徒歩。名駅〜ユニモール〜国際センタービル。3番出口右で名駅5。寄り道し右折れ。旧廣井村神明社。
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徒歩。名駅〜ユニモール〜国際センタービル。3番出口右で名駅5。寄り道し右折れ。旧廣井村神明社。
神明社横路地。大空襲戦災を免れた都会の異空間。時間旅行。大林監督映画「異人たちとの夏」。子どもの頃の風景や人々が今でもどこかに存在しているのではないかという切ない心。
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神明社横路地。大空襲戦災を免れた都会の異空間。時間旅行。大林監督映画「異人たちとの夏」。子どもの頃の風景や人々が今でもどこかに存在しているのではないかという切ない心。
旧廣井村神明社。棟札=寛文3年(1663)。歴史は名城築城・堀川開削(1610年)以前?堀川挟んで東は熱田台地上、西は下。
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旧廣井村神明社。棟札=寛文3年(1663)。歴史は名城築城・堀川開削(1610年)以前?堀川挟んで東は熱田台地上、西は下。
神社東・水谷商店。名古屋名物・きしめん 生産販売。麺由来。東海道・池鯉鮒宿名物「雉(きじ)肉入り麺」「紀州(きしゅう)麺」「碁石型で碁子(ごし)麺」「三河・芋川(ひもかわ)麺」等。
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神社東・水谷商店。名古屋名物・きしめん 生産販売。麺由来。東海道・池鯉鮒宿名物「雉(きじ)肉入り麺」「紀州(きしゅう)麺」「碁石型で碁子(ごし)麺」「三河・芋川(ひもかわ)麺」等。
神社北隣・光明院。清洲越し古刹。水運舟で賑わう・堀川の面影。庭に千石船地蔵〜水難事故の供養?。尾張藩御用商人三人衆・内海屋寄進・彫刻三十三観音大石。鐘楼と山門が一体型。地蔵=北向き。南・浄信寺と北・光明院が神明社を挟む。
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神社北隣・光明院。清洲越し古刹。水運舟で賑わう・堀川の面影。庭に千石船地蔵〜水難事故の供養?。尾張藩御用商人三人衆・内海屋寄進・彫刻三十三観音大石。鐘楼と山門が一体型。地蔵=北向き。南・浄信寺と北・光明院が神明社を挟む。
光明院北隣・森川彌六商店。「しいたけ・海苔」販売。付近は海産物商沢山。硝子戸に車神明社祭写真。二福神車(旧下花車町)・紅葉狩車(旧上花車町と小鳥町)町内曳行・からくり奉納(10月)。江戸期は三の丸天王社(那古野神社)例祭参加。文政年間制作。廣井村→花車町(江戸後期・大須観音に花車寄進)
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光明院北隣・森川彌六商店。「しいたけ・海苔」販売。付近は海産物商沢山。硝子戸に車神明社祭写真。二福神車(旧下花車町)・紅葉狩車(旧上花車町と小鳥町)町内曳行・からくり奉納(10月)。江戸期は三の丸天王社(那古野神社)例祭参加。文政年間制作。廣井村→花車町(江戸後期・大須観音に花車寄進)
伝馬橋上より南方向。堀川=名古屋城建設資材運搬用運河とも言われるが、名古屋城下周辺の大量の水上物資輸送を目的とし、城と堀川の完成は同年である。福島正則中心で熱田白鳥~名古屋城付近迄開削。木曽木材等を筏運搬。長さ約6km、深さ1.8m。伝馬橋は東海道と中山道を結ぶ美濃街道要所。幕府道中奉行管理。大名行列・朝鮮通信使・お茶壺道中。「往来の貴賎絶間なく賑しき所也」
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伝馬橋上より南方向。堀川=名古屋城建設資材運搬用運河とも言われるが、名古屋城下周辺の大量の水上物資輸送を目的とし、城と堀川の完成は同年である。福島正則中心で熱田白鳥~名古屋城付近迄開削。木曽木材等を筏運搬。長さ約6km、深さ1.8m。伝馬橋は東海道と中山道を結ぶ美濃街道要所。幕府道中奉行管理。大名行列・朝鮮通信使・お茶壺道中。「往来の貴賎絶間なく賑しき所也」
飯田街道・善光寺(下)街道起点の伝馬通本町近く。今日はここから真北に稲生街道歩き。稲生町〜庄内川〜中小田井。現在の伝馬橋は大正期建築。中部地方最古期RCアーチ橋。
