3年、699年)と記されたものがある。「評」は「コオリ」と読み、7世紀中葉の孝徳朝頃から8世紀初頭の大宝令施行(701年)に至るまで実施され、大宝令施行後に「郡」となった地方行政単位で、評督(ひょうのかみ)・評助督(ひょうのすけ)が置かれた。「渕評」は「フチノコオリ」と読め、後の敷知郡にあたる。2018年(平成30年)現在、確認されている最古のものは梶子遺跡出土の「己卯年」(679年)銘、最新のものは伊場遺跡出土の「延長2年」(924年)銘という。
木簡のほか、土師器や須恵器、瓷器(灰釉陶器・緑釉陶器)が出土している。それらの中には墨書土器があり、「布知厨」(郡衙の給食施設)や「少毅殿」(軍団の次官)・「栗原駅長」(駅家の長官)等の墨書があった。他に、稲籾を模したとみられる絵の内側に「稲万呂」という人物名を墨書した須恵器が存在する。これは伊場遺跡・梶子遺跡・城山遺跡・鳥居松遺跡から計19点出土しており、鳥居松遺跡で特に多く12点出土している。稲万呂がいかなる人物かは不明であるが、「上殿」と書かれた須恵器も出土しており、郡衙関係者の中でも有力者であったと考えられている(wiki)。」
静岡駅に7時47分に到着。シェアサイクルの予約と解錠に手間取り静岡駅北口のサイクルポートを8時過ぎに出発。最初に賤機山古墳群を見学するので浅間神社に向かう。浅間神社はチャリを停められないので隣の麓山神社の中にある駐輪スペースを見つけて駐輪し電子キーで施錠して出発するも解錠の仕方はうろ覚えで少し不安。
ともあれ階段を登るとすぐに賤機山古墳(三号墳)がある。階段下には国史跡の石碑があり登ると解説板があるが石室内には入れず上にも登れない。ただし外から石室を覗くと内部の石棺などが見えるような照明のようなものがなされていた。
賤機山古墳は六世紀に築造された円墳で県内一とされる石室や豪華な副葬品からこの地を治めた首長の墓とされる。賤機山からつらなる舌状の尾根の南の先端部にあり、裾墳頂の標高は50mで比高差は30m、町を一望できるようだ。首長の墓にふさわしい場所だ。
それからハイキングコースとなっている道を進んでいく。散歩やハイキング、ランナーなど次々に現れる。しばらく階段を登ると麓山神社本堂がありこれも国の重要文化財に指定されているようだ。さらに登るとどなたかのHPの写真で見た麓神社後古墳(賤機山2号墳)の目印となる壊れて地面に落ちている石碑があるが墳丘の姿は見えず削平されてしまったのか?
さらに登ると一本松の標注がありこの辺りが一本松古墳(賤機山一号墳)のようだ。丸い段の着いた高まりの上が休憩場所になっている。このコースはいたるところに展望台があり、太平洋まで見渡せる絶好の場所で古墳や山城の立地としては最高の場所だ。
その先には観音像のたっている浅間山となり、ここからは山道らしくなってくる。やや険しいアップダウンを進むと、急に落ち込んでいる場所があり、左右を見ると堀の跡のようだ。所々に土塁や空堀のような遺構と思われる地形を見かける。
いくつかのアップダウンを経て賤機山山頂に出る。ここには賤機山城址の石碑と解説板がある。山頂では地元のグループがなにやら植樹のようなことをしていた。
このまま進めば鯨池方面に向かうが今日はチャリを回収するため、引き返すことにした。往路では確認できなかった一本松の標注を確認してこの辺りは賤機山2号墳であるらしい。ほどなく麓山神社、賤機山古墳に出て駐輪場に降り立った。
賤機山城址(wiki):市内を南北に流れる安倍川の左岸に沿うように伸びる賤機山(標高171メートル)山頂にある。築城年代は駿河の守護・今川範政が駿府に入った1411年(応永18年)ごろとされるが、さらに古いとする意見もある。
