ネパールエベレスト街道
- GPS
- 344:00
- 距離
- 57.9km
- 登り
- 3,604m
- 下り
- 3,586m
コースタイム
帰 国 1979年1月15日
1月1日 上田−成田−マニラーバンコク−第一ホテル
1月2日 ホテル−(市内見学)−ホテルー空港−カトマンズ空港−ホテル「ナラヤニ」
1月3日 午前 カトマンズ市内見学 午後 自由行動
1月4日 ホテル−空港−ルクラ−ガット−パクディン
1月5白 パクディン−チモア−ソニサリ一−ナムチェ
1月6日 ナムチェー(エベレストビュー)−ナムチェ
1月7日 ナムチェ−プンキ
1月8日 プンキ−タンボチェ−パンボチェ
1月9日 パンボチェ−タンボチェ−プンキ
1月10日 プンキ−ナムチェ−(チャンパーティー)
1月11日 ナムチェーチセアー−ルクラ−(チャンパーティー)
1月12日 ルクラ−カトマンズ−ホテル「ナラヤニ」
1月13日 自由行動 おみやげ購入、カカニの丘ヘ
1月14日 ホテル−空港−バンコク−ホテル−晩餐会−ホテル
1月15日 ホテルー、空港−マニラー成田一上田
天候 | ずっと晴れ |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
飛行機
|
写真
感想
35年前のネパールエベレスト街道トレッキングの時の写真です。以前は出来なかった6×6フィルムデジタル化が出来るようになりましたので、大枚を叩いてJPEG画像にしてもらいました。なにせ古いフィルムなので発色がイマイチですが。以下、今は亡き山友が書いたネパールトレッキング紀行です。(1981年10月11日追悼集より転載)
1月1日
若尾氏宅にて、昭和54年を迎えた。今日ほんとうに出発かな?
京成成田駅に着く。まず空港のバスに乗る前に第一回目の荷物のチェック。バスから空港周辺の物々しい警備には驚いた。成田空港 9 :00ちょっと早い感じがしたが食事とコーヒーで時間を待つ。両替は194円レートで行われた。お昼頃にやっとアルパインツアーの吉田氏が来た。
荷物のチェック2回でやっと出国手続き。そして免税店で少々のお酒を買いボディーチェック。やっと飛行機に乗れると思ったら最後のチェックを受けて合計4回行われた。
初めて乗る飛行機、エジプト航空のサービスが悪いとは聞いていたが、ほんとうの様である。成田離陸やっと日本を離れる。成田で買った酒を飲みながらいると機内食が運ばれてきたが、酒には期待ができそうにもなかった。そろそろ、退屈してきた頃、真暗なマニラ空港に着いた。給油後離陸、また機内食が出てきた。何も動かないのでもういらない感じだけどまた食べてしまった。
現地時間 23 : 35着、FARST HOTEL第一ホテル」と日本語でも書かれている。内部は日本語でもOKぐらいである。私は、小林氏と室を一緒にした。 1 :30寝る。
1月2日 (ファースト・ホテル)
6 :00のモーニングコールにより目がさめた。午前中にバンコクの市内見学に出た。まず船に乗って、水上マーケットに行くがもの船、前の船、左の船、後の船、全部日本語のガイドが聞こえてくる。マーケットでは、全部日本語による買い物をした。バンコク市内のこの川、生活にはかかせ
ないものだとわかる。炊事、遊び場、仕事場、下水までもがいっしょになっている。王宮を見学した。
ロイヤルネパール航空に乗るが予定よりかなり遅れてのフライトであった。スチワーデスそれはもう美人でした。機内食も、エジプト航空より良かったがここで失敗。ビールがサービスだとは知らずに遠慮してしまった。
カトマンズ空港に着いたが、若尾氏の荷物だけが来ない。最後によく捜したら、オフィスの奥に隠されていたとの事、これでひと安心でホテルに向かう。
1月3日 (ホテル・ナラヤニ)
