金胎寺山・嶽山・東條山・花尾山から紀見峠


- GPS
- 09:45
- 距離
- 30.7km
- 登り
- 1,694m
- 下り
- 1,577m
コースタイム
- 山行
- 9:08
- 休憩
- 0:38
- 合計
- 9:46
過去天気図(気象庁) | 2025年04月の天気図 |
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アクセス |
利用交通機関:
電車
|
装備
個人装備 |
長袖シャツ
ズボン
靴下
グローブ
雨具
日よけ帽子
昼ご飯
行動食
飲料
コンパス
ヘッドランプ
予備電池
GPS
携帯
時計
カメラ
|
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感想
今日は楠木七城の中で、金胎寺城跡と龍泉寺城(嶽山城)跡を尋ねて歩き、その後半世紀振りに東條山を訪問した
楠木七城
幕府軍との二度目の対戦では、上赤坂城を本城として、それを補完するために小根田城と桐山城、さらに下赤坂城。金剛山に詰城として千早城、出城として烏帽子形城、龍泉寺城(嶽山城)、金胎寺城などを築いた。 この時築かれた城は楠木七城と呼ばれる
二度目の戦いで楠木正成は、討伐にきた幕府軍を千早周辺に築いた七つの城に誘き寄せてさんざんに打ちのめした
金胎寺山城
城のあった金胎寺山は標高296mで富田林市で一番高い山である
金胎寺城は後醍醐天皇に仕えた楠木正成が鎌倉幕府と戦うため、南北朝時代の元弘3(1333)年に楠木7城の一つとして築城されたもので、楠公の有名な戦法である岩石・木材落としをこの城でも行い幕府軍を苦しめたと伝えられる
その後、南北朝時代の争いが続き、正平15(1360)年、畠山氏が勝って畠山氏の支城となり、室町時代の中期には畠山氏のお家騒動の末、寛正4(1463)年、落城した
山頂からの展望も開けていて良い山だった
嶽山城
この山の山頂一帯は、古代から石川谷を見下ろす重要な位置を占めており、南北朝時代には、楠木正成が嶽山城を築いた場所として知られる。嶽山城は、山腹に龍泉寺があることから、龍泉寺城とも呼ばれる
嶽山の城には正成の子、正儀がたてこもり、北朝方は今の廿山のあたりに陣をとった。楠木軍らは、寄せ手が無理に攻めてこないことを知ると、100人ばかりを城に残し、木の梢などに旗をくくりつけて、大勢の兵がたてこもっているように見せかけた。ところがある時、土岐という一族の知恵のある老武者が嶽山をみて、山の上を飛ぶ鳥が少しも驚かないことに気付き、楠木軍の計略は見破られてしまった。土岐の一族500騎は夜明けに嶽山の城をおそい、これを見た他の武士たちもいっせいに嶽山に押し寄せ嶽山城はあえなく落城となった
嶽山近くに同名の山頂がある。グリ−ンピークの嶽山は、山頂に楠木正成が築城した嶽山城の石碑が建っているが、樹木が茂り展望がない。一方、グレーピークの嶽山は、公園のような山頂で河内長野や富田林方面の展望が開けている。残念なのは私有地で、⛔立ち入り規制がかかっているようだった
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