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飯田街道・善光寺(下)街道起点の伝馬通本町近く。今日はここから真北に稲生街道歩き。稲生町〜庄内川〜中小田井。現在の伝馬橋は大正期建築。中部地方最古期RCアーチ橋。
美濃街道=稲生街道は堀川の一本西の通りを城西まで重なる。稲生街道は城西から旧江川沿いに北進。庄内川を渡り、中小田井で岩倉街道と接続。庄内川治水・灌漑用水水利や戦国期織田家権力闘争と密に関係。
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美濃街道=稲生街道は堀川の一本西の通りを城西まで重なる。稲生街道は城西から旧江川沿いに北進。庄内川を渡り、中小田井で岩倉街道と接続。庄内川治水・灌漑用水水利や戦国期織田家権力闘争と密に関係。
<那古野1>浅間神社角。狭義の那古野(なごの)=中村区&西区一部。広義の那古野「なごや」旧地名。「那古野城」1532年今川氏より信長父・信秀が奪取。信長生誕の城?今日は堀川の二本西の通りを小塩橋まで歩いた。
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<那古野1>浅間神社角。狭義の那古野(なごの)=中村区&西区一部。広義の那古野「なごや」旧地名。「那古野城」1532年今川氏より信長父・信秀が奪取。信長生誕の城?今日は堀川の二本西の通りを小塩橋まで歩いた。
<浅間神社>早朝より多くの人々が出勤途中に参拝。人は願いや悩みをもつ存在。「神頼み」というより「祈り」は人間が本来もつ重要な本能的感情。
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<浅間神社>早朝より多くの人々が出勤途中に参拝。人は願いや悩みをもつ存在。「神頼み」というより「祈り」は人間が本来もつ重要な本能的感情。
四間道石標。廣井村で火災度々発生。1700年(元禄期)火災では被害甚大。尾張藩は堀川周辺通りの道幅を拡張。五条橋〜中橋間を四間(約7m)にし四間道。呼び名は「しけん」でなく「しけみち」。
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四間道石標。廣井村で火災度々発生。1700年(元禄期)火災では被害甚大。尾張藩は堀川周辺通りの道幅を拡張。五条橋〜中橋間を四間(約7m)にし四間道。呼び名は「しけん」でなく「しけみち」。
四間道。道の東は石垣上に連続する土蔵、西は町屋。石垣上の土蔵は延焼防止の防火壁機能。一本東の美濃街道沿い・旧伊藤家住宅。清洲越し商人「川伊藤」。「川」付で松坂屋呉服店伊藤家と区別。尾張藩御用商人・米穀問屋。
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四間道。道の東は石垣上に連続する土蔵、西は町屋。石垣上の土蔵は延焼防止の防火壁機能。一本東の美濃街道沿い・旧伊藤家住宅。清洲越し商人「川伊藤」。「川」付で松坂屋呉服店伊藤家と区別。尾張藩御用商人・米穀問屋。
四間道の西の路地・子守地蔵周辺。芸者街・花街・路地奥。
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四間道の西の路地・子守地蔵周辺。芸者街・花街・路地奥。
子守地蔵。井戸掘りで地蔵が発掘。童子地蔵の姿。子守地蔵として祀る。
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子守地蔵。井戸掘りで地蔵が発掘。童子地蔵の姿。子守地蔵として祀る。
子守地蔵に出入りする趣のある路地。
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子守地蔵に出入りする趣のある路地。
圓頓寺アーケート商店街の中の金比羅宮。名護屋城三の丸・尾張藩家老・大道寺家屋敷内にあったが、1859年(安政年間)にここへ移築。幕末のごたごた?
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圓頓寺アーケート商店街の中の金比羅宮。名護屋城三の丸・尾張藩家老・大道寺家屋敷内にあったが、1859年(安政年間)にここへ移築。幕末のごたごた?
