記録ID: 462233
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ハイキング
関東
牛久沼〜利根川合流点(小貝川) までの 郷土の歴史を見るハイク
2014年06月09日(月) [日帰り]


- GPS
- 04:44
- 距離
- 20.4km
- 登り
- 2m
- 下り
- 2m
コースタイム
6月9日(月)
出発7:10…牛久沼排水機場7:50…水道管橋8:05…高須橋8:30…豊田堰9:05…利根川合流点9:30…戸田井橋9:45…豊田堰9:55…高須橋10:30…水道管橋10:55…常磐線鉄橋11:20…文巻橋(国道6号線)11:25…11:55牛久沼水門P
=========================
出発時刻/高度: 07:07 / 0m
到着時刻/高度: 11:51 / 3m
合計時間: 4時間44分
合計距離: 20.42km
最高点の標高: 13m
最低点の標高: 0m
累積標高(上り): 0m
累積標高(下り): 0m
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出発7:10…牛久沼排水機場7:50…水道管橋8:05…高須橋8:30…豊田堰9:05…利根川合流点9:30…戸田井橋9:45…豊田堰9:55…高須橋10:30…水道管橋10:55…常磐線鉄橋11:20…文巻橋(国道6号線)11:25…11:55牛久沼水門P
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出発時刻/高度: 07:07 / 0m
到着時刻/高度: 11:51 / 3m
合計時間: 4時間44分
合計距離: 20.42km
最高点の標高: 13m
最低点の標高: 0m
累積標高(上り): 0m
累積標高(下り): 0m
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天候 | 6月9日(月) 曇り 昼頃から 雨 |
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過去天気図(気象庁) | 2014年06月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
自宅⇒<マイカー>⇒7:00牛久沼水門 <牛久沼〜小貝川 ハイク> 12:00⇒<マイカー>⇒自宅 |
コース状況/ 危険箇所等 |
昭和56年8月24日 台風15号 小貝川破堤水害調査報告 http://dil-opac.bosai.go.jp/publication/nied_natural_disaster/pdf/20/20.pdf#search='1981%E5%B9%B48%E6%9C%8824%E6%97%A5+%E5%8F%B0%E9%A2%A815%E5%8F%B7+%E5%B0%8F%E8%B2%9D%E5%B7%9D%E6%B4%AA%E6%B0%B4' 酒詰治左衛門 http://premium.jlogos.com/new2_result2.html?id=7273790&word=%25E9%2585%2592%25E8%25A9%25B0%25E6%259D%2591%2528%25E8%25BF%2591%25E4%25B8%2596%2529 豊田堰の歴史 http://www.pref.ibaraki.jp/nouson/toti/toyota.html |
写真
牛久沼の排水機場。
かつて この地域は 洪水氾濫の常襲地帯だったのです。
小貝川は 利根川洪水時では その逆流によって 水位上昇します。
このため 牛久沼の氾濫を防止するため この機場より 牛久沼の水を排水するとのこと。
かつて この地域は 洪水氾濫の常襲地帯だったのです。
小貝川は 利根川洪水時では その逆流によって 水位上昇します。
このため 牛久沼の氾濫を防止するため この機場より 牛久沼の水を排水するとのこと。
高須橋から100mほど下流地点に 小貝川の「洪水決壊の碑」。
忘れもしません。
今から 33年前。
昭和56年。
1981年8月24日未明です。
台風15号の降雨による洪水でした。
この地域に 新居を構えて 7年目。
青天の霹靂のような 驚きの事件でした。
忘れもしません。
今から 33年前。
昭和56年。
1981年8月24日未明です。
台風15号の降雨による洪水でした。
この地域に 新居を構えて 7年目。
青天の霹靂のような 驚きの事件でした。