6 :30に起き、今日は、カトマンズ市内見学、朝食はトーストと目玉焼き、油がちょっと変だけど、もう日本人の舌を知りつくしている感じ、カトマンズのお店は入口、奥行が1間足らずのきたない店から、大きな店は入口4間、奥行が3間位までで、日本では想像できなかった。
お寺と、目玉寺そしてカトマン・ズの生き神様などを見学し、我々は、カトマンズの銀座「NEW ROAD」に繰り出た。市内見学を終わってホテルで昼食を取り、午後は若尾夫妻と大津氏を訪ねた。大津氏の事務所で会った人を見ていると、ネパールにはおもしろい人がいっぱい存在してい
る様に感じる。2時間程の時間が過ぎ私達は、アッサン通りへ出た。変な臭いと、ほこりが気になったが、シャツとボウシを買った。この通りは、荷車と人力自転車そして日本でいえば、上野アメ横の人通りであった。
夕食はバイキング方式で、私は3回のおかわりをした。それだけ日本の味になっていたと思える。ビールは一本2ドル。
1月4日 (ホテル・ナラヤニ)
6 :30モーニングコール。起きた時は晴れていたが、フライトする時刻には「もや」が出てきて1時間遅れの、9 :30離陸。ヒマラヤは白い山肌と真青な空、エベレストは白い雪煙の帯を見せてくれた。小さな段々畑が機内から見え、山の上まで細い小さな道が数本通っているのが見える。
1時間弱でルクラに着く。滑走路は斜きが14%で450mの所、よくこんなところにと感心をする。我々の乗ってきた飛行機には、9日間でゴーキョまで登った、立川女子高校の生徒達が下山をした。
私達は、ここからトレッキングに出発。 まず昼食をとる。我々のパーティーは、2・3人なのにそこへ、サーダー1、シェルパ4、コッ
ク1、キッチンボーイ2、ポーター19、牛10頭となった。(サーダー・アッギャッゼッ氏)
ゆっくり、ゆっくりと歩き始めた。最初は、ほんとかなと思った。パグディッの幕営地に着くとお茶が出てくる。今日は、ちょっと遅い食事の様だが肉も出てきた。そんなに時刻としては遅くないが、6 :00テント内に入り`小林氏と少々話しながら寝る。今日からは禁酒である。
1月5日 −3℃ (パグディン)
朝起きるとお茶が出てくる。ミルクティーかコーヒー、ほんとうはあせって写真を写しに行ったのだが1枚としてこれという写真は写せなかった。朝の寒さは感じられない。
のんびりと歩く荷物はカメラ、水筒ぐらいしかない。体調も良かった。道も生活道だけあり歩き易い。モンソーにて国立公園入園料60ルピーを払う。ここは公的な所なのに個人で行くと少々余分のお金を請求されたそうだ。
ソーサリーにて昼食、ここから登りとなる。1時間位登った所でエベレストが見えた。生活道では、色々な物を背にした人がいる。 80kg位ある建設資材、45kg夕位のたきぎ、ナムチェバザールでのバザーに用いる生活必需品、我々や他のパーティーのポーターなどさまざまな人達である。
ナムチェバザール、バザールが開かれる位だから大きな町です。しかし、風景はもう一つという所、対岸には「コングデ」の山を寝床から見る事ができる。町の人に聞いてみると、風呂は1ヶ月に1回、私達の手や顔はほこりで真黒になった。雨もそんなに降らない為かほこりがすごくシュラフに入る時も1回シュラフをパタとやるとテント内はほこりの天国となってしまう。
1月6日 −2℃ (ナムチェバザール)
ちょっと脈が早く110位ある。今日はここで停滞との事、ペリチェは遠くなりガックリとする。しかし私にしてみても脈が早く少々頭が痛い。
遅い朝食をとりポリス・オフィスに行くが係の人の時間がルーズなのにまいった。ここではパスポートの確認が行われるだけ。今日は土曜日なのでバザーが開かれる。全員でひやかし半分でバザー見学、品物は平均我々観光客で半額位になりそうだ。昼食後エベレストビューホテルヘ向かう。
シャンボチェ、飛行場はルクラより小さく300肌位の滑走路でここからゆっくり歩いて1時間位でビューホテル、ホテルはさすがにエベレストの景色が良い。ここで東京医大の健康診断を受ける。私はシェルパのハクパーとランニングを行ってみるが200m程彼に負けじとひっしに走ったが高度3、800mではかなりきつかった。