堀川五条橋から西の江川(今は暗渠)上畠橋までが圓頓寺(えんどうじ)筋。圓頓寺がここへ来たのは1724年大火後。江戸期は尾張徳川家加持祈祷所。火災前は周辺は武家屋敷地帯。
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堀川五条橋から西の江川(今は暗渠)上畠橋までが圓頓寺(えんどうじ)筋。圓頓寺がここへ来たのは1724年大火後。江戸期は尾張徳川家加持祈祷所。火災前は周辺は武家屋敷地帯。
圓頓寺アーケード商店街。明治末からは瀬戸線堀川駅や江川線など開通。紡績工場労働者中心に買い物や盛り場として賑うが、両線廃止で衰退。
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圓頓寺アーケード商店街。明治末からは瀬戸線堀川駅や江川線など開通。紡績工場労働者中心に買い物や盛り場として賑うが、両線廃止で衰退。
圓頓寺南側・真宗高田派・名古屋別院や慶栄寺。御本坊筋で門前町。後は国際センタービル。
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圓頓寺南側・真宗高田派・名古屋別院や慶栄寺。御本坊筋で門前町。後は国際センタービル。
堀川五条橋。東の丸の内と西の那古野間の橋。橋東は東西に京町通。堀川沿いには材木商が多かった。堀川七橋とは上流より五条橋、中橋、伝馬橋、納屋橋(なやばし)、日置橋、古渡橋、尾頭橋(おとうばし)。
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堀川五条橋。東の丸の内と西の那古野間の橋。橋東は東西に京町通。堀川沿いには材木商が多かった。堀川七橋とは上流より五条橋、中橋、伝馬橋、納屋橋(なやばし)、日置橋、古渡橋、尾頭橋(おとうばし)。
五条橋擬宝珠「慶長七年壬刀六月吉日」(1602)銘。清洲五条橋より移転。尾張鋳物師頭作。本物は名古屋城に。
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五条橋擬宝珠「慶長七年壬刀六月吉日」(1602)銘。清洲五条橋より移転。尾張鋳物師頭作。本物は名古屋城に。
外堀通を横切り、北に入ると「幅下町」。熱田台地上に造られた上町に対し「巾下」で低い土地。
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外堀通を横切り、北に入ると「幅下町」。熱田台地上に造られた上町に対し「巾下」で低い土地。
稲生街道。稲生(いのう)の名は矢田川南の稲生町2「伊奴(いぬ)神社」と関係?神社は白鳳時代創建?川幅広大な庄内川河原の土壌堆積地帯では水稲農耕を早くから行う。朝日遺跡(弥生期)大規模集落跡も関係?
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稲生街道。稲生(いのう)の名は矢田川南の稲生町2「伊奴(いぬ)神社」と関係?神社は白鳳時代創建?川幅広大な庄内川河原の土壌堆積地帯では水稲農耕を早くから行う。朝日遺跡(弥生期)大規模集落跡も関係?
名古屋城三の丸への小塩橋から幅下2交差点。この道が美濃街道=稲生街道。ここから西折れ、なごや小学校角へ。
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名古屋城三の丸への小塩橋から幅下2交差点。この道が美濃街道=稲生街道。ここから西折れ、なごや小学校角へ。
なごや小学校フェンス塀にある美濃街道解説。街道はこの小学校敷地を北に縦断。菊ノ尾通から3つめ角の城西公園横を西へ向かった。
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なごや小学校フェンス塀にある美濃街道解説。街道はこの小学校敷地を北に縦断。菊ノ尾通から3つめ角の城西公園横を西へ向かった。
冨士浅間神社。先程の地図では美濃街道はこの神社横は通過せず。ここは街道一本南。室町時代前中期(1398年)創建。元は富士塚町(東桜1)にあったが、名古屋城築城時に普請場となり、こちらに移築。
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冨士浅間神社。先程の地図では美濃街道はこの神社横は通過せず。ここは街道一本南。室町時代前中期(1398年)創建。元は富士塚町(東桜1)にあったが、名古屋城築城時に普請場となり、こちらに移築。
冨士浅間神社。すぐ西を江川が流れた(今は暗渠)。境内に「江川橋(えがわばし)」石枕。「江川」は庄内川・稲生より直線的に南下。堀川と平行し流れ、熱田前新田で中川に合流。幅員4〜7m,深さ1m程。人や荷物運搬は無理。下流耕地の灌漑用。条里制時代の用水跡?
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冨士浅間神社。すぐ西を江川が流れた(今は暗渠)。境内に「江川橋(えがわばし)」石枕。「江川」は庄内川・稲生より直線的に南下。堀川と平行し流れ、熱田前新田で中川に合流。幅員4〜7m,深さ1m程。人や荷物運搬は無理。下流耕地の灌漑用。条里制時代の用水跡?
