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ついに五街道踏破!★奥州街道十次3(大田原宿→女石追分→根田宿) (40/176)


富士見峠へ。本来の峠へはここを左に入っていきます。


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※写真の著作権は撮影者に帰属します。利用の際は撮影者の方へご確認下さい。
撮影者 yaonyaosuke2
公開範囲 全員に公開
カメラメーカー Canon
カメラモデル Canon EOS M
日付 2017年5月5日 09:20
ISO感度 400
シャッタースピード 1/160 秒
絞り f/10.0
焦点距離 18mm
撮影場所
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写真リスト



蛇尾川の橋のたもとからスタート。川の水量は普段は少ないのですが大雨の時は砂利の上を一気に流れる暴れ川になるそうです。そのため江戸時代は橋は無く徒歩渡りになっていました。

この付近では東山道と表記された標識も数多く見かけました。

一里塚。移設されたものです。

ここは道なりに直進。右は棚倉街道。

「右たなくら、左しらかわ」

のどかな単調な道筋が続きます。那須らしい高原の風情です。

樹齢400年の高野槙。奥州道中三槙の一つ。

朝靄の中の麦畑が美しい。
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旧街道らしく石仏があちこちになります。
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雪をかぶった山は那須岳(那須連山)でしょうか。

練貫交差点。当初の予定では前日はここで終了して那須塩原駅まで歩いて宿泊だったのですが距離が結構あるので大田原に変更した経緯があります。

「右 奥州海道、左 原方 那須湯道」1756年のもの。

長者谷付近。「明治天皇駐輦記念碑」が設置されています。

車は少なく歩きやすい道です。

十文字は交差点の意味で他に何も目印がない東北でよく見かける地名です。
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鍋掛十文字手前には一里塚が左上にありますが移設されたものです。かつてはこの辺りにあったものと思われます。

その一里塚がこちら。
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鍋掛宿。対岸の堀越宿と合わせて1宿の機能を果たしていました。

鍋掛宿は本陣1、脇本陣1、旅籠23で難所である那珂川の手前にあります。そのため川留めでは大いに賑わったそうです。名前の由来も川留めの影響からで旅人が溢れて住民総出で鍋を出して炊き出しを行なったからといいます。

絵図によると川の手前は大きく屈曲した坂を下って対岸に渡っていたのがわかります。

鍋掛宿出口付近。右の旧道に進んで突き当りを左に曲がります。

各家の脇には水路があります。家によっては水路に下りる階段が設置されています。
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突き当たりには御仮屋跡。本陣の一部です。

右へ行くと橋がありますが旧道は直進です。

河原へと旧道が延びています。

時おり人が通るようで道自体はしっかりと残っています。

この付近から対岸へ渡っていたようです。江戸初期は徒歩渡り、後期は舟橋あるいは土橋の時がありました。

先ほどの旧道自体はまだ先にも続いていて旧道の終わりが本来の渡り場だっと思われますが藪が酷く探索不能でした。引き返して橋を渡って対岸に向かいました。

鮎の漁獲高日本一らしく橋には鮎のモニュメントがありました。

橋の奥は左折なのですが右折した先には旧道の痕跡が残っています。

昔の人はこの坂を上って堀越宿に入っていたことでしょう。

ちなみに堀越宿側の渡り場はこの辺り。

広くなった場所には古い石積みが確認できます。引き返します。

堀越宿。先ほどの鍋掛宿は幕領でしたがこちらは黒羽藩の領地。那珂川は東北の外様大名の侵攻から守る天然の防波堤の役割がありました。本陣1、脇本陣1、旅籠11。

枡形の跡。この右横にある寺に境界石が保存されています。

文化年間のもので大坂で作られています。

坂を上って丘陵地帯へ。

道路改良工事中。道なりに右へ。

美しいですね。

富士見峠へ。本来の峠へはここを左に入っていきます。

藪っていますが地盤はしっかりしています。

広い場所に出ます。ここが本来の富士見峠だったのでしょう。茶屋が何軒かあったそうです。この先は消滅しているので引き返します。

この付近で富士見峠からの旧道が右から合流してくるはずですが痕跡はないようでした。
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寺子の一里塚。移設復元されたものです。

