30年前の今日~気象遭難からの生還

2019年10月8日

私は天気に敏感だ。
特に山行前には入念なチェックを欠かさない。
いわゆる「てんくら」などの天気予報は見ることもなければ信用することもない。IMOCやGPV、そしてJTWCなどのサイトで天気図・高層天気図・高層断面を読み漁り、自分で天気を予測するのだ。
そして山行中に天気が崩れる傾向にあると、登山を中止する事が多い。
それは仕事であっても個人的な登山であっても同じことだ。
「慎重すぎない?」
「とりあえず現地に行って決めれば?」
そう言われることも多いが、自分は断固として首を縦に振ったことはない。
あの若かりし頃の、苦い思い出が頭を過るからである。

1989年10月8日。
私は涸沢ヒュッテから奥穂高岳を経由し、岳沢ヒュッテへと向かっていた。
登山を始めて2年ほどの女性4名を連れて。
そう、全国各地で多くの遭難者と立山真砂岳で8名の死亡者を出した「大量遭難事故」と同日、まさしく「その日」であった。

8日の早朝、涸沢ヒュッテに泊まった私たちは奥穂高岳を目指して登っていった。
出発前のテレビで天気が崩れるという認識はあったものの、その時の天候は快晴。
横尾の谷を挟んで、常念岳が端正な姿を見せていたのをはっきりと覚えている。
若さ故に「本当にそこまで天気が崩れるのか」「雪は降らないだろう」という慢心もあったのだろう。
当時の自分と言えば22歳。
16歳から始めた登山にあっと言う間にのめり込み、すでに冬の滝谷や屏風を登り、北鎌尾根や硫黄尾根へと繋げ「いつかはヒマラヤへ」と常に想い続け、難度の高い冬期登攀に注力していた。
そんな折、友人経由で舞い込んだこの話。
「登山を始めて2年ばかりのOL4人組が穂高に行きたいと言ってるんだが・・・」
そういう登山も悪くないし紅葉も綺麗だろうな・・・そして何より山小屋泊を体験できると思い、この話を快諾したのであった。

ザイテングラードを登り始めると俄かに雲が多くなり「やはり天気は崩れるのか」と思った。
と同時に「雨なら何てことない」と考えたことを、今でもよく覚えている。
10時頃に穂高岳山荘へ到着。
少し寒くなってきたので全員に「ちょっと着ようか」と促した。
山荘を出発して梯子を越え、山頂を目視で捉えた時にそれは突然やって来た。
雪。
それも強い寒気を伴う吹雪であった。
程なくして奥穂高岳の山頂に立ったが、そこは目も開けていられないほどの激しい吹雪。

しかしである。
今であれば「穂高岳山荘へ戻る」という選択しか考えられないが、何故かその時は「岳沢へ向かう」という選択をしてしまった。
顔を叩きつける猛烈な風雪。
ものの1時間ほどで膝付近まで積もった雪。
初心者を連れて吊尾根を前進するには、あまりにも過酷な天候であった。
女性は全員、当時発売されたばかりのゴアテックスの雨具を着ている。自分は冬用のミクロテックスの上下、サロペットタイプのものだった。
寒さはそれほど感じなかったが、どんどん積もる雪に足元が覚束なくなっていた。
今でこそ綺麗に整備されている吊尾根だが、当時はまだまだ岩場が多く難所もそれなりにあった。
幸い、自分が持ってきた10.5mmのザイルをそういった岩場に張りながら、じりじりと前進を続けたのだ。
そして吊尾根の中間部。
今はその面影もないが、外傾した長い一枚岩に差し掛かった。
まずは自分が先頭でザイルを張り、後続が一人、二人とそこを通過していった・・・と。
三人目が突然のスリップ。
自分の脳裏に焼けるような衝撃が走った。
「まずい!」
が・・・。
奇跡的に2mほどの落下で済んだのだ。
もし何らかの作用が働かなければ、このケースは岳沢上部の大滝まですっ飛んでいく可能性の方が高った。
もちろんそうなれば即死は免れない。
「助かった・・・」
腰が砕けたような感覚に襲われた。
もう前進は無理だとも思った。
しかし、このまま歩き続けなければ疲労凍死を迎えるだけ、命はないとも思った。
そして気が付けば辺りは暗くなり始め、夜が近づいていることを知らせていた。
様々な判断に迷いながらも進んでいくと前穂高岳との分岐、紀美子平へとたどり着いたのだった。
ここでツエルトを被ってビバークすることも考えたが、なぜか動いている方が生還できる可能性が高いと判断したのでしばしの休憩。
だが、ここからは長い重太郎新道の下りだ。
相変わらず梯子や急な下りではザイルを張り、ヘッドランプで足元を照らしながら慎重に慎重を期してゆっくり下っていった。
「焦らない」「急がない」「大丈夫」
そんな声を掛けながら・・・。
樹林帯に入ると何時しか雪は弱まり、風も身体を叩くほどではなくなり、そして岳沢ヒュッテにぼんやりと灯る小屋明かりを見た時・・・心の底から思った。
「助かった」と。
その時、時計の針は夜10時半を指していた。
そんな私達を岳沢ヒュッテの支配人であった上条岳人さんは暖かく迎え入れてくれ「よく頑張った」「よく頑張った」と何度も何度も言葉を掛けてくれた。
そして自分は緊張の糸が切れたのか、涙が溢れて止まらなかった。