城西3あたりより東。名古屋城天守閣と名古屋キャッスル。名古屋築城場所は北の庄内川と矢田川が自然防波堤で防御になるとの考え。1663年名古屋城堀用水不足で、守山区竜泉寺付近庄内川から取水・用水運河で水誘導。この結果、水源なしだった堀川に城堀経由で水流入。
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城西3あたりより東。名古屋城天守閣と名古屋キャッスル。名古屋築城場所は北の庄内川と矢田川が自然防波堤で防御になるとの考え。1663年名古屋城堀用水不足で、守山区竜泉寺付近庄内川から取水・用水運河で水誘導。この結果、水源なしだった堀川に城堀経由で水流入。
美濃街道と稲生街道分岐。先の赤い道路の交差点。菊ノ尾通から北に三本目、高速6号清須線の一本東の角が分岐。左には小さい江川郵便局、右には名城市場の看板。
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美濃街道と稲生街道分岐。先の赤い道路の交差点。菊ノ尾通から北に三本目、高速6号清須線の一本東の角が分岐。左には小さい江川郵便局、右には名城市場の看板。
街道分岐。左が美濃街道。右が稲生街道。道下は江川暗渠。城築城以前より北部からの熱田街道「みや道」形成。築城時に資材運搬用に道幅拡張、旅人や物資流通量増加。庄内用水(旧惣兵衛川)上の地藏橋から矢田川へ。そして庄内川は渡船。
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街道分岐。左が美濃街道。右が稲生街道。道下は江川暗渠。城築城以前より北部からの熱田街道「みや道」形成。築城時に資材運搬用に道幅拡張、旅人や物資流通量増加。庄内用水(旧惣兵衛川)上の地藏橋から矢田川へ。そして庄内川は渡船。
江川通り。案内板。豊竹呂昇(とよたけろしょう)この地で1874年生まれ。女義太夫師。明治〜大正時代に女義太夫の頂点に立つ。
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江川通り。案内板。豊竹呂昇(とよたけろしょう)この地で1874年生まれ。女義太夫師。明治〜大正時代に女義太夫の頂点に立つ。
江川端通商店街=旧江川=稲生街道
浄心町。浄心寺が先に見える。江川は小さい川だったが、明治27年江川洪水ではこの周辺浸水。江戸期は「東井筋通」とも。江川西には「笈瀬川」という米野方面に南下する小川もあったよう。
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江川端通商店街=旧江川=稲生街道
浄心町。浄心寺が先に見える。江川は小さい川だったが、明治27年江川洪水ではこの周辺浸水。江戸期は「東井筋通」とも。江川西には「笈瀬川」という米野方面に南下する小川もあったよう。
浄心寺前の地蔵。曹洞宗。俗に浄心観音堂。1811年旧寺(浄心院)址に建立。浄心は西区中心。七福神。弁天通商店街。弁天は宗像神社別名。戦前〜戦後、水の豊富な浄心にはメリヤスなどの繊維工場が多く工員や女工で賑わう。
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浄心寺前の地蔵。曹洞宗。俗に浄心観音堂。1811年旧寺(浄心院)址に建立。浄心は西区中心。七福神。弁天通商店街。弁天は宗像神社別名。戦前〜戦後、水の豊富な浄心にはメリヤスなどの繊維工場が多く工員や女工で賑わう。
宗像神社。別名、御深井弁天(おふけべんてん)。
徳川家私社から村社。明治22年御深井向島(今の名城公園)よりここへ遷宮。義直筆の社号額。神社周りの道はなかなか複雑で曲線が多く興味深い。
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宗像神社。別名、御深井弁天(おふけべんてん)。
徳川家私社から村社。明治22年御深井向島(今の名城公園)よりここへ遷宮。義直筆の社号額。神社周りの道はなかなか複雑で曲線が多く興味深い。
稲生街道と古い建物と洒落た庭の飴虎商店。創業明治元(1868)年。名古屋市西部地域では最古参店。練羊羹など和菓子屋&砂糖全般。閉店?
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稲生街道と古い建物と洒落た庭の飴虎商店。創業明治元(1868)年。名古屋市西部地域では最古参店。練羊羹など和菓子屋&砂糖全般。閉店?