馬の背状の尾根最上部に本曲輪を構え、櫓台や土塁が配置されている。南北の尾根にも複数の曲輪があり、狭い尾根筋には堀切を設けて遮断し防御性を高めている。本曲輪のある山頂は今川館(後の駿府城)の北西、今川氏の菩提寺である臨済寺の真裏にあたり、詰の城であったとされている。
『甲陽軍鑑』等の史料では「籠鼻」や「籠山」の名で登場し、武田信玄が駿河を侵攻した1568年(永禄11年)の12月13日に武田勢に占拠されて落城。この時、武田側により一部改修が加えられた可能性が指摘されている[2]。その後さらに1582年(天正10年)の徳川家康入府の際に再び落城し、廃城となったという。
現在の賤機山は市街地に程近いハイキングコースとなっており、曲輪や堀切などの遺構を見ることが出来る。
賤機山をこのまま進めば鯨池方面に向かうが今日はチャリを回収するため、引き返すことにした。往路では確認できなかった一本松の標注を確認したが、この辺りは賤機山2号墳であるらしい。ほどなく麓山神社、賤機山古墳に出て駐輪場に降り立った。
チャリを回収し、予定の大里生涯学習センターまでチャリを走らせたが、残念ながら見学しようとした県埋蔵文化財センターの巡回展「弥生時代を科学する」は4月で終わっていた。気を取り直して登呂博物館に向かう。ここは何度か来ているが、今日は「誕生スガルノクニ」として、古代の駿河国ができる頃の様子の企画展だ。
静岡市のHPでは、
「〜いまはむかし、静岡が「スルガノクニ」とよばれはじめたころのおはなし〜」
として
「 古墳時代に大和地方を中心にできた大和王権は地方の豪族をまとめ大きな国となり、天皇を中心とした国づくりがはじまりました。その後、奈良・平安時代(8世紀〜12世紀)には、大陸の影響を受けた新しい制度により地方は統治されていき、静岡市を含む地域は、「駿河国(するがのくに)」とよばれました。
今回の展示では、日本の政治の原点となる「制度」がどのように地方に整備され、古代「駿河国」は生まれたのか、これまでの考古資料等から紐解く、静岡市の歴史シリーズ第4弾。
【会 期】 令和4年(2022年)3月19日(土)〜令和4年(2022年)6月12日(日)」と出ていた。
静岡県のデジタルミュージアムのキッズページには、静岡の古代を
「平安時代には律令制(りつりょうせい)が施行(しこう)され、役所の機能を持った郡衙(ぐんが)や国府(こくふ)がおかれました。ケイセイ遺跡:駿河区中田では、墨で「有厨」(読み方不明)と書かれた墨書土器(ぼくしょどき)や、税として徴収(ちょうしゅう)した穀物(こくもつ)を管理する正倉(しょうそう)と考えられる総柱建物跡(そうばしらたてものあと)が見つかりました。ケイセイ遺跡は、地域を統治する役目を担った駿河国有度郡衙(するがのくにうどぐんが)の可能性が考えられています。」
ここに出ている「ケイセイ遺跡」が静岡、スルガノクニを解明するきっかけとなった遺跡で有度郡衙(郡役所)に比定されている。この遺跡からは土師器や須恵器の他、硯(円面硯)、墨書土器、木簡など様々な古代役所関連の遺物が出土している。また確定していないようだが、駿府城跡からは同じく様々な古代役所関連の遺物が出ており、こちらは駿河国府ではないかと考えられているようだ。
また片山廃寺跡は、古代駿河国の国分寺跡と推定されていたが、
