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2005年11月29日

山行記録に必要な表現技術

山行で目にした美しい情景をどう表現したらいいのか、辛くもあったが楽しかった山行をどのように書けば読者に伝わるのか。
「自分は作家じゃないから」、と読む価値のある記録を書くことを最初から諦めて、時系列に起こったことを並べるだけの記録を書いていました。

かといって無理に「美しい情景を見た」ことを表現しようとすると、「紋切り型の表現」というものにハマってしまうようです。

とにかく沢登り:読ませる記録をどう書くか

たとえば山行時に美しい滝を見たとする。これを記録に書く場合、もっとも単純な表現だと「美しい滝がある。」となる。だが、これではあまりに無味乾燥であり、「自分が受けた感動を表現しきれていない」と多くの人が思うであろう。では、「すごく美しい滝」「極めて美しい滝」とすればどうか。たしかに「すごく」「極めて」の分だけ表現の力強さが増し、「この人にとってはすごく美しい滝だったんだな」ということが読者にも伝わる。文章にこだわりのない人ならば、これでよしとするかもしれない。しかし、少しでも良い文章を書こうと努力している人は、こんなものではまだ満足しないだろう。そして無い知恵をしぼり、他人の文章をあれこれと参考にした末に、多くの人はやらかしてしまうのである。「小滝を越えると、目の前にまるで絵に描いたように美しい滝が現れた。」と、まさに絵に描いたような紋切り型の表現を。

子どもの頃の読書感想文から今に至るまで、まさに過去に繰り返し失敗してきたことでした。
後から読み返して、内容が陳腐で何も伝わってこないことだけは分かるのですが、それ以上は思考が停止し、学ぶこともなく諦めていました。

引用元のBlogでも紹介されていますが、この指摘の元となっている本から、該当する部分を引用しておきます。

本多勝一:日本語の作文技術

美しい風景を描いて、読者もまた美しいと思うためには、筆者がいくら「美しい」と感嘆しても何もならない。美しい風景自体は決して「美しい」とは叫んでいないのだ。その風景を筆者が美しいと感じた素材そのものを、読者もまた追体験できるように再現するのでなければならない。

美しいことを言うために、「自分がどれほど美しいと思ったか」ということを書いても読者には何も伝わらない。
言われてみるとあたりまえなのに、今までは「どう美しいと思ったか」をいかに大げさに表現するか、に注力していた気がします。

複数の人で同じ思いを共感するためには、同じ環境を再現するのが一番近道ということでしょうか。自分が思った感情の原因となったできごとや情景について、その部分は個人的な感情を組み込まずに、ただひたすらその状況を再現できるように記述する、これが必要な技術のようです。

# でも、理論では分かっても実際どう書けばいいんだろうか・・・
引用元の本を入手したので、まずは一度読んでみることにします。


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投稿者 matoyan : 2005年11月29日 12:55

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