稲生街道。延命地蔵を右に見る。買い物のおばさんたちの様子を見ていると陽気な下町という雰囲気。
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稲生街道。延命地蔵を右に見る。買い物のおばさんたちの様子を見ていると陽気な下町という雰囲気。
延命地蔵。中には大らかな大きな顔のお地蔵さん。ミユキモールの北側。ここを過ぎると庄内通3で右が巨大なイオンモール。
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延命地蔵。中には大らかな大きな顔のお地蔵さん。ミユキモールの北側。ここを過ぎると庄内通3で右が巨大なイオンモール。
右西折れ。名塚町交差点を渡り、一筋西に「稲生原古戦場跡」庚申堂。横が庄内用水(旧惣兵衛川)。織田信秀子の信長(那古野城〜清洲城)と弟信行(末盛城)の家督争い「稲生原合戦(1556)」。信長命で佐久間盛重が名塚砦(現在の白山神社辺り)建設。
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右西折れ。名塚町交差点を渡り、一筋西に「稲生原古戦場跡」庚申堂。横が庄内用水(旧惣兵衛川)。織田信秀子の信長(那古野城〜清洲城)と弟信行(末盛城)の家督争い「稲生原合戦(1556)」。信長命で佐久間盛重が名塚砦(現在の白山神社辺り)建設。
信長軍は清洲から於多井川(庄内川)稲生へ。川南には信行軍=末盛城の柴田軍と那古野城の宿老・林軍。信行軍は信長軍の2倍以上。大雨で濁流化・沼地の庄内川河原で合戦。信長怒りの大声や果敢な攻撃に怯み、信行軍大敗。合戦後に籠城の末盛城と那古野城は灰に。
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信長軍は清洲から於多井川(庄内川)稲生へ。川南には信行軍=末盛城の柴田軍と那古野城の宿老・林軍。信行軍は信長軍の2倍以上。大雨で濁流化・沼地の庄内川河原で合戦。信長怒りの大声や果敢な攻撃に怯み、信行軍大敗。合戦後に籠城の末盛城と那古野城は灰に。
庚申堂内の馬頭観音。土田御前(信長母)の仲介で和睦・謝罪した信行は再度謀反を画策。後に清洲城で暗殺された。政治権力や財産をめぐる兄弟肉親の骨肉の争いは普遍の悲しい人の性(さが)。
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庚申堂内の馬頭観音。土田御前(信長母)の仲介で和睦・謝罪した信行は再度謀反を画策。後に清洲城で暗殺された。政治権力や財産をめぐる兄弟肉親の骨肉の争いは普遍の悲しい人の性(さが)。
庄内用水。西区、中村区、中川区、港区を経て伊勢湾に注ぐ延長28kmの用水。取水は庄内川より。名古屋市西部の田畑を潤す。惣兵衛川=稲生川=庄内用水の開削は元亀・天正年間(16世紀後期)「稲生杁」
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庄内用水。西区、中村区、中川区、港区を経て伊勢湾に注ぐ延長28kmの用水。取水は庄内川より。名古屋市西部の田畑を潤す。惣兵衛川=稲生川=庄内用水の開削は元亀・天正年間(16世紀後期)「稲生杁」
庄内用水上の公園より白山神社(名塚砦址)。清州と名塚間は直線約6km。那古野城〜名塚〜清洲は、信長の日常的な乗馬コースだった?
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庄内用水上の公園より白山神社(名塚砦址)。清州と名塚間は直線約6km。那古野城〜名塚〜清洲は、信長の日常的な乗馬コースだった?