「 片山廃寺跡は、JR静岡駅の南東約3.5kmの有度山西麓に造られた奈良時代の寺院跡です。昭和23年に登呂遺跡周辺調査の一環として日本考古学協会による発掘調査が行なわれて以来、境内のほぼ中央に南側から金堂(中心的建物、本尊を安置)・講堂(法要や教典の講議を行なう建物)・僧房(僧侶が居住する建物)が配置されていたこと、境内のまわりは木の柱を支柱にした板塀がめぐっていたこと、火災によって建物が焼失しその後再建されなかったことなどが分かってきました。
各施設の規模・屋根瓦の特徴・出土した土器などをもとに推定される時代から駿河国国分僧寺であるとする説や、塔が見つかっていない点や中世以降「国分寺」が今の駿府城北方に存在していたことが文献資料に見えることなどから有度郡の有力豪族の氏寺である、とする説がありましたが、平成20年度に塔跡が確認されたことで、主要建物の規模や伽藍範囲の広さによって、駿河国分寺であることが有力となりました。
また、南方約500mの山裾には、片山廃寺で使用する屋根瓦を焼いた「宮川瓦窯跡群」も見つかっています。
現在、金堂跡の基壇・礎石を復元・公開しています。(静岡市)」
どうやら塔跡が発見され、片山廃寺跡は国分寺である可能性が高まったようだ。静岡、スルガ地域の古代に触れ、駅北口にチャリを変革し、再び新幹線に乗って浜松へと向かった。
静岡市内の古墳と博物館めぐりの後、再び新幹線に乗り浜松へ。ここのレンタサイクルは千円だが、場所がわからないし、バスのほうが安上がりなので、北口バスターミナルに出て0番を探すがバス停は1番からしかなく、あわててチケット販売所で1番バス停の0番バスと聞き、慌ててすぐ裏のバス停に向かうと出発直前でセーフし蜆塚町など貝塚にちなむ名前の街を進み、博物館バス停で下車。ここは蜆塚遺跡(+古墳)が敷地内に遺跡公園としてあるところ。まず展示を見る。常設展示ではシジミ貝塚の貝層剥ぎ取り、人骨、出土土器、石器や装飾品などの展示がある。その続きには弥生時代以降でとりわけ弥生時代から古代へと続く伊場遺跡は有名だ。
浜松駅西方の砂丘列の低湿地付近に立地する弥生時代の環濠集落で、古代の郡衙八駅家跡など周辺に多くの関連遺跡を持つ遺跡群で国鉄貨物駅建設のために史跡指定が解除され、行政訴訟が起こされたが、訴えた考古学者らに原告適格がないという日本の官製法律らしい馬鹿な判決で史跡指定解除されたが、一部は史跡として生き残り、史跡公園となっているようだ。またいつか訪問してみたい。
そうした弥生時代から古代にかけての出土品を見学してから、企画展の「古墳に出かけよう」を見る。
蜆塚遺跡:
「縄文時代後期から晩期前葉の貝塚を伴う集落の跡。
貝塚の規模は東海地域各地に残る縄文時代の貝塚の中でも有数であり、静岡県内においては磐田市の小規模な貝塚を除けば縄文時代の貝塚はほとんど例がなく、貴重な原始遺産。
貝塚から出土した貝類は入り江や河口に多いヤマトシジミが9割以上であり、そのほかにはハマグリ、マガキ、キサゴなどもみられる。動物の骨ではシカ、イノシシ、クジラ、ウミガメ、鳥はツルやキジ、魚はコイ、フナ、クロダイ、スズキ、カツオなども出土。
縄文土器や動物の骨を加工した道具、そして墓地と思われる場所からは縄文人の骨も発見されている。
1959(昭和34)年5月13日に国の文化財に指定された。
貝塚に接するように発見された平地住居跡からは、一時期の集落は3〜5戸ほどで、20人を超えないくらいの人口で村が形成されていたと考えられる。
また、貝塚に保護されていた人骨から、縄文時代の人々の平均身長が150cm、平均寿命が35歳程度であったことがわかる。発掘された人骨のほとんどが、掘った穴の中に手と足を曲げて直接埋めた屈葬(くっそう)であった。中には犬歯のみが抜歯された頭蓋骨もあり、当時の習俗と考えられる。
