濃尾平野とその周辺1)朝日遺跡(貝殻山貝塚)・清州城と八幡山古墳
コースタイム
天候 | 曇り |
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過去天気図(気象庁) | 2016年02月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車 タクシー
自転車
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写真
感想
午前中東京で朝鮮半島の考古学に関する話を聞いてから、新幹線で名古屋に向かう。名古屋から清洲に向かい、タクシーで貝殻山貝塚に。時間があれば名古屋で自転車を借りてチャリで走る予定だったが、空模様も怪しいし時間もないので今回はタクシーを使う。同展示館で貝塚や朝日遺跡に関する資料を見て、東海地方の最大級の弥生環濠集落遺跡について学ぶ。関東の弥生館れに石、古墳時代初期の遺跡からは多くの東海系ー濃尾平野系の土器などがでてくる。濃尾平野の弥生文化や人々が関係する文化がのちの東山道ルートや海沿いのルートで冠頭にもたらされているらしい。中には直接東海地方から人が移住する例が見られるという。関東の弥生を考えるうえで濃尾平野の文化の理解は欠かせないのが今回訪問した理由だ。高速道路のインターチェンジを建設するときに事前調査などで次々と発見された。貝塚自体は1920年代から加藤務らによって発掘が始められ、濃尾平野―東海地方で最も古い弥生遺跡であるとされ、何度かの発掘調査を経て史跡として1971年に国史跡に指定され、貝殻山貝塚は史跡公園として整備されてきた。一方、周辺は高速道路などのジャンクション建設計画が持ち上がり、大規模な開発計画の進行とともに巨大な環濠集落その他の関連遺跡が広い範囲に広がっており、玉作りや鍛冶工房など通常の集落を越えた手工業を含む大衆絡関連遺跡ということが判明して、なお発掘は続いている。こうした大規模集落はどのような役割を果たしていたのか?ヤマト政権との関係は?狗奴国との関係は?など疑問は尽きないが、まだまだ未解明の問題が多いようだ。展示を見ると北九州の遠賀川系土器や地元や北陸縄文の影響も見られる条痕文系など様々な土器が混じっている。中には口縁部にS字カーブのある「S字甕」という関東に広く見られる濃尾平野系の土器も展示している。お墓などの祭祀に使われたらしい丸窓付土器も変わっている。後期にはパレススタイルという赤彩を施した優雅な土器も出ている。独特の文化がはぐくまれたようだ。またお墓からは人骨も出ている。見どころの多い展示室だが、残念ながら時間が無くなり、別れを告げて清州城を見ながら新清州駅まで歩き、名古屋に戻って栄でチャリを借り、名古屋市博物館に向かう。しかし思った以上に時間がかかり、展示室の入場時間に間に合わず、ショップで図録を購入するだけに終わり、明日また訪問することに。帰りに八幡山古墳を見学し栄に戻る。八幡山古墳は残念ながら中には入ることはできず、外から見るしかない。東海地方最大の円墳として、古くに国指定史跡となったが、その後高射砲台建設などで削られ、盗掘もあって詳細は不明のようだ。暗くなった道を栄まで戻り、栄の居酒屋で土手煮など名古屋めしらしきメニューやおばんざいなどを食べて夕食変わり都市、宿舎のゲストハウスに向かった。
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