名塚1。西曲りで新福寺に向かう。庄内川の南にある名塚、新福寺、堀越等の集落は、合戦当時は庄内川と矢田川の中州にあった。江戸期の川幅・河原は限りなく広く蛇行。中州や河原の肥沃な土地で田畑開墾。
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名塚1。西曲りで新福寺に向かう。庄内川の南にある名塚、新福寺、堀越等の集落は、合戦当時は庄内川と矢田川の中州にあった。江戸期の川幅・河原は限りなく広く蛇行。中州や河原の肥沃な土地で田畑開墾。
名塚1道沿い地蔵。名古屋城築城後に庄内川・矢田川等にも堤防設置。その結果、村が中州に孤立状態になり、村落全体で川の南の現在地に3村共に移転(1614年)。
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名塚1道沿い地蔵。名古屋城築城後に庄内川・矢田川等にも堤防設置。その結果、村が中州に孤立状態になり、村落全体で川の南の現在地に3村共に移転(1614年)。
新福寺本堂。「関係者以外立ち入り禁止」の立て札。入れない。寺の裏に椎の大木(17m)。新福寺村の名称の由来となった寺。
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新福寺本堂。「関係者以外立ち入り禁止」の立て札。入れない。寺の裏に椎の大木(17m)。新福寺村の名称の由来となった寺。
移転した村々があったのは、庄内川河川敷と対岸の小田井遊水地堤防辺り。写真は新福寺より北を見て庄内川堤防。
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移転した村々があったのは、庄内川河川敷と対岸の小田井遊水地堤防辺り。写真は新福寺より北を見て庄内川堤防。
白山神社。稲生原合戦の中心地?名塚砦址?飛鳥時代中後期の白鳳年中(7世紀後期)創建?白山神社という名?稲生村の伊奴神社との関係?謎だらけ。
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白山神社。稲生原合戦の中心地?名塚砦址?飛鳥時代中後期の白鳳年中(7世紀後期)創建?白山神社という名?稲生村の伊奴神社との関係?謎だらけ。
もう一度交差点を東に渡り、地蔵橋跡。庄内用水(旧惣兵衛川)。稲生街道筋。
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もう一度交差点を東に渡り、地蔵橋跡。庄内用水(旧惣兵衛川)。稲生街道筋。
地蔵橋由来の南無地蔵大菩薩祠。神変大菩薩、秋葉神社が横に。「庄内村道路元標」「秋葉宮」の石碑。道は稲生街道。奥の木々は庄内用水。定井(恒久的な取水口)は1619年完成。
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地蔵橋由来の南無地蔵大菩薩祠。神変大菩薩、秋葉神社が横に。「庄内村道路元標」「秋葉宮」の石碑。道は稲生街道。奥の木々は庄内用水。定井(恒久的な取水口)は1619年完成。
地蔵橋由来の南無地蔵大菩薩
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地蔵橋由来の南無地蔵大菩薩
伊奴神社(稲生町)673年天武天皇に稲を献上して創建?「稲生(いのう)」の名称の由来。伊奴。いぬま(泥)。イヌ。イノウ。稲生。(水路、砂礫)
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伊奴神社(稲生町)673年天武天皇に稲を献上して創建?「稲生(いのう)」の名称の由来。伊奴。いぬま(泥)。イヌ。イノウ。稲生。(水路、砂礫)
伊奴神社。昭和初期まで矢田川は昔は今より南に蛇行。犬奴神社の真北あたりを流れて、庄内橋あたりで庄内川に合流。
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伊奴神社。昭和初期まで矢田川は昔は今より南に蛇行。犬奴神社の真北あたりを流れて、庄内橋あたりで庄内川に合流。
「いぬ」の神様。「伊奴姫神」に由来。庄内川の洪水・氾濫に困る村人が山伏に相談。山伏は、御幣を立て祈願した。御幣内に「一匹の犬と犬の王」の文字。災難除、安産、子育て。
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「いぬ」の神様。「伊奴姫神」に由来。庄内川の洪水・氾濫に困る村人が山伏に相談。山伏は、御幣を立て祈願した。御幣内に「一匹の犬と犬の王」の文字。災難除、安産、子育て。
妙本寺南側。信長・秀吉に仕えた丹羽将監長忠屋敷跡に歴代墓石。民家の中。
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妙本寺南側。信長・秀吉に仕えた丹羽将監長忠屋敷跡に歴代墓石。民家の中。
秋葉山安性寺。尾張藩主が鷹狩りで立ち寄る。水天宮神霊、秋葉護国三尺坊。陸奥(霧島)部屋大相撲名古屋場所の土俵。訪問時も若い衆が土俵整備に汗を流す。
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秋葉山安性寺。尾張藩主が鷹狩りで立ち寄る。水天宮神霊、秋葉護国三尺坊。陸奥(霧島)部屋大相撲名古屋場所の土俵。訪問時も若い衆が土俵整備に汗を流す。