出土した動物の骨からは、やじりが刺さった状態のものも見つかっており、縄文人が弓矢で狩りをしていた事実だけではなく、弓矢の威力も証明した。しかし、貝塚から見つかった貝や動物の肉のみを食べて生活していたわけではなく、木の実を食料として使う際に皮を剥くのに使ったと思われるくぼみ石などが見つかっていることから、木の実なども貴重な食料であったと思われる。(浜松情報Book)」
伊場遺跡:
「伊場遺跡(いばいせき)または伊場遺跡群(いばいせきぐん)は、静岡県浜松市中区伊場にある弥生時代から平安時代にかけての複合遺跡。浜松駅西方の、遠州灘沿岸低地に複数形成された砂丘列上に位置する低湿地遺跡である。
1949年(昭和24年)2月、先の太平洋戦争中に連合国軍の艦砲射撃によって出来た大穴から弥生土器が出土し、遺跡があることが判明、同年4月から國學院大学考古学研究室による発掘調査が行われた。弥生時代の環濠集落のほか、古代敷知郡の郡衙および栗原駅家跡と見られる遺構・遺物が発見された。1954年(昭和29年)に県指定史跡に指定されたが1973年(昭和48年)に指定解除された。このため1974年(昭和49年)には指定解除の取消を求めた行政訴訟「伊場遺跡訴訟」を引き起こした。
伊場遺跡の周囲2キロメートル四方には、梶子遺跡・梶子北遺跡・城山遺跡・鳥居松遺跡・中村遺跡・九反田遺跡・三永遺跡がひろがっており、それぞれ数次の発掘調査が行われている。伊場遺跡を含めたこれら8遺跡は伊場遺跡群と総称され、調査の進展により、奈良時代から平安時代初期にかけての地方官衙である、敷知郡衙(郡家)と栗原駅家跡であることが解ってきた。
前述の「伊場大溝」は、遺跡群内を蛇行しながら流れており、流路内やその周辺から大量の奈良・平安時代の遺物が出土し、その中には紀年銘資料の木簡も含まれていた。最初に発見された木簡は1970年(昭和45年)10月の伊場遺跡第3次調査で発見されたもので、「乙未年」(695年:7世紀末)の銘があった。発見当時、地方官衙から大宝令施行(701年:8世紀初頭)以前の木簡が出土するとは考えられていなかったため、にわかには信じられず議論を呼んだ。
他に「己亥年五月十九日渕評竹田里人」(文武天皇3年、699年)と記されたものがある。「評」は「コオリ」と読み、7世紀中葉の孝徳朝頃から8世紀初頭の大宝令施行(701年)に至るまで実施され、大宝令施行後に「郡」となった地方行政単位で、評督(ひょうのかみ)・評助督(ひょうのすけ)が置かれた。「渕評」は「フチノコオリ」と読め、後の敷知郡にあたる。2018年(平成30年)現在、確認されている最古のものは梶子遺跡出土の「己卯年」(679年)銘、最新のものは伊場遺跡出土の「延長2年」(924年)銘という。
木簡のほか、土師器や須恵器、瓷器(灰釉陶器・緑釉陶器)が出土している。それらの中には墨書土器があり、「布知厨」(郡衙の給食施設)や「少毅殿」(軍団の次官)・「栗原駅長」(駅家の長官)等の墨書があった。他に、稲籾を模したとみられる絵の内側に「稲万呂」という人物名を墨書した須恵器が存在する。これは伊場遺跡・梶子遺跡・城山遺跡・鳥居松遺跡から計19点出土しており、鳥居松遺跡で特に多く12点出土している。稲万呂がいかなる人物かは不明であるが、「上殿」と書かれた須恵器も出土しており、郡衙関係者の中でも有力者であったと考えられている(wiki)。」
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