根府川駅からスタートです。まずはスタート前に駅構内にある関東大震災殉難碑を見ます。ホテルの利用客などが気付かず通り過ぎますが、是非注目してほしい碑です。
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10/13 10:12
根府川駅からスタートです。まずはスタート前に駅構内にある関東大震災殉難碑を見ます。ホテルの利用客などが気付かず通り過ぎますが、是非注目してほしい碑です。
この石碑は国土地理院の地形図に「災害伝承碑」として記載されています。後述の岩泉寺入口にある石碑も地形図にあらわれています。この記号の地形図への掲載は各自治体からの申請によるもので、大震災をしっかり後世に伝えていこうという根府川地域の強い思いを感じました。
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10/20 16:04
この石碑は国土地理院の地形図に「災害伝承碑」として記載されています。後述の岩泉寺入口にある石碑も地形図にあらわれています。この記号の地形図への掲載は各自治体からの申請によるもので、大震災をしっかり後世に伝えていこうという根府川地域の強い思いを感じました。
裏面を見ると昭和48年建立です。関東大震災が起きたのが1923年(大正12年)で震災半世紀を記念して1973年(昭和48年)に駅員らによって建立されました。
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10/13 10:12
裏面を見ると昭和48年建立です。関東大震災が起きたのが1923年(大正12年)で震災半世紀を記念して1973年(昭和48年)に駅員らによって建立されました。
ホームには跨線橋が設置されていますが、そのまま改札口に繋がっています。海岸のきわにあってすでにこの駅の標高は50m。急崖の上にあることが分かります。秋の好日、相模湾には釣り船がゆらゆらと揺れていました。
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10/13 10:19
ホームには跨線橋が設置されていますが、そのまま改札口に繋がっています。海岸のきわにあってすでにこの駅の標高は50m。急崖の上にあることが分かります。秋の好日、相模湾には釣り船がゆらゆらと揺れていました。
根府川駅頭の辻説法よろしく、根府川駅周辺で起きた関東大震災時の災難について笠間先生よりご講義をいただきます。説明も絵もわかりやすい!
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10/13 10:29
根府川駅頭の辻説法よろしく、根府川駅周辺で起きた関東大震災時の災難について笠間先生よりご講義をいただきます。説明も絵もわかりやすい!
根府川駅の跨線橋から見た東海道線東京方面。実は根府川駅は1番線がありません。(上り2番線から)写真に写っている左側のホームのようなものが貨物積み下ろしのための1番線だったと言われています。関東大震災の際には駅舎もホームも一切が流出したとの記述から震災後の構築の可能性もありですが、一方土砂は一番ホーム上を滑り落ちたという見方もありハッキリしません。
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10/13 10:42
根府川駅の跨線橋から見た東海道線東京方面。実は根府川駅は1番線がありません。(上り2番線から)写真に写っている左側のホームのようなものが貨物積み下ろしのための1番線だったと言われています。関東大震災の際には駅舎もホームも一切が流出したとの記述から震災後の構築の可能性もありですが、一方土砂は一番ホーム上を滑り落ちたという見方もありハッキリしません。
海中に没した列車を引き上げたことを報じる当時の新聞。(いさぼうネットより)
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海中に没した列車を引き上げたことを報じる当時の新聞。(いさぼうネットより)
根府川駅前の小さな広場にはジオサイトの看板が建っています。その地図でまずは根府川の地形を把握し、そして実は関東大震災が起きたとき、付近の白糸川上流から時速50kmで流下したきた土石流と根府川駅が滑落するほどの巨大地滑りとの二大事案が勃発したことを学びます。
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10/13 10:49
根府川駅前の小さな広場にはジオサイトの看板が建っています。その地図でまずは根府川の地形を把握し、そして実は関東大震災が起きたとき、付近の白糸川上流から時速50kmで流下したきた土石流と根府川駅が滑落するほどの巨大地滑りとの二大事案が勃発したことを学びます。