北から稲生街道を見る。稲生渡し近く。稲生村と大野木村を結ぶので「大野木渡」とも。この辺り、昔の雰囲気が色濃く興味深い。
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北から稲生街道を見る。稲生渡し近く。稲生村と大野木村を結ぶので「大野木渡」とも。この辺り、昔の雰囲気が色濃く興味深い。
南から稲生街道。突き当たりが坂になり堤防へ上がり、庄内川と矢田川の合流点の河原に向かう。
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南から稲生街道。突き当たりが坂になり堤防へ上がり、庄内川と矢田川の合流点の河原に向かう。
堤防下「八大龍王・水神堂」。水災害除け等の意味?公民館のような建物。かつての矢田川は現在よりもっと南を蛇行。安性寺や伊奴神社のすぐ裏を流れ、その後、矢田川の流れを北に付け替え、今の姿に。
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堤防下「八大龍王・水神堂」。水災害除け等の意味?公民館のような建物。かつての矢田川は現在よりもっと南を蛇行。安性寺や伊奴神社のすぐ裏を流れ、その後、矢田川の流れを北に付け替え、今の姿に。
庄内川橋左岸・庄内公園。楠公父子像。昭和12年在郷軍人会。『太平記』の名場面で親子関係を説く戦前道徳教育の一環。愛知のあちこちに。この前に稲生古戦場と庄内川渡船場記述の漢文石碑。
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庄内川橋左岸・庄内公園。楠公父子像。昭和12年在郷軍人会。『太平記』の名場面で親子関係を説く戦前道徳教育の一環。愛知のあちこちに。この前に稲生古戦場と庄内川渡船場記述の漢文石碑。
庄内橋を渡り、庄内川を北より見る。中央が庄内川と矢田川合流点。写真の一番右が稲生の渡し付近。矢田川は徒歩で渡り、庄内川は渡船。渇水時、北の大野木村より仮橋架設されることも。最初の庄内橋建設は明治42年で木造橋。度々、洪水で流失。大正15年に鉄橋。
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庄内橋を渡り、庄内川を北より見る。中央が庄内川と矢田川合流点。写真の一番右が稲生の渡し付近。矢田川は徒歩で渡り、庄内川は渡船。渇水時、北の大野木村より仮橋架設されることも。最初の庄内橋建設は明治42年で木造橋。度々、洪水で流失。大正15年に鉄橋。
旧大野木村・津島神社。現在は庄内川橋北詰の坂井戸町。
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旧大野木村・津島神社。現在は庄内川橋北詰の坂井戸町。
旧大野木村・薬師寺。津島神社の北下。この裏手には急坂道があり「坂庭(さかば)の薬師の坂」。また、付近には坂井戸城(織田又六)の井戸があり「坂井戸」の名。坂井戸=小田井?
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旧大野木村・薬師寺。津島神社の北下。この裏手には急坂道があり「坂庭(さかば)の薬師の坂」。また、付近には坂井戸城(織田又六)の井戸があり「坂井戸」の名。坂井戸=小田井?
坂井戸城は現在の庄内緑地公園横の自動車学校の付近か?さらにその付近の中州に砦?緑地公園=小田井遊水地。小田井水門を洪水時に閉じ、川水位が下がれば遊水地の水を川に戻し調整。
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坂井戸城は現在の庄内緑地公園横の自動車学校の付近か?さらにその付近の中州に砦?緑地公園=小田井遊水地。小田井水門を洪水時に閉じ、川水位が下がれば遊水地の水を川に戻し調整。
庄内川緑地北の堤防下の星神社。元は坂庭神社?大きな神社で西隣に諏訪神社?星祭(七夕祭り)が最大の祭り。1100年以上前より。庄内川氾濫させる川神の怒りを鎮める。庄内川を天の川に見立。
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庄内川緑地北の堤防下の星神社。元は坂庭神社?大きな神社で西隣に諏訪神社?星祭(七夕祭り)が最大の祭り。1100年以上前より。庄内川氾濫させる川神の怒りを鎮める。庄内川を天の川に見立。
星神社南の堤防にある「ムクノキ」大木。高さ18m3本。「小田井」由来は南北朝期「於田江荘」の荘園名?「小田井人足」?常に洪水氾濫と戦う尾張藩と地域住民。
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星神社南の堤防にある「ムクノキ」大木。高さ18m3本。「小田井」由来は南北朝期「於田江荘」の荘園名?「小田井人足」?常に洪水氾濫と戦う尾張藩と地域住民。
ムクノキ西に火の見櫓付近にある祠。
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ムクノキ西に火の見櫓付近にある祠。
庄内川堤畦の祠の中の美しい石仏。
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庄内川堤畦の祠の中の美しい石仏。