この日の夕食は日本食。ふりかけ・みそ汁・漬物・御飯は圧力釜を使っていて私の御飯炊きよりずっとおいしい。
1月7日 −1℃ (ナムチェバザール)
前進したいところであったが、サーダーが言うには、1日でタンボチエまでは無理との事、みんなの体調はだいぶ良いのに…………。
ディンボチェヘの諦め顔でゆっくりと歩き始めた。私はサーダーと話しながら歩くが何とも英語が全く話せない為、会話は「あの山は」、「この花は」ぐらいしか話せない。ナムチエからは水平道が続きプンキまでに、最後の下りの部分が400m位谷底にある為、日は早く沈んでしまう。日が
沈むと肌寒くなり近くからたきぎを集め暖をとる。
1月8日 0℃ (プ ン キ)
今日はパンボチエまで行ける。タンボチエまで500a位の登り、タンボチエにはイェティーの頭の皮があるという話に期待をしていたのに残念ながらそれを見る・事ができなかった。ここには、僧がひとり留守番をしていた。版画を買い求めた。
ここから、あの目の前に見えるパンボチェヘもうひと踏ん張りと思ったがなかなか足が前に出なくなってきた。おまけにだんだんと頭痛がしてきた。
アマダプラムは、パンボチエ途中の所からが山の形はきれいな様だ。たきぎを背にした少年にカメラを向けると彼は強く拒んだ。アマダプラムやエベレストが黄金色になる時私達は、全員でシャッターを切った。
夜中、咳と頭痛であまり睡眠がとれなかった。
1月9日 −4℃ (パンボチエ)
頭痛が取れず若尾夫婦と私はプンキまで下る事にした。若尾氏もかなり昨晩は眠れなかったみたい。私の脈は1時間として下がってくれない。他の体調の良い人はここからディッボチェまで行って、タンボチェまで下るコースで出掛けた。
連日の脈が110では体の無理もできない。
伸子さんはキッチンボーイの少年にチューリップの歌を特訓している。シェルパのハクパーは私達3人の為に肉料理を作ってくれたのだが堅くてなかなか食べにくかった。
1月10日 −1℃ (プ ッ キ)
気のせいか、頭痛はかなり取れたみたい。あまり無理せず水平道まで上がった。昼食の場所にてひさしぶりに全員と合流。ディンボチェまで行った人の話を聞くとアイラッドピークや、無名峰のヒマラヤヒダが見えすごく良かったとの事、残念ではあるが私も行ってみたかった。
今日はサーダーの家にて、チャンパーティーが催された。チャンの味は、カルピスの甘味を少し取り炭酸で割りアルコールはビールより少々弱い。つまみはポテトチップを20個程合せた大きさで
カリガリとした油で揚げたチップスでビールにはバッテリのつまみ。
サーダーの家は名家で大きい。150L位、銅製の水がめが8個、その他に小さいのが数多く、このかめの多少で家柄がわかるそうだ。
チャンパーティ一につきもののシェルパダンスを行うが、いつ終わるともない数え歌らしき歌が私にとってずっと同じ単語が繰り返えされている様に聞こえてしかたなかった。
1月11日 0 ℃ (ナムチェバザール)
今日の道程は今までより長い、もう見る事ができないだろうエベレストを仰ぎながら下山。
お昼は待望のチャンパーティーであった。厚焼き小麦粉おせんべいは、まず小麦粉と思われる粉を練って、顔位の大きさに平らにのばし、鉄板の上でかるく焼きそれを灰の中に入れてもう一度焼く。食べ方は蜂密、マーガリン、チーズ等で味をつけてかぶりつく。
もう今日も歩くのがいやになる頃、やっとルクラに着く。もうこれでトレッキングが終わるかと思うといくぶん脈も、少なくなった様に感じる。今日もチャンパーティーを行うが、あまり酒は進まなかった。
1月12日 1℃ (ル ク ラ)
今日は飛行機が来るか来ないかが、一番心配になる。もし今日飛んでくれなければ、15日に帰国できないからだ。幸いにサイレンの音がした。カトマンズの空港を飛び出た、ルクラの飛行機は、風向き等で午前中しか飛ばない。