片浦小学校の下まで登ってくるとカールのようなスリバチ状の地形が広がります。今は家や畑が広がっていますが、ここが震災時に根府川駅周辺で起きた大崩落の跡とのこと。ここのカール状の土砂が火砕物(軽石に富む)を境界面として落ちたんだとすれば膨大な量の土砂が下方を襲ったことになります。
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10/13 10:58
片浦小学校の下まで登ってくるとカールのようなスリバチ状の地形が広がります。今は家や畑が広がっていますが、ここが震災時に根府川駅周辺で起きた大崩落の跡とのこと。ここのカール状の土砂が火砕物(軽石に富む)を境界面として落ちたんだとすれば膨大な量の土砂が下方を襲ったことになります。
片浦小学校まで上がってみました。小学校の裏手、竹やぶ斜面の下部にも擁壁がありましたが、使われている石材が根府川石とのこと。根府川石は、箱根古期外輪山溶岩で、白糸川(根府川の西方)の中流、高度340mの地点の、この川を横切る岩脈から流出した輝石安山岩です。噴出地点より下流の海岸まで扇状に分布していると云われます。この学校がまた崩れることはないのか?というメンバーの心配の声もありました。根府川石の特徴である板状節理にしたがって切られている感じが良くでていますね。
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10/13 11:08
片浦小学校まで上がってみました。小学校の裏手、竹やぶ斜面の下部にも擁壁がありましたが、使われている石材が根府川石とのこと。根府川石は、箱根古期外輪山溶岩で、白糸川(根府川の西方)の中流、高度340mの地点の、この川を横切る岩脈から流出した輝石安山岩です。噴出地点より下流の海岸まで扇状に分布していると云われます。この学校がまた崩れることはないのか?というメンバーの心配の声もありました。根府川石の特徴である板状節理にしたがって切られている感じが良くでていますね。
今日は静かな湘南の海です。遠くに見える枕のような真鶴半島、手前が赤馬の岩礁を従えた岬、さらにその手前が江の浦です。雁行する岬たちが一幅の美しい絵のように見えます。これだけでも巡検に来た価値あり!
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10/13 11:12
今日は静かな湘南の海です。遠くに見える枕のような真鶴半島、手前が赤馬の岩礁を従えた岬、さらにその手前が江の浦です。雁行する岬たちが一幅の美しい絵のように見えます。これだけでも巡検に来た価値あり!
電柱に隠れてしまっていますが、その向こうの高台が「秋葉山」と呼ばれ、そこに建つ公民館に被災住民たちが避難し共同生活が始まったと伝えられています。斜面に突き出した岬状の地形で箱根溶岩流が分厚く滞留し安定的な地層なのかも知れません。
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10/13 11:16
電柱に隠れてしまっていますが、その向こうの高台が「秋葉山」と呼ばれ、そこに建つ公民館に被災住民たちが避難し共同生活が始まったと伝えられています。斜面に突き出した岬状の地形で箱根溶岩流が分厚く滞留し安定的な地層なのかも知れません。
急崖を岩泉寺へと下りていきます。この下りはかなりの急崖。根府川駅のあたりは箱根火山の裾野が海中に没する地点であるわけですが、その箱根火山の急勾配に加え、波の波食作用や関東大震災での地滑り源頭の急崖の形成が相乗的に作用しているように思えました。
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10/13 11:19
急崖を岩泉寺へと下りていきます。この下りはかなりの急崖。根府川駅のあたりは箱根火山の裾野が海中に没する地点であるわけですが、その箱根火山の急勾配に加え、波の波食作用や関東大震災での地滑り源頭の急崖の形成が相乗的に作用しているように思えました。
墓地に石がありましたが本小松石だとのことです。小松石はここ根府川より南の真鶴に産する溶岩類です。時間が経つとこのような表面に星状の斑点が出るとのことです。なかなか渋い味わいですね。
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10/13 11:21
墓地に石がありましたが本小松石だとのことです。小松石はここ根府川より南の真鶴に産する溶岩類です。時間が経つとこのような表面に星状の斑点が出るとのことです。なかなか渋い味わいですね。
岩泉寺通用門から寺にアクセスさせてもらいます。失礼しま〜す!
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10/13 11:22
岩泉寺通用門から寺にアクセスさせてもらいます。失礼しま〜す!
