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ハイキング
伊豆・愛鷹
愛鷹山 深山城跡再調査
2023年02月04日(土) [日帰り]

- GPS
- 00:15
- 距離
- 0.8km
- 登り
- 22m
- 下り
- 7m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 0:15
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 0:15
距離 0.8km
登り 23m
下り 24m
14:26
15分
スタート地点
14:42
ゴール地点
6年前に須山史を調べていた際、地元の方に祟りがあると恐れられている城跡があると案内されました。
そこには昨年の大河ドラマ鎌倉殿の13人の終盤で籠城の末自決したと伝わる源頼朝の異母弟、阿野全成の嫡男阿野時元の説明文がありました。
その後、阿野一族が居城としていたのは沼津市の大泉寺であると知り、ずいぶん遠くで籠城していたのだなと思っていました。
しかし、吾妻鏡を見てみると健保七年二月十五日の記述に(引率多勢構城郭於深山)とあり、この深山がこの深山城の根拠ではと感じました。
深山は須山の地元では「ふかやま」と読まれており、吾妻鏡の深山は山奥と解釈するのが自然であります。
同時に長く調べている愛鷹山山麓の山居遺跡、それに長泉町の五輪塔がこの阿野時元と関りがあるのではと感じました。
結論として北条義時に命をうけた金窪一派が阿野の館を攻めた際、時元は山奥に作った砦(山居)に籠城し、さらに追われて五輪塔で自決したというシナリオに矛盾は感じないと思いました。
本日はこの裾野市の深山城の保存状態と関連性を調べました。
そこには昨年の大河ドラマ鎌倉殿の13人の終盤で籠城の末自決したと伝わる源頼朝の異母弟、阿野全成の嫡男阿野時元の説明文がありました。
その後、阿野一族が居城としていたのは沼津市の大泉寺であると知り、ずいぶん遠くで籠城していたのだなと思っていました。
しかし、吾妻鏡を見てみると健保七年二月十五日の記述に(引率多勢構城郭於深山)とあり、この深山がこの深山城の根拠ではと感じました。
深山は須山の地元では「ふかやま」と読まれており、吾妻鏡の深山は山奥と解釈するのが自然であります。
同時に長く調べている愛鷹山山麓の山居遺跡、それに長泉町の五輪塔がこの阿野時元と関りがあるのではと感じました。
結論として北条義時に命をうけた金窪一派が阿野の館を攻めた際、時元は山奥に作った砦(山居)に籠城し、さらに追われて五輪塔で自決したというシナリオに矛盾は感じないと思いました。
本日はこの裾野市の深山城の保存状態と関連性を調べました。
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2023年02月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
荒れていて見学にはトレッキングシューズ等の用意必要 |
写真
感想
須山の付近の農家の家には古くからの墓石が祀られており、年代をみると江戸期早期のものがあり、中には家人によると平安期からの代々の家柄であるとも聞いています。家の家宝には小田原城を改築した際の褒美品などを所蔵している家もありました。
ところがこの城跡についての情報がまったくわからず、小さい時にお化けが出る、副葬品を掘り出した人が急死したなどの謂れだけ伝わります。
阿野時元が壮絶な自決をしたのならなんらかの伝承があってもおかしくないのですが、その根拠は須山振興会の看板と吾妻鏡の記述だけです。
しかも裾野市の文化遺産と書かれていながら登録もされておらず、まったくの不整備状態です。
少なくとも大河ドラマに合わせて盛り上がった沼津市大泉寺とは大きな違いを感じます。
本日みた様子では堀切道は水源利用の際の馬力道、獣避石積は氾濫を防ぐ際の護岸工事跡。さらに尼寺の墳丘は江戸期くらいの村民の無縁仏塚ではないかと感じました。とりまく土塁などは農耕馬などの馬柵土塁の跡、なんらかの不幸な謂れは感じますが、後は城郭の専門家の判断待ちでしょう。
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