横には富士見峠にあった馬頭観音も移設されています。

寺子は間の宿でした。

旧道入口。左へ。

左手に地蔵堂。道は真っすぐ余笹川へと続いています。

大きなお地蔵様。県境までの間にこのようなタイプのお地蔵さんを何度か見かけました。

余笹川は暴れ川で橋を架けてはすぐに流されるので基本は徒歩渡りで川越え人足が常駐していたといいます。近年の災害においても橋は流されて下流側に架け替えられています。

その災害の様子。

新しい橋を渡って旧道復帰。石田坂を上ります。

左へ。

豊岡集落。

実にのどかな道中。ここではGWの混雑は無縁です。

旧道入口右へ。

黒川の手前まで伸びる旧道。突き当りを左に曲がって橋で川を渡ります。

本来は旧道からの延長上に山へと上る旧道があったのですが一部消滅しています。この川も余笹川と同様に橋が流失すると川越え人足での渡しになっていました。

その旧道はコンクリ擁壁の手前あたりに痕跡が残っていました。

なかなかの痕跡ですが全部を辿るのは困難なようです。引き返します。

迂回中・真新しい道を進んでここを左へ。

迂回中・先ほどの旧道の痕跡はこの辺りで合流していたようです。

おそらくこれが旧道の痕跡ですが家の敷地内になってしまっています。

ここを左へ。

手植えでの光景は懐かしいですね。

夫婦石一里塚。一里塚から先は旧道が残っている場所もあるようですが痕跡は確認できませんでした。
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この左斜めからの道が昔の路盤である説があります。

ここを左へ。西坂です。名前は芦野宿の西側の坂だからの意味だと思われます。

旧道の痕跡。

直進して奈良川渡ると芦野宿です。

宿場の入口と出口には大きな地蔵様がおられます。

各家の前にはかつての屋号のモニュメントが置かれていました。

枡形。

芦野宿は本陣1、脇本陣1、旅籠40で国境を前にした大きな宿場町でした。また旗本芦野氏の陣屋町でもありました。

有名な鰻屋の丁子屋。混雑する時期は予約制のようでした。

芦野宿は宿場保存に積極さを伺えました。宿場内にある那須町歴史探訪館には街道資料も展示されています。
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道標と道路元標。道標は明治期のものです。「奥州街道 鍋掛ヲ経テ大田原ニ至ル 白坂ヲ経テ白河ニ至ル」

那須町歴史探訪館から芦野宿を見下ろして。

枡形。

ここを左に曲がって奈良川を渡ります。この先は川に沿った道筋で標高をあげていきます。

芦野宿出口にあったお地蔵様。入口にあったお地蔵様も昔はこのような野ざらしだったそうです。

右へ。左奥には遊行柳があります。

遊行柳。西行法師が休んだといわれ松尾芭蕉も唱を詠んだという有名な場所です。
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左横に旧道の痕跡。そのまま旧道で峯岸集落へ。

立派な松が残っていました。

べこ石。孝行の大切さと善行の勧め、堕胎の戒めと生命の尊重等が書かれた後世へのメッセージが3500文字で書かれてあります。

旧道は山際を進みます。

このような感じで山沿いに。

国道と交差して右側に出ます。芦野宿から県境にかけてはこのような道路改良が数多く見られます。

道の傍らに石仏があるのは旧街道の証拠ですね。

間の宿・板屋。
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諭農の碑。先ほどの「べこ石」と同じく嘉永年間のもので農民へのメッセージが彫られています。虫の駆除法、飢饉対策、飢えた人の救護など。

頭上に板屋一里塚が道の両側に残っています。

ここは明治期になって車を通すことから大きく掘り下げられてしまっています。

山桜がまだまだ咲き誇っていました。

山が両側から迫ってくると県境が近くなっていきます。5月らしく鯉のぼりが泳いでいました。

旧道が右にあったようですが家が建ってしまい消滅しています。

本来の旧道はこの場所に出てきます。10mほど痕跡が残っています。

高瀬集落。

前調べの段階で鉄塔の先に旧道が残ってるということだったのですが痕跡はないように思いました。

ここを右斜めへ。もしかすると先ほどの鉄塔の場所は旧道の分岐ではなくここが分岐だったのかもしれません。

ここは坂を上らず左へ。国道に合流します。

国道の右側を歩きます。
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国道横の旧道の痕跡。

この先の国道は切通しになっていますが旧道は切通しを乗り越えた形で進んでいたようです。

このような感じで進んで途中からガードレールが現れます。

再び国道に合流します。

国道の右側を歩いて暫く行くと国道と交差します。間の宿・寄居の入口です。

古い常夜灯が建っています。

寄居は下野の国最後となる休憩できる場所で茶屋などがあって賑わっていたそうです。

国道の左手に泉田の一里塚。

泉田の一里塚。移設保存されたような感じにも見えるのですが説明版には特に触れられていませんでした。
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泉田の一里塚の先で国道と交差します。