なかなかに立派な岩泉寺です。もともとは白糸川右岸の釈迦堂の位置にありましたが、洪水で流されてこの高台に移ってきました。関東大震災のとき、被害を受けなかった住人からお米が供出されそれを岩泉寺の和尚が集めて放出したと伝えられています。
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10/13 11:24
なかなかに立派な岩泉寺です。もともとは白糸川右岸の釈迦堂の位置にありましたが、洪水で流されてこの高台に移ってきました。関東大震災のとき、被害を受けなかった住人からお米が供出されそれを岩泉寺の和尚が集めて放出したと伝えられています。
岩泉寺にある「大震災殃死者供養塔」の碑。「殃」は白川静「字統」によれば「わざわい」という意味。だから「殃死」とは災害死のことです。あまり使わない字ですね。地形図にも伝承碑としての記号の記載が確認できました。
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10/13 11:26
岩泉寺にある「大震災殃死者供養塔」の碑。「殃」は白川静「字統」によれば「わざわい」という意味。だから「殃死」とは災害死のことです。あまり使わない字ですね。地形図にも伝承碑としての記号の記載が確認できました。
石碑の「甚だ悲惨の至り」と書かれた文字が涙を誘います。地理の会会員がまとめられている「いさぼうネット」記事によると「生き残った住人はあまりの恐ろしさに誰となく「南無妙法蓮華経」と唱えると、そこに居った皆も声高く唱えました。余震が来ると「マンザ、マンザ」と唱えながら、地震が治まることを祈っておりました」とあります。「マンザ」は、邪気を払う呪文のようなものかも知れません。
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10/13 11:26
石碑の「甚だ悲惨の至り」と書かれた文字が涙を誘います。地理の会会員がまとめられている「いさぼうネット」記事によると「生き残った住人はあまりの恐ろしさに誰となく「南無妙法蓮華経」と唱えると、そこに居った皆も声高く唱えました。余震が来ると「マンザ、マンザ」と唱えながら、地震が治まることを祈っておりました」とあります。「マンザ」は、邪気を払う呪文のようなものかも知れません。
大正14年、震災からわずか2年で建てられたものです。ちなみにこの石材は板状節理を利用した根府川石の石碑です。根府川石の「湾曲した板状節理」の性質をよく表しています。根府川石は天正年間(1573-1591)に開発が始まったといわれます。
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10/13 11:27
大正14年、震災からわずか2年で建てられたものです。ちなみにこの石材は板状節理を利用した根府川石の石碑です。根府川石の「湾曲した板状節理」の性質をよく表しています。根府川石は天正年間(1573-1591)に開発が始まったといわれます。
白糸川を新幹線の高い高架をくぐって上流へと歩を進めます。
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10/13 11:35
白糸川を新幹線の高い高架をくぐって上流へと歩を進めます。
白糸川の土石流でもたらされた大きな岩塊が関東大震災の記念として白糸川左岸集落内に置かれています。水による災害は発生しなかったようなので土石崩れの勢いだけでこの大きな石が上から流れて来たことになります。ちなみにちょうどこに根府川道(東海道の脇往還)に設けられた江戸時代の根府川関所がありました。
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10/13 11:38
白糸川の土石流でもたらされた大きな岩塊が関東大震災の記念として白糸川左岸集落内に置かれています。水による災害は発生しなかったようなので土石崩れの勢いだけでこの大きな石が上から流れて来たことになります。ちなみにちょうどこに根府川道(東海道の脇往還)に設けられた江戸時代の根府川関所がありました。
新編相模国風土記稿によると、このあたりに根府川道(東海道の脇街道)が通っておりその関所(根府川関所)が置かれていました。江戸初期1615年(元和元年)から明治維新まで約250年間にもわたって続いた関所です。具体的な場所は目の前の白糸川の川底にあたる位置と記述がありますが、白糸川は震災前は現在よりも少し北側を流れていたと言われており(だから関所自体は当時陸地)、大震災の土石流のデブリにより川の流路が変わり関所跡の上を流れるようになった可能性があります。
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10/13 11:38