利根川から逆流して この決壊地点から氾濫しているのです。
この時は 霞ヶ浦側へ流出したので 我が家への被害はありませんでした。
もし これが 反対側の堤防が切れたら 恐ろしいことになったと思いました。
我が町は 利根川と小貝川の合流する内側に当たるのです。
我が国最大の河川である利根川の洪水は その規模が大きく 水位減少するには 約1週間ほど続くとのこと。
かつて この地域一帯は これによる 氾濫に悩ませられたことでしょう。
今は 見られなくなってきましたが 多くの農家の軒下には 脱出用の小舟がつり下がっていたようです。
この時は 霞ヶ浦側へ流出したので 我が家への被害はありませんでした。
もし これが 反対側の堤防が切れたら 恐ろしいことになったと思いました。
我が町は 利根川と小貝川の合流する内側に当たるのです。
我が国最大の河川である利根川の洪水は その規模が大きく 水位減少するには 約1週間ほど続くとのこと。
かつて この地域一帯は これによる 氾濫に悩ませられたことでしょう。
今は 見られなくなってきましたが 多くの農家の軒下には 脱出用の小舟がつり下がっていたようです。
先ほどの豊田堰の少し下流にある戸田井橋を渡って 小貝川の右岸側を辿って牛久沼へ向かいました。
すぐに 河川沿いに大工事現場がありました。
それは 周りの様子から排水機場の工事らしいです。
現在の神浦排水機場は 古くなったためより大きい 排水機場を新設するようです。
より 安全な 町にするために・・・。
すぐに 河川沿いに大工事現場がありました。
それは 周りの様子から排水機場の工事らしいです。
現在の神浦排水機場は 古くなったためより大きい 排水機場を新設するようです。
より 安全な 町にするために・・・。
堤防脇に ベンチがあり そこにこんな看板がありました。
「酒詰治左衛門の成績碑
この碑文は偉大なる治水功労煮、酒諸治左衛門正辰の業績を讃えるものです。
酒結治左衛門正辰は文化四年(1807年)高須村伊藤市郎左衛門家に生まれ、当時の名主酒諸家へ養子縁組し、地積調査
や堤防構築の識高く、特に度重なる神之浦の堤防決壊に私財を投じで修築し、相馬二万石関係三十二ヶ村の穀物の増収に貢献した幕末の老農であり、慶応三年九月三日六十歳でこの世を去りましたが、この偉業に対し、人々は深い感謝の気持ちを込めでこの碑を建でました。
明治四十三年(1910年)秋の洪水は未曾有のものでした。 十数日間も降り続いた雨水は黒い濁流となって小貝川を流れ、堤防を越えで溢流する程でした。それでもなお、正辰が造った堤防だけは ことなきをえました。
人々はこの時、白装束の人が提灯を振りかざし、行ったり来たりしながら、堤防を守っている姿を見たというのです。そして、「正辰の霊がこの堤防を守ったのだ」という噂は広く伝わって今でも語りつがれでいます。」
「酒詰治左衛門の成績碑
この碑文は偉大なる治水功労煮、酒諸治左衛門正辰の業績を讃えるものです。
酒結治左衛門正辰は文化四年(1807年)高須村伊藤市郎左衛門家に生まれ、当時の名主酒諸家へ養子縁組し、地積調査
や堤防構築の識高く、特に度重なる神之浦の堤防決壊に私財を投じで修築し、相馬二万石関係三十二ヶ村の穀物の増収に貢献した幕末の老農であり、慶応三年九月三日六十歳でこの世を去りましたが、この偉業に対し、人々は深い感謝の気持ちを込めでこの碑を建でました。
明治四十三年(1910年)秋の洪水は未曾有のものでした。 十数日間も降り続いた雨水は黒い濁流となって小貝川を流れ、堤防を越えで溢流する程でした。それでもなお、正辰が造った堤防だけは ことなきをえました。
人々はこの時、白装束の人が提灯を振りかざし、行ったり来たりしながら、堤防を守っている姿を見たというのです。そして、「正辰の霊がこの堤防を守ったのだ」という噂は広く伝わって今でも語りつがれでいます。」
撮影機器:
感想
梅雨の真っ最中です。
午前中だけ曇りで 昼頃から雨の予報。
山に行けず そこで 思いついたのが 近くの河川堤防を歩く。
早速 実行しました。
牛久沼から小貝川堤防を利根川合流点までの往復 約20Km。
車の往来とから分離されていて 快適でした。
時たま 自転車や散歩の人たちと 挨拶を交わしながら・・・・
天気予報は よく当たりました。
車に戻ったとたんに すごい 雨となりました。
舗装された河川堤防の道を歩くのも いいもんですね。
歩きながら 洪水に悩まされた郷土の歴史を振り返る 散策ともなりました。
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