法源寺(1554年)創設。開基は織田信長妹で津田又三郎(織田信張)の母・陽徳院。1672年尾張藩祖義直関係の北潭和尚が再興。寺紋は三つ葉葵。福島正則寄進の槍。
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法源寺(1554年)創設。開基は織田信長妹で津田又三郎(織田信張)の母・陽徳院。1672年尾張藩祖義直関係の北潭和尚が再興。寺紋は三つ葉葵。福島正則寄進の槍。
法源寺前の2つの地蔵の1つ。
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法源寺前の2つの地蔵の1つ。
法源寺の長塀。近くの長善寺は佐々成政や織田信成の菩提寺。大聖院には本尊地蔵菩薩像。坂井戸(小田井)城主織田又六創建。
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法源寺の長塀。近くの長善寺は佐々成政や織田信成の菩提寺。大聖院には本尊地蔵菩薩像。坂井戸(小田井)城主織田又六創建。
岩倉街道と出合う。右は中小田井駅。岩倉村やその周辺の農民が、枇杷島の青物市へ野菜類を運ぶ道として繁栄。枇杷島橋で美濃街道と合流。三大青物市。大坂の天満、京都の八百屋町、名古屋の枇杷島。江戸では神田、千住、駒込。
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岩倉街道と出合う。右は中小田井駅。岩倉村やその周辺の農民が、枇杷島の青物市へ野菜類を運ぶ道として繁栄。枇杷島橋で美濃街道と合流。三大青物市。大坂の天満、京都の八百屋町、名古屋の枇杷島。江戸では神田、千住、駒込。
岩倉街道道標。南面に「右:小牧・善光寺(長野)道」とある。
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岩倉街道道標。南面に「右:小牧・善光寺(長野)道」とある。
岩倉街道を見る。町屋・土蔵・長屋など歴史的は建物が並ぶ。2階建、平屋、中2階と軒高が交互に変化する町並み。
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岩倉街道を見る。町屋・土蔵・長屋など歴史的は建物が並ぶ。2階建、平屋、中2階と軒高が交互に変化する町並み。
巨大な旧商家。庄内川右岸の中小田井は、9世紀には集落化、1667年に名古屋城下から岩倉方面に至る旧岩倉街道が完成。野菜を運んだ農民が青物市帰りに味噌・油などの生活用品をこちらで購入。
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巨大な旧商家。庄内川右岸の中小田井は、9世紀には集落化、1667年に名古屋城下から岩倉方面に至る旧岩倉街道が完成。野菜を運んだ農民が青物市帰りに味噌・油などの生活用品をこちらで購入。
中小田井。善光寺山門。平安時代前期の829年越州の澄純法師が寺を建立、慈覚大師作と伝わる薬師如来を安置。
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中小田井。善光寺山門。平安時代前期の829年越州の澄純法師が寺を建立、慈覚大師作と伝わる薬師如来を安置。
善光寺別院願王寺。創建は平安前期の829年。伝慈覚大師作の薬師如来安置。明治期に善光寺如来勧請。山本信嗣氏の浄財で再建しモダンな寺。奥には1492年小田井城主創建の東雲寺と城主墓。
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善光寺別院願王寺。創建は平安前期の829年。伝慈覚大師作の薬師如来安置。明治期に善光寺如来勧請。山本信嗣氏の浄財で再建しモダンな寺。奥には1492年小田井城主創建の東雲寺と城主墓。
五所社。神明、八幡、天神、愛宕、熊野(白山)で五社。小田井城主と関係?
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五所社。神明、八幡、天神、愛宕、熊野(白山)で五社。小田井城主と関係?
五所社。小田井=於田江(東保・中保・西保)。江戸期は小田井(上・中・下)。城主が開削の用水路「織田殿の井通」から「小田井(おたい)」?「用水を司る」という意味?
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五所社。小田井=於田江(東保・中保・西保)。江戸期は小田井(上・中・下)。城主が開削の用水路「織田殿の井通」から「小田井(おたい)」?「用水を司る」という意味?
中小田井。民家を右折れすると坂道で庄内川堤防。現在は、堤防向こうは遊水地としての庄内緑地。この坂道を野菜一杯の荷車を押して上がるのは体に堪えた。本日はここまで。
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中小田井。民家を右折れすると坂道で庄内川堤防。現在は、堤防向こうは遊水地としての庄内緑地。この坂道を野菜一杯の荷車を押して上がるのは体に堪えた。本日はここまで。
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