新編相模国風土記稿によると、このあたりに根府川道(東海道の脇街道)が通っておりその関所(根府川関所)が置かれていました。江戸初期1615年(元和元年)から明治維新まで約250年間にもわたって続いた関所です。具体的な場所は目の前の白糸川の川底にあたる位置と記述がありますが、白糸川は震災前は現在よりも少し北側を流れていたと言われており(だから関所自体は当時陸地)、大震災の土石流のデブリにより川の流路が変わり関所跡の上を流れるようになった可能性があります。
案内板にあった根府川関所の絵。「石火○(莢?)五挺」と書かれています。箱根に次ぐ重要な関所だったゆえ、取締りのために火器のようなものも装備していたのでしょうか。
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10/13 11:37
案内板にあった根府川関所の絵。「石火○(莢?)五挺」と書かれています。箱根に次ぐ重要な関所だったゆえ、取締りのために火器のようなものも装備していたのでしょうか。
笠間先生による黒板を使った解りやすい説明!ここでは成層火山がどうして火口を中心として裾野を引くのか、また溶岩の流れる際にできるクリンカー構造について丁寧な説明を頂きました。
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10/13 11:41
笠間先生による黒板を使った解りやすい説明!ここでは成層火山がどうして火口を中心として裾野を引くのか、また溶岩の流れる際にできるクリンカー構造について丁寧な説明を頂きました。
東海道線の白糸川鉄橋。大洞山からの山津波で流されたあと再建されましたがほぼ同じトラス構造だったといいます。今はかながわの橋100選のひとつ。それにしても高いところを土石流が通過したようでコンクリート造りの橋脚6本のうち5本が切断され、橋脚3本と橋桁1本は100mほど下流の海中に没しました。
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10/13 11:58
東海道線の白糸川鉄橋。大洞山からの山津波で流されたあと再建されましたがほぼ同じトラス構造だったといいます。今はかながわの橋100選のひとつ。それにしても高いところを土石流が通過したようでコンクリート造りの橋脚6本のうち5本が切断され、橋脚3本と橋桁1本は100mほど下流の海中に没しました。
震災時、大洞地区からの土石流(山津波)と落橋してしまった白糸川鉄橋の写真。息を呑む光景です。写真右手にあったであろう根府川駅が斜面とかしてしまっている事も確認できるように思います。(いさぼうネットより)
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震災時、大洞地区からの土石流(山津波)と落橋してしまった白糸川鉄橋の写真。息を呑む光景です。写真右手にあったであろう根府川駅が斜面とかしてしまっている事も確認できるように思います。(いさぼうネットより)
この白糸川鉄橋の橋脚石積みはレンガの長手だけの段と小口(短い)だけの段とを交互に積み重ねる「イギリス積み」と呼ばれるもので明治期に伝わった古い積み方。これが残っていることは土石流の中にあってこの礎石が残ったという見方もできるかも知れません。講師談ではそれは何とも言えないとのこと。
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10/13 12:00
この白糸川鉄橋の橋脚石積みはレンガの長手だけの段と小口(短い)だけの段とを交互に積み重ねる「イギリス積み」と呼ばれるもので明治期に伝わった古い積み方。これが残っていることは土石流の中にあってこの礎石が残ったという見方もできるかも知れません。講師談ではそれは何とも言えないとのこと。
東海道線の白糸川鉄橋の高架の下あたりで白糸川を渡ります。河口を見るとすぐそこで白い波が打ち寄せていました。海岸にこれほど近いのにすでに標高差があることは、往時の土石流の堆積を彷彿とさせます。
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10/13 12:01
東海道線の白糸川鉄橋の高架の下あたりで白糸川を渡ります。河口を見るとすぐそこで白い波が打ち寄せていました。海岸にこれほど近いのにすでに標高差があることは、往時の土石流の堆積を彷彿とさせます。
根府川の釈迦堂です。この中に磨崖仏の釈迦像があります。
ここはかつての岩泉寺があったところ。寺はその後洪水で流されて江戸時代に高台に避難し、磨崖仏は残されてしまいました。
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10/13 12:03
