記録ID: 2334446
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沢登り
アジア
《台湾》阿里山の地震湖を訪ねて
2001年03月21日(水) 〜
2001年03月23日(金)

コースタイム
台湾中部の埔里の南西に位置する集集鎮を主震源とする台湾で集集大震と呼ばれる大地震が1999年に発生した。それから一年半後の2001年3月に地震の被害がもっともひどかった阿里山山脈に、地元の人しか知らない地震でできた幻の湖を探訪することにした。崩壊した山々に自然の猛威をまざまざと感じた山行であった。
景勝の避暑地として名高い阿里山の北に台湾一の400mの滝があるという。滝の名前は蛟龍瀑布という。これはおもしろそうだ、是非行こうということでこの滝を目指した。
阿里山山脈は台湾最高峰玉山(3952m)の西にある高度2000m前後の南北に走る山脈で、阿里山から北の山々は高原状を成し、その水を集めて清水渓が北西に流れる。
清水渓の支流はいずれも中流域で一気に高度を上げ、そこに多くのゴルジュと滝がある。蛟龍瀑布もその一つである。
3月19日、嘉義市に集合し夜に嘉義市山岳協会を表敬訪問した。今回の山行には日本からは私と清水、成瀬、台湾からは台北溯渓倶楽部の呉牡丹、卓静淑さんと彰化山協の若い陳龍佳君が同行することになった。
蛟龍瀑布
20日朝、嘉義から阿里山行きの森林鉄路に乗り、中間点の奮起湖駅で下車して民宿の迎えの車に乗って蛟龍瀑布のある豊山村の清水渓の石鼓盤渓へ向かった。道はお茶畑の間をぐんぐん下り、阿里山渓を渡り尾根を回り込むと眼下に豊山村が見えた。
それは衝撃的風景だった。村の後ろの山々は悉く数100mの崩壊壁である。荒涼・・・、こんな風景は台湾で今まで見たことがなかった。村は地震後半年間孤立してヘリコプターで生活物質を運んだそうである。地震で森林や渓谷が壊滅してしまい民宿に客がなく困っているとのことだった。
また村の下流の右岸にある草嶺という山が2km四方にわたり崩壊し、斜面にあった村を壊滅させ、谷を堰き止め新草嶺湖という大きな湖を作ってしまった。この地域の地震の被害はそれほどにひどいものだった。
蛟龍瀑布の谷に架かる橋に着いた。500mを優に越える壁の中に水で濡れて黒ずんだ一筋の滝がかすかに見える。滝頭は深いゴルジュへと続き、滝の周りは大崩壊に囲まれている。これでは滝に近づくのも恐い。呆然としている横で荘再傳さんが「だから無理だと言ったでしょう」という顔して笑っている。
千人窟と地震湖
計画変更するにしてもどの谷も崩壊して危険この上ないらしい。さてどうするか。この村の名所に千人窟という台湾一の大きさの岩小屋がある。道を歩いて片道4時間だがそこへの道も崩壊しているとのこと。だがそのさらに奥に山崩れでできた秘湖があるらしい。地元の狩人しか知らないこのアンノン・レイクに気持ちが動いた。衆議一決、そこに行くことにした。
林道終点まで石鼓盤渓に沿った林道を車で送ってもらう。林道の終点の崩壊した谷には濁った水しかないがそれを我慢して沸かして飲んで一泊した。
21日、登山口の釣橋を渡り苦しい急登を2時間すると清流に出た。ようやく気兼ねなしに水を存分に飲んだ。道は対岸に渡り、登ってから水平になるが、崩壊があるようなのでそれを避けて直上すると稜線に上がってしまった。狩道を辿り小さい登り下りを繰返して行く。驚いたことに杉の植林である。木の大きさからすれと戦後の植林だろう。予想を超えて8時間もかけて辿り着いた千人窟はさすがに大きかった。長さ2、300mで3、40mも庇が張り出している。なるほど千人窟だ。千人は本当に泊まれそうだ。思い思いの場所に好きに寝たが寒かった。
21日、千人窟に荷物を置いて湖を探索に行く。地図を頼りに千人窟の谷を上流に詰め、鞍部を越えて北隣の谷へ下ると、少し上流に大規模な山崩れがあった。幅300m、長さ1kmくらいあろうか。斜面の傾斜は20度あるかないかで、こんな緩斜面でも崩れるというのは驚きだ。直径10mもあるたくさんの大岩が累積したデブリを越えるのは大変で、一時間強もかかってしまった。
デブリの先が湖だった。湖は鏡のように杉林を写して静かであった。杉は水に浸かり枯れていたが、まだ茶色の枯葉を付けたままであった。いずれ葉が落ちると上高地の大正池のようになるのだろう。