若干荒れていますが地盤がアスファルトなので特に問題はなかったです。

再び国道と交差して奈良川を橋で渡ります。

馬頭観世音、二十三夜塔等が並んでいます。

初花清水。今もこんこんと湧き出ています。

瓢石。

国道左側に旧道の痕跡。この辺りは少し山の中に入ってたという説があります。

痕跡?

右へ。

国境手前の最後の集落「山中」。明治天皇は峠を越える前にここで休憩を取ったそうです。

国道と合流。

左側のチェーン脱着所が旧道の痕跡。

左上へと延びる旧道。

若干荒れています。

参考本では旧道の終わりで国道と合流するのが多いですが左上の明神の地蔵様がいる場所にも道があるのでどちらが正解か悩むところです。

地蔵様の前の道には十分な道幅があります。前後の旧道の位置関係も考慮に入れると旧道である可能性は高いと思われます。

国境が見えてきました。

境の明神が左手に。下野側は玉津島神社。陸奥側は住吉神社で並んでいます。
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有名な白河の関は別の街道筋にあたります。この日の気温は最高でも22℃ほどでした。

境界石があります。

玉津島神社は火事で焼けて再建されてますが住吉神社は昔のまま残っています。

寄進された灯篭には東北の藩主などの名前が見えます。

福島県側の街道は国道に吸収されているのでほぼ道なりで進んでいきます。
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白坂宿入口。枡形の痕跡が残ります。この辺りから増えるのは戊辰戦争の史跡です。左手に石碑が立っていて会津攻めの前哨戦として白河城攻防戦に参戦した大垣藩士のものです。

白坂宿は五街道整備前の白河−芦野の距離が長いすぎるので伊達政宗が作ったと言われています。

白坂宿の出口には枡形がありました。道路は左側に拡張しているので面影はないように思います。古老によると将来的には各家々の軒先に屋号を掲げる試みなど検討中とのことです。

白坂峠道。

那須連山を一望。

右へ。

再び国道に合流します。

正面に戊辰戦争の激戦地稲荷山を見て右に折れます。江戸時代以前はそのまま直進で市街地に入っていたようです。

戊辰戦争の碑。

左へ。

市街地ですが交通量は少なめで歩きやすいです。

ここを右へ。左手には天神社があります。

白河宿。近年の交通体系の変化で市内にも関わらず町はひっそりとしています。

枡形が残っています。左に曲がってすぐに右へ。

白河宿は城下でもあったので屈曲した道筋が続きます。

白河のキャラクターだそうです。

この日は白河駅筋の交差点で終了としました。

翌朝。白河宿内はひっそり。

右へ。枡形になっています。この手前には城へと向かう大手口がありました。

この辺りが白河宿の中心部「本町」。本陣1、脇本陣2、旅籠35ありました。

脇本陣は公開に向けて修復中のようでした。

ここを左へ。角には道標があります。

復元のものですが「左 せんだい あいづ で八 ゑちご」、「右
日光 江戸 左 たなくら い八き 水戸」と刻まれています。
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かつては街道のすぐ左横が城内という感じで城を半周するような道筋になっていました。

「白河だるま」が名産のようです。

阿武隈川の手前に木戸がありました。ここから先が白河郊外となります。

江戸時代は徒歩渡りだったという阿武隈川。

あの山を抜けると女石追分です。

道はかなり掘り下げられています。かつては右にある階段を上ったところにある場所が当時のレベルだったと思われます。

階段の上にあった石仏群。石仏の手前が旧道だったのでしょう。

右に旧道の痕跡。

女石追分。昔は道標があったそうですが残っていません。奥州街道は右へ。直進は会津へ。

この場所で道路管轄が変わります。道中奉行管轄はここまでで五街道としてのゴールとなります。

根田宿への道筋。

旧道入口。左へ。

国道と交差します。交通量が多いので要注意。

この角を右に曲がれば根田宿です。

根田宿。

ここで街道を離脱して終了としました。

その後は白河小峰城と二本松城を見学しています。
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二本松城天守址からは安達太良山がよく見えました。
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