根府川の釈迦堂です。この中に磨崖仏の釈迦像があります。
ここはかつての岩泉寺があったところ。寺はその後洪水で流されて江戸時代に高台に避難し、磨崖仏は残されてしまいました。
釈迦堂のお釈迦さまは磨崖仏です。
釈迦堂基部より一階分ほど掘り下げられた深いところにあり15段の階段をおりて拝めます。元は、根府川集落地表面に対して15段の階段をあがった見上げるような位置に彫られていましたが、大洞地区を発生源とした東京ドーム一杯分の土石流により埋没しました。土石流の驚異的な規模感を感じるとの声が出ました。かかる災厄の中にあって無傷で掘り出されたことから霊験いやちこな仏様として地域の尊崇を集めています。
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10/13 12:04
釈迦堂のお釈迦さまは磨崖仏です。
釈迦堂基部より一階分ほど掘り下げられた深いところにあり15段の階段をおりて拝めます。元は、根府川集落地表面に対して15段の階段をあがった見上げるような位置に彫られていましたが、大洞地区を発生源とした東京ドーム一杯分の土石流により埋没しました。土石流の驚異的な規模感を感じるとの声が出ました。かかる災厄の中にあって無傷で掘り出されたことから霊験いやちこな仏様として地域の尊崇を集めています。
この磨崖仏が彫られた岩は米神溶岩。米神は小田原の地名で、米神溶岩は玄武岩質の安山岩を指します。講師に懐中電灯で照らしていただいています。なお「米神」は珍しい地名ですが「弘法大師が水を断たれ、生米を噛んだという伝承」からそう言われます。真偽のホドは?ですが、一応”米噛み”が由来だったんですね。
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10/13 12:04
この磨崖仏が彫られた岩は米神溶岩。米神は小田原の地名で、米神溶岩は玄武岩質の安山岩を指します。講師に懐中電灯で照らしていただいています。なお「米神」は珍しい地名ですが「弘法大師が水を断たれ、生米を噛んだという伝承」からそう言われます。真偽のホドは?ですが、一応”米噛み”が由来だったんですね。
釈迦堂に設置された説明板。根府川地誌の語り部、内田一正氏が設置したもの。これによると寛永年間(徳川家光の時代)からこの場所は地震や津波に見舞われ、安寧を願いこの地に岩泉寺を造立したがやがて1659年の洪水で流され3年後に高台に移転したといいます。なお内田一正氏は10歳のときに大震災に遭い後に地域の災害を克明に記録した人です。
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10/13 12:07
釈迦堂に設置された説明板。根府川地誌の語り部、内田一正氏が設置したもの。これによると寛永年間(徳川家光の時代)からこの場所は地震や津波に見舞われ、安寧を願いこの地に岩泉寺を造立したがやがて1659年の洪水で流され3年後に高台に移転したといいます。なお内田一正氏は10歳のときに大震災に遭い後に地域の災害を克明に記録した人です。
磨崖仏は物理的に移動できず残置され、その後、関東大震災による土石流で埋まってしまって現在のような地中深く掘った形で拝めるようになったという。
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10/13 12:07
磨崖仏は物理的に移動できず残置され、その後、関東大震災による土石流で埋まってしまって現在のような地中深く掘った形で拝めるようになったという。
海岸には真っ赤な石が見つかりますが、石に含まれるFe(鉄)分が酸化して赤化しました。もとは磁鉄鉱だったものが赤鉄鉱に変化して磁性を失っています。地球の1/3は鉄でできており、鉄を作る原石の主なものは赤鉄鉱や磁鉄鉱です。鉄(Fe)はいろいろな元素と結びつきやすい元素でさまざまな形態があることで知られています。
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10/13 12:56
海岸には真っ赤な石が見つかりますが、石に含まれるFe(鉄)分が酸化して赤化しました。もとは磁鉄鉱だったものが赤鉄鉱に変化して磁性を失っています。地球の1/3は鉄でできており、鉄を作る原石の主なものは赤鉄鉱や磁鉄鉱です。鉄(Fe)はいろいろな元素と結びつきやすい元素でさまざまな形態があることで知られています。
メンバーのMさんが磁石を持っていたので石に近づけてみると、石によっては磁性を持っているものがあってビックリポン!
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10/13 12:57
メンバーのMさんが磁石を持っていたので石に近づけてみると、石によっては磁性を持っているものがあってビックリポン!