千人窟に戻り、帰りは登山道を辿って登山口の河原で泊まった。
23日、阮榮助さんの案内で清水渓の地震でできた新草嶺湖を見て下山した。
あの深山の秘湖はどうなっているだろうか。荒涼とした地震の傷跡の崩壊とともに時々ふと鏡のようなあの湖面を思い出す。(茂木完治)
景勝の避暑地として名高い阿里山の北に台湾一の400mの滝があるという。滝の名前は蛟龍瀑布という。これはおもしろそうだ、是非行こうということでこの滝を目指した。
阿里山山脈は台湾最高峰玉山(3952m)の西にある高度2000m前後の南北に走る山脈で、阿里山から北の山々は高原状を成し、その水を集めて清水渓が北西に流れる。
清水渓の支流はいずれも中流域で一気に高度を上げ、そこに多くのゴルジュと滝がある。蛟龍瀑布もその一つである。
3月19日、嘉義市に集合し夜に嘉義市山岳協会を表敬訪問した。今回の山行には日本からは私と清水、成瀬、台湾からは台北溯渓倶楽部の呉牡丹、卓静淑さんと彰化山協の若い陳龍佳君が同行することになった。
蛟龍瀑布
20日朝、嘉義から阿里山行きの森林鉄路に乗り、中間点の奮起湖駅で下車して民宿の迎えの車に乗って蛟龍瀑布のある豊山村の清水渓の石鼓盤渓へ向かった。道はお茶畑の間をぐんぐん下り、阿里山渓を渡り尾根を回り込むと眼下に豊山村が見えた。
それは衝撃的風景だった。村の後ろの山々は悉く数100mの崩壊壁である。荒涼・・・、こんな風景は台湾で今まで見たことがなかった。村は地震後半年間孤立してヘリコプターで生活物質を運んだそうである。地震で森林や渓谷が壊滅してしまい民宿に客がなく困っているとのことだった。
また村の下流の右岸にある草嶺という山が2km四方にわたり崩壊し、斜面にあった村を壊滅させ、谷を堰き止め新草嶺湖という大きな湖を作ってしまった。この地域の地震の被害はそれほどにひどいものだった。
蛟龍瀑布の谷に架かる橋に着いた。500mを優に越える壁の中に水で濡れて黒ずんだ一筋の滝がかすかに見える。滝頭は深いゴルジュへと続き、滝の周りは大崩壊に囲まれている。これでは滝に近づくのも恐い。呆然としている横で荘再傳さんが「だから無理だと言ったでしょう」という顔して笑っている。
千人窟と地震湖
計画変更するにしてもどの谷も崩壊して危険この上ないらしい。さてどうするか。この村の名所に千人窟という台湾一の大きさの岩小屋がある。道を歩いて片道4時間だがそこへの道も崩壊しているとのこと。だがそのさらに奥に山崩れでできた秘湖があるらしい。地元の狩人しか知らないこのアンノン・レイクに気持ちが動いた。衆議一決、そこに行くことにした。
林道終点まで石鼓盤渓に沿った林道を車で送ってもらう。林道の終点の崩壊した谷には濁った水しかないがそれを我慢して沸かして飲んで一泊した。
21日、登山口の釣橋を渡り苦しい急登を2時間すると清流に出た。ようやく気兼ねなしに水を存分に飲んだ。道は対岸に渡り、登ってから水平になるが、崩壊があるようなのでそれを避けて直上すると稜線に上がってしまった。狩道を辿り小さい登り下りを繰返して行く。驚いたことに杉の植林である。木の大きさからすれと戦後の植林だろう。予想を超えて8時間もかけて辿り着いた千人窟はさすがに大きかった。長さ2、300mで3、40mも庇が張り出している。なるほど千人窟だ。千人は本当に泊まれそうだ。思い思いの場所に好きに寝たが寒かった。
21日、千人窟に荷物を置いて湖を探索に行く。地図を頼りに千人窟の谷を上流に詰め、鞍部を越えて北隣の谷へ下ると、少し上流に大規模な山崩れがあった。幅300m、長さ1kmくらいあろうか。斜面の傾斜は20度あるかないかで、こんな緩斜面でも崩れるというのは驚きだ。直径10mもあるたくさんの大岩が累積したデブリを越えるのは大変で、一時間強もかかってしまった。
デブリの先が湖だった。湖は鏡のように杉林を写して静かであった。杉は水に浸かり枯れていたが、まだ茶色の枯葉を付けたままであった。いずれ葉が落ちると上高地の大正池のようになるのだろう。
千人窟に戻り、帰りは登山道を辿って登山口の河原で泊まった。
23日、阮榮助さんの案内で清水渓の地震でできた新草嶺湖を見て下山した。
あの深山の秘湖はどうなっているだろうか。荒涼とした地震の傷跡の崩壊とともに時々ふと鏡のようなあの湖面を思い出す。(茂木完治)
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