飛行機に乗れた、帰れる。と思うとホッとする。日本からのトレッキングは、我々のパーティーが最後だった。
ホテルに帰り9日分の垢を洗い落す、さっぱりとした。
午後はおみやげを買いに、カトマンズに出た。私は非常に買い物がへたくそで、高い物ばかりを買わされている。(これはきっと、お金のない人に限り買い物がへたくそである為で、この逆も成り立つ。) 若尾氏は声も出ないのに買い物が上手で、うらやましく思う。
1月13日 (ホテル・ナラヤニ)
カトマンズの休日を過ごす。午前中は雷20でカカニの丘へ行く。ここからは、ラッタッ・ガネッシュヒマールを見る事ができるが、残念ながら今日はもやってはっきりと、山脈を見る事ができなかった。
午後はパタンの町をぶらつく、そして小林氏とまた市内へ乗り出て行った。ここでも買い物が、へたくそで失敗した。ネパールの人にすごく儲けさせてしまった。それもそう私か宝石を買う事すら間違いだからでしょうと、諦めてしまう。
。私の腕以上もある相場1ルピーの長芋を、5ルピーで買ってきたが、料理ができないままホテルの部屋においてきてしまう。どんな味がするのだろう。
1月14日 (ホテル、・ナラヤニ)
空港、出国の手続きをする。機内に入る為のバックの検査や、ボディーチェックに時間がかかり私か座席につくとじきに離陸、カトマンズの上空からは、煙突が数本並んだ工場が見える。遠くはどこだかわからないが、白い山脈も見えている。しかし、この中にはエベレストもあると思うのだ
が、どれだかわかりはしなかった。
バンコク着 今日は、バンコクのお食事会を楽しみにしていた。期待をしすぎた様である。200人位入るところだが、全部が日本人、出て来た料理1口で終わってしまうもの4・5点と、御飯2口、これで$10とはちと高い。そこヘアルコール代は別会計。口直しにとホテル近くの食堂に入り
すずめのから揚げ、蛙のから揚げ、えび、貝等の煮物を注文したが、英語が通じない為、いや私の英語が英語になっていなかった為、すずめが注文数の4倍位でてきて、処理をするに大変だった。
1月15日 (ファースト・ホテル)
寝て間もなく、1 :30モーニングコールが鳴る。真夜中の空港に着くが……… 免税店でみやげのタイ製品の絹や皮・酒・タバコ・宝石などを買ったが、いくら待っても飛行機がこない。やっと2時間半遅れてゲートの案内が出た。飛行機が遅れたのは、ボンベイで乗務員のストライキの為とかであった。
日本に近づくにつれて、雲のじゅうたんの上を飛んでいる。そろそろこの雲の上に、富士山がと思って見るが、残念ながら今日の雲は富士山よりかなり高い様だ。房総半島の海岸線が見えた。白影に白い物が見える。2〜3日前に雪が降ったらしい。バンコクでの半袖にカーディガンをかける。
無事帰国、しかし、私はここからが思いもかけない事になった。税関で私の荷物が開けられた。シュラフの中は勿論の事、フィルムを1本1本全部ケースを開いての確認、そして薬箱の内部の袋の1枚1枚、着替えの入れてある袋も全部、全くここではひどい目k会った。ふと若尾氏はと見ると
もう15分も前に出てしまい、かなり長く待っていてくれた。
何で私だけこんなに? 非常に気分が悪かった。こんなに時間がかかっても、問題一つなく空港を出てひと安心。顔はみんなに聞くと少し日焼けをしたとか?
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僕も数年前に同じようなコースを歩いたので思い出しながら読みました。
寒さが厳しいと書いてありませんが、空気が薄いと発熱が減るためか
ゲストハウスで寝ていても寒かったという記憶があります。
あと、酒がないのは寂しいですね。ルクラに戻ってきたときに久し振りにビールを飲みました。
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