笠間先生に詳しく石の解説をいただきます。平べったい形は、渚礫の特徴です。火山岩は内部の空気により発泡の度合いが違い、それが石の”顔”にも表れます。素材により色の違いもさまざま。
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10/13 12:58
笠間先生に詳しく石の解説をいただきます。平べったい形は、渚礫の特徴です。火山岩は内部の空気により発泡の度合いが違い、それが石の”顔”にも表れます。素材により色の違いもさまざま。
火山岩にしばしば見られる斑状組織。白い鉱物が斜長石です。黒い鉱物が輝石です。
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10/13 12:58
火山岩にしばしば見られる斑状組織。白い鉱物が斜長石です。黒い鉱物が輝石です。
石に付着した白いものは「ヤッコカンザシ(奴簪)」というゴカイの仲間の生物痕。環形動物で石灰質の棲管を作ってその中で生活します。海面付近に棲息することを好むため、石に残った棲管はそこに海面があったことを示し、隆起もしくは海退の有力なエビデンスとなります。なおこの石は高波で打ち上げられたものです。
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10/13 13:03
石に付着した白いものは「ヤッコカンザシ(奴簪)」というゴカイの仲間の生物痕。環形動物で石灰質の棲管を作ってその中で生活します。海面付近に棲息することを好むため、石に残った棲管はそこに海面があったことを示し、隆起もしくは海退の有力なエビデンスとなります。なおこの石は高波で打ち上げられたものです。
箱根火山の溶岩流が露出して海面に接しているところは格好の石切り場として利用されました。
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10/13 13:14
箱根火山の溶岩流が露出して海面に接しているところは格好の石切り場として利用されました。
右の人と真ん中の人の間のテーブル状の釣り人がいる場所は石切りが行われた場所だという。江戸城などの石垣の材料として切って運ばれていったらしい。当時は波との闘いで命がけで採石していたに違いありません。
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10/13 13:20
右の人と真ん中の人の間のテーブル状の釣り人がいる場所は石切りが行われた場所だという。江戸城などの石垣の材料として切って運ばれていったらしい。当時は波との闘いで命がけで採石していたに違いありません。
採石加工あと。板状節理の広い部分をねらって石切りがされていました。当時石切りは計画的に行われたと伝えられており、需要と供給の関係で打ち切りになり放置されたと推定しています。石切りには二つの方法(クサビ法・溝法)がありこれはクサビ法によるものです。
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10/13 13:21
採石加工あと。板状節理の広い部分をねらって石切りがされていました。当時石切りは計画的に行われたと伝えられており、需要と供給の関係で打ち切りになり放置されたと推定しています。石切りには二つの方法(クサビ法・溝法)がありこれはクサビ法によるものです。
モツ料理に出てくるような内臓の内皮状の紋様は「塩類風化」と呼ばれるもの。風化は物理的なまたは化学的な要因で進行しますが、「塩類風化」は物理的風化で、溶岩内部に浸透した塩類が乾燥で結晶化する際生じる力で岩石を壊す現象です。塩の熱膨張だったり水和作用で生じる応力が起因するケースもあります。
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10/13 13:22
モツ料理に出てくるような内臓の内皮状の紋様は「塩類風化」と呼ばれるもの。風化は物理的なまたは化学的な要因で進行しますが、「塩類風化」は物理的風化で、溶岩内部に浸透した塩類が乾燥で結晶化する際生じる力で岩石を壊す現象です。塩の熱膨張だったり水和作用で生じる応力が起因するケースもあります。
大根から陸地を見上げます。東海道本線が見えますがその上の急崖は根府川石の採石がされた結果できたもの。比較的人工的で平面的な崖が見えています。
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10/13 13:25
大根から陸地を見上げます。東海道本線が見えますがその上の急崖は根府川石の採石がされた結果できたもの。比較的人工的で平面的な崖が見えています。
根府川大根の露岩から見る小田原市街。遠く丹沢山塊の右から丹沢大山・二の塔・三の塔・雲の下の塔ノ岳が見えています。その手前のアスピーテ型の曲線が曽我兄弟でも有名な曽我丘陵。丘陵の手前側の麓は実は断層崖でフィリピン海プレートと北米プレートの境界が走っているところになります。
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10/13 13:27
根府川大根の露岩から見る小田原市街。遠く丹沢山塊の右から丹沢大山・二の塔・三の塔・雲の下の塔ノ岳が見えています。その手前のアスピーテ型の曲線が曽我兄弟でも有名な曽我丘陵。丘陵の手前側の麓は実は断層崖でフィリピン海プレートと北米プレートの境界が走っているところになります。
クリンカー構造が見て取れます。クリンカー(Clinker)とは、モノを燃焼させたときに高温により灰が焼結・溶解してできる石状のものを指し、熔岩が流れるときに空気に接する表面が冷やされて固体状の塊(トンカツの皮)ができそれがまた流れながら液体の熔岩に取り込まれてできる構造です。
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10/13 13:28
クリンカー構造が見て取れます。クリンカー(Clinker)とは、モノを燃焼させたときに高温により灰が焼結・溶解してできる石状のものを指し、熔岩が流れるときに空気に接する表面が冷やされて固体状の塊(トンカツの皮)ができそれがまた流れながら液体の熔岩に取り込まれてできる構造です。
これは礫状のクリンカーが風化して取れたものか、あるいは塩類風化によるものなのか、あるいは双方の効果でしょうか。
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10/13 13:29
これは礫状のクリンカーが風化して取れたものか、あるいは塩類風化によるものなのか、あるいは双方の効果でしょうか。
白糸川左岸から右岸へと徒渉します。今日は満潮のせいか汀線を石伝いには行けず、濡れたくない面々は写真の道路高架のあたりまで”遡行”して対岸に渡りました。ちょっとワイルド系巡検!