翌日9日。
奇しくも私の誕生日。
上高地は昨日の吹雪が嘘のように晴れ上がった。
「昨日の出来事は幻だったのか?」
しかし、ニュースでは全国各地での遭難事故の話題で持ち切りだった。
立山の真砂岳では大量遭難が発生しているとも聞いた。
「自分達も遭難していたのだ」
そう認識するまで多くの時間を必要としなかった。
そして己を強く恥じ、4名の女性達に深く謝りを入れた。
2つ年上の彼女達は「なかなかできない体験だったよー」と笑っていたが、自分の心の中にこの出来事は深く刻まれたのであった。

この悪天候は台風25号によって引き起こされたものだった。

(原典:気象庁「天気図」加工:国立情報学研究所「デジタル台風」)

この台風が通過し低気圧に変わってから猛烈に発達、西からはやや優勢な高気圧が東進。
一時的な冬型の気圧配置になり寒気が南下、こうして降雪がもたらせられたのであった。

ここで逆に「何故生還できたのか」を考えてみたい。
まず装備には抜かりがなかった。自分はザイルを装備していたし、ピッケルもアイゼンも持っていた。
OL4人組にはしっかりとした山道具を買い揃えておいてもらったし、その装備を自分でも事前にきちんと確認しておいた。
そして、何より全員に体力と歩き通す気力があった。
あとは運だけだろう。
本当にこれだけだと思う。
運がよかったのだ。

実は今年、すでに3回延期にしている山行がある。
奥穂から西穂へ向かうのがそれだ。
1回目は9/5-6で台風15号の接近に伴い中止とした。
2回目は9/23-24で、これは台風17号の影響を考えて中止とした。
そして3回目は9/27-28だ。
一番悩ましい天候判断であったが、ルートの特性を考えて中止と判断した。

(出展:気象庁ホームページ)

自分では、どの判断も間違っていなかったと思っている。
例え当日の天気が良くても「自分の判断で決めたもの」として受け入れるだろう。
雨の中を歩く。
同行者の実力からしたら、特に問題なく歩くことができるだろう。
でも。
それはたまたま歩き通せただけ。
少しばかり運がよかっただけだ。
それであれば、少しでも「リスクを減らして」歩きたいというのが自分の考え。
登山は「楽しいだけ」ではだめなのだ。
あの日、己が「遭難したのだ」と自覚した出来事。
救助隊は出動していないし、報道もされていない、しかも自力で小屋にたどり着けている。
怪我人も誰一人出ていない。
人によってはこれを「遭難」だと自己認識しないかもしれない。でも、そう答えを導き出せたことが今の自分のリスクセンスを磨いたのだと思う。
それこそが、自分なりのリスクマネージメントなのだ。

そして4回目の正直。
次の3連休の終わりに、この山行のリベンジが計画されている。
目下、猛烈な勢力の台風19号(Hagibis)が接近中で、950hp前後の”巨大な状態”で日本へ上陸しそうだ。

(Reference:Joint Typhoon Warning Center)

そう、あの30年前と同じ状況になるかもしれない。
台風が通過して文字通り「台風一過」になり晴れ渡るのか、それとも30年前と同じく山は荒れて初冠雪を見るのか。
天気とはいつも紙一重。
「10月の登山は危険」というのが一般的な認識であり常識だ。
北アルプスの稜線に行くのであれば、ピッケルとアイゼンは必携。
でも、これを認識している登山者が一体どれだけいるのか・・・。
この連休明け、遭難事故が多発しないことを祈るばかりである。
そしてこの計画。
今回実施されなければ、おそらく本年中に行くことは季節的に厳しくなるだろう。