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10/13 13:44
白糸川左岸から右岸へと徒渉します。今日は満潮のせいか汀線を石伝いには行けず、濡れたくない面々は写真の道路高架のあたりまで”遡行”して対岸に渡りました。ちょっとワイルド系巡検!
白糸川の急流を何とかみんなで渡り終えました。自分も含め一部の人はしっかり靴を濡らしました。一部の人は濡らして気持ちがいい!と喜んでいました(笑)。
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10/13 13:53
白糸川の急流を何とかみんなで渡り終えました。自分も含め一部の人はしっかり靴を濡らしました。一部の人は濡らして気持ちがいい!と喜んでいました(笑)。
白糸川の右岸(南側)に来ました。白糸川右岸の熔岩は、米神熔岩グループに属します。(米神とは根府川よりも北(小田原より)の集落名です)岩質は玄武岩質安山岩で苦鉄質を含み黒っぽい印象です。年代は30万年前から25万年前と推定されます。写真の溶岩もまたクリンカー構造が指摘できます。
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10/13 13:58
白糸川の右岸(南側)に来ました。白糸川右岸の熔岩は、米神熔岩グループに属します。(米神とは根府川よりも北(小田原より)の集落名です)岩質は玄武岩質安山岩で苦鉄質を含み黒っぽい印象です。年代は30万年前から25万年前と推定されます。写真の溶岩もまたクリンカー構造が指摘できます。
植被に覆われていますが、熔岩露頭です。露頭下部は米神熔岩で玄武岩質ですが、露頭上部は根府川熔岩に属し安山岩〜デイサイトになります。両熔岩とも噴出時代は同時期ながら前者は成層火山的な噴出、後者は単成火山的な噴出だったとみられます。根府川熔岩グループから根府川石が採取されました。
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10/13 14:00
植被に覆われていますが、熔岩露頭です。露頭下部は米神熔岩で玄武岩質ですが、露頭上部は根府川熔岩に属し安山岩〜デイサイトになります。両熔岩とも噴出時代は同時期ながら前者は成層火山的な噴出、後者は単成火山的な噴出だったとみられます。根府川熔岩グループから根府川石が採取されました。
白糸川右岸海岸は暗色系の石が多く、左岸の白色系の海岸とは違う印象。沿岸流により海岸堆積物は同質になるようにも思われますが、陸地側から流れ下った米神溶岩成分が海岸の堆積物の色調にも影響しているように見えた。根府川石は白糸川340m地点で噴出し南北で岩質が違うという記述もあったが、それが影響している可能性もあるのでしょうか。暗黒色系はより苦鉄質が多いことを意味しています。
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10/13 14:01
白糸川右岸海岸は暗色系の石が多く、左岸の白色系の海岸とは違う印象。沿岸流により海岸堆積物は同質になるようにも思われますが、陸地側から流れ下った米神溶岩成分が海岸の堆積物の色調にも影響しているように見えた。根府川石は白糸川340m地点で噴出し南北で岩質が違うという記述もあったが、それが影響している可能性もあるのでしょうか。暗黒色系はより苦鉄質が多いことを意味しています。
この露頭では熔岩ー火山灰ー熔岩という成層火山の断面構造が見て取れました。火山灰の関東ローム層は多摩ロームに相当しているとのことでした。
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10/13 14:02
この露頭では熔岩ー火山灰ー熔岩という成層火山の断面構造が見て取れました。火山灰の関東ローム層は多摩ロームに相当しているとのことでした。
緻密で硬質な溶岩面の露頭。ここが凸状に風化に抵抗し残っている感触。いったん降った火山灰などでできる起伏の凹部にまとまって流下してきた結果溶岩塊になった可能性があります。
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10/13 14:06
緻密で硬質な溶岩面の露頭。ここが凸状に風化に抵抗し残っている感触。いったん降った火山灰などでできる起伏の凹部にまとまって流下してきた結果溶岩塊になった可能性があります。
これも溶岩が流下したときに発生したクリンカーではないかとのこと。
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10/13 14:11
これも溶岩が流下したときに発生したクリンカーではないかとのこと。
海岸からは真鶴半島がよく見えました。真鶴半島を形成した火山活動は約15万年前の事と推定されます。また真鶴半島の形成に先立つ18万年前から15万年前頃に現在本小松石として採石され石材として広く利用されている溶岩が噴出しています。
突端に見えるツノ様の岩塊は三ツ石と呼ばれていますが、以前は笠島と呼ばれる小島でした。近世に採石が行われた結果地形が変わってしまったとのことでした。
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10/13 14:15
海岸からは真鶴半島がよく見えました。真鶴半島を形成した火山活動は約15万年前の事と推定されます。また真鶴半島の形成に先立つ18万年前から15万年前頃に現在本小松石として採石され石材として広く利用されている溶岩が噴出しています。
突端に見えるツノ様の岩塊は三ツ石と呼ばれていますが、以前は笠島と呼ばれる小島でした。近世に採石が行われた結果地形が変わってしまったとのことでした。
白糸川の南側の海岸にあった溶岩。クリンカー構造がよく分かります。
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10/13 14:17
白糸川の南側の海岸にあった溶岩。クリンカー構造がよく分かります。
根府川駅へ戻ります。
この道は、昭和のいや大正の匂いのする屈曲した昔ながらの田舎道で、ここを芥川龍之介「トロッコ」で描かれた人車鉄道が通っていました。『われはもう帰んな』と土工に言われ不安で一杯になった少年・良平のことを思いだしました。
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10/13 14:46
根府川駅へ戻ります。
この道は、昭和のいや大正の匂いのする屈曲した昔ながらの田舎道で、ここを芥川龍之介「トロッコ」で描かれた人車鉄道が通っていました。『われはもう帰んな』と土工に言われ不安で一杯になった少年・良平のことを思いだしました。
当時の人車鉄道。下等の乗客は登りでは鉄道を下りて車丁と一緒に押して上がりました。かなり原始的なものでした。(いさぼうネットより)
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当時の人車鉄道。下等の乗客は登りでは鉄道を下りて車丁と一緒に押して上がりました。かなり原始的なものでした。(いさぼうネットより)
根府川駅のホームで。根府川駅の番線は2番から始まるという、鉄道マニア垂涎の構造です。震災時に地滑りで海中に没した1番線ホームは海中8mのところにありダイビングスポットになっているとのこと(笠間先生資料)。のちに再建されたと思われる1番線ホームは貨物の積み下ろし用に使われ、それが廃止になり現在は2番線からスタートということになったという歴史の整理かと思いました。しかし当時の1番線の上を崩落した土砂が通過したので、1番線は崩壊したかったのだという意見もあるようでハッキリしないようです。
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10/13 15:01
根府川駅のホームで。根府川駅の番線は2番から始まるという、鉄道マニア垂涎の構造です。震災時に地滑りで海中に没した1番線ホームは海中8mのところにありダイビングスポットになっているとのこと(笠間先生資料)。のちに再建されたと思われる1番線ホームは貨物の積み下ろし用に使われ、それが廃止になり現在は2番線からスタートということになったという歴史の整理かと思いました。しかし当時の1番線の上を崩落した土砂が通過したので、1番線は崩壊したかったのだという意見もあるようでハッキリしないようです。
根府川駅より滑り落ちた当時の客車。悲惨さが伝わってきます。(いさぼうネットより)
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根府川駅より滑り落ちた当時の客車。悲惨さが伝わってきます。(いさぼうネットより)
根府川の関東大震災の遺構のこといつも気になっていました。
地震で駅舎もホームも一切が流出したと知って信じられませんでした。
1番線がないことは気がつきませんでした。
詳細な情報ありがとうございました。
おっしゃる通り、1番線がないなんて面白いですよね。関東大震災のときにホームも駅舎もすべて海中に没したということらしいので、再建されたときに荷物の積み下ろし用の1番線も新しく作られてそのあと、1番線が使われなくなって廃止になったんじゃないかと思います。
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