あれから既に30年が経過した。
当時の自分からすると、少しは成長できたのかな?と今でも思うことがある。
ヒマラヤやヨーロッパ、アフリカや南米など世界各地の山に登った。
ガイドにもなった。
遭対協の隊員として多くの命を救ってきた。
こんな教訓があっても、少しばかり無理をしたこともあった。
でも、この30年前の出来事だけは忘れることができない。
この週末。
自分はどんな判断を下すのか。
今、その30年前のことを頭に思い浮かべながら、慎重に検討しようと考えている。

追記
平成18年、不慮の事故により上条岳人さんは他界しました。
自分が学校を卒業して入社した某登山系旅行会社がブースを設けていた「松坂屋夏山相談所」。
山松会のメンバーとして上京されていた上条氏と、ここで再会を果たしました。
当時のことを覚えていて下さり、自分が山の世界へ進んだことを大変喜んでくれたのです。
あの時のことがなければ今の自分はないのです。
改めて、氏のご冥福をお祈りします。

=スタッフ2号=

6 Comments

  1. 小見山高士 より:

    貴重な実体験談ありがとうございました。3年前のGW唐松途中撤退の後でIさんからいただいた「100%の自信がなければ山に登ってはいけない、登りでは60%の体力しか使ってはいけない」との言葉を旨に今までも、またこれからも、安全登山を心がけます。

    • yotchi より:

      >小宮山さま
      お読みいただきありがとうございます。
      実際には100%でなくてもいいのですが、まったく自信がない場合には止めておいて方が無難ですね。
      技術的なことでも天候・体力的なことでも。
      これからも安全登山を続けて頂けると嬉しいです。

  2. 加藤 幸博(かとうゆきひろ) より:

    貴重な話有難うございます。大変、為になる話でした。私は愛知県内の某山岳会に所属しておりますが、60代、70代がメインです。たまたま大きな事故に遭わなかっただけで、ヒヤリハット的な事例は山のように起こっております。何かが起きてからでは遅いのです。「何か」が起きないようにするために、どうすればいいのか、何が必要なのか、慎重に低山とか関係なく、あらゆる想定の上、一生現役として山旅を楽しんでいけたらと思います。有難うございました。

    • yotchi より:

      >加藤さま
      先日、奥秩父で行われた講習会で講師を務めた際「あらゆる場面を想定して先を読み行動する」ということを受講者の皆さんに体験・お話しさせて頂きました。
      これは遭難事故に限らず、地図読みだったり、時間のマネージメントだったり、登山においてあらゆる場面で必要なことだと思っています。
      これからも山に対して決して臆せず、しかしながら畏敬の念を持って安全で楽しい登山に取り組んでもらえれば幸いです。
      お読み頂き、ありがとうございました。

  3. kintakunte より:

    本当に貴重な体験をお書き頂きましてありがとうございます。また思い入れのある文章は伝わり方が全く違い迫力と臨場感がとても感じられまして、思わずコメントを残しました。特に「すでに3回延期にしている山行がある」の言葉には同感でして、同じ様になやみ延期もしくは近くの里山へ山行をかえるなど、熟慮して対処しました。そして今度の3連休は東北遠征になるのですが、気象情報とにらめっこしながら複数のプランを立てている所です。体験は非常に貴重と思っておりまして、ネットで見た大学生2人のパーティーは積雪時期の五竜岳遭難についてのレポートを読んだのが初めてになり、屏風で相方が落石に遭いおぶって急いで下山したが、途中で背中で亡くなった体験談を本人から直接聞いたり、北岳登山中に雪崩に遭ったパーティーが発信したSOSの無線交信を聞いたり、蝶が岳の登山中に仲間が腸ねんてんを発症し救助要請の無線交信を傍受、ヘリ到着までそのフォローをしたり、里山で寒沢堰探訪にて道に迷い遭難したり、立山は残雪時期に強風の最中室堂から一ノ越まで歩いただけなのに、装備の貧弱さから寒さによる震えが止まらなくなり山行を中止したり、昨年は10月に双六池までテン泊しに行った際、鏡池から弓折を登っている時に寒気の通過に出くわして猛吹雪になり30分程停滞したりと、絶対絶命の経験はないですが冷やりとした事は何度かありました。その様な事から気象や装備、山行の難易度には気を付ける様にしております。

    • yotchi より:

      >kintakunteさま
      お読みいただき、ありがとうございます。
      若かりし頃の話で、まったく「調子に乗ってた」なと今だからこそ感じます。
      山行の際「自分で考える」ということは、とても大切なことだと思います。
      行程・装備・気象などなど・・・。
      それが出来ている限り、そう大きな致命的なミスは起こさないはずです。これからもご自身で熟考を重ね、安全で楽しい登山を実行していただければと思います。

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