三木城(三重県尾鷲市)


- GPS
- 00:32
- 距離
- 1.0km
- 登り
- 28m
- 下り
- 36m
過去天気図(気象庁) | 2023年04月の天気図 |
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アクセス |
写真
五輪塔の地輪によると、これは寛永19(1642)年5月没、源花智水信女(坂本勘兵衛の母)の墓である。
この場所は三鬼氏の墓地であったが、整地により小型の五輪塔や石塔が埋められ、現在はこの1基が残っている。
天正3(1575)年の三木城落城で、城主三鬼新八郎は奈良県吉野郡上北山村へ落ちのびたが、間もなく殺されてしまった。元禄14(1701)年の土地の調査において、三木浦には由緒ある家柄として「坂本勘兵衛」の名がみえている。勘兵衛は上北山村坂本の出身と思われ、三鬼新八郎の逃走と深い関係があるものと考えられる。
この五輪塔には、上から3番目の「火輪」が欠如しているが、高さ150cmという江戸初期の大型五輪塔(全高86cm)で、市内では貴重な文化財である。
※五輪塔は上から宝珠の空輪・請(うけ)花(ばな)の風輪・笠石の火輪・塔身の水輪・基礎の地輪からなり、「空・風・火・水・地」の五大を宇宙の生成要素と説く仏教思想に基づいて平安時代に創始され、鎌倉以後は先亡者の供養や墓石としてつくられた。
以上尾鷲市公式サイトより転記
五輪塔の前で分岐していますが、山側に向かって右手に進むと物見台跡、左手に進むと小学校です。
細い階段を上がった先にあります。車ではこちらにはこられません。小学校の上を通る国道311号線から小学校の裏手に車で下りてこられます。
廃校かと思いましたが春休み中で誰もいなかっただけのようです。
感想
【城名】三木城(三重県尾鷲市)
【別名】三鬼城
【場所】三重県尾鷲市三木浦町
【形式】丘城
【地目】山林(物見台跡)
【立地】山頂(物見台跡)
【標高(比高)】37m(-m)
【規模】24x26m
【時代】弘治年間 ※室町時代(戦国時代)の1555年から1558年まで
【築城】ーー
【城主】三鬼新八郎
【遺構他】物見台跡、城主縁者?五輪塔、説明板
【訪城日】2023年4月1日
【訪城時間】32分38秒
【備考】ーー
【歴史】三木城は、戦国時代に三木浦の武将三鬼新八郎の居城であり、天正3年(1575)から6年かけて、4回の戦禍をうけている。
天正3年三木城は新宮の堀内氏の攻撃をうけたが、三鬼新八郎は九鬼嘉隆の援軍を得て堀内勢を破った。しかし間もなく三鬼氏と九鬼氏は不和となったため、再び堀内氏の攻撃をうけて三木城は落城し、三鬼新八郎は奈良県上北村へ逃げたが、間もなく土地の者に殺された。その後長島の加藤氏が三木城を奪い、同6年加藤氏は堀内氏の2000の兵に追われた。
以上尾鷲市公式サイトより
紀伊新宮城主の堀内氏善は勢力拡大のため、三木城を攻め、城主の三鬼新八郎は九鬼嘉隆の援軍を得て撃退していた。氏善は一計を案じ、嘉隆の娘を妻に迎えて三鬼氏の孤立を図る。
そのため、天正3年(1575年)にまた氏善が攻めてきた際には九鬼嘉隆は三鬼氏を支援せず、城は落城し、新八郎は大和国吉野郡の上北山村へ逃れたものの、氏善の配下により殺された。
堀内氏善は少しの兵力を残して新宮に帰ったが、それを狙って紀伊長島城主である加藤甚五郎は奥村氏を誘って三木城を攻め落とし、在城した。これを知った氏善は天正4年(1576年)に2,000の兵力を率いて夜討ちをかけた。加藤の軍勢は多数の死傷者を出しながらも何とか本拠である紀伊長島城に戻ったが、奥村氏の裏切りにより更に不利な状況となり、数ヶ月間戦った後、紀伊長島城は焼失し、甚五郎は自刃した。54歳であったといわれている。
その後、三木城は三鬼新八郎の息子三鬼勘六が城主になった。
以上ウィキペディアより
【概要】本丸・二の丸は現在三木小学校の用地となってしまい往事を偲ぶことはできないが、城山と地元の人に呼ばれる物見台跡のみがわずかに往時の面影を残している。
当時城は三方を海に囲まれていたとあることから、城の下にある町並みは戦国時代にはなかったよう。
【訪城記録】
三木小学校の山側上を通過する国道311号線から坂を下って小学校裏手の狭い駐車場に駐車。5,6台駐車可か。小学校の駐車場かどうか不明。坂の途中に狭いながらもいくつか駐車場有り。
小学校の校庭を海側に進んで海から上がってきた階段を上り詰めたところにある正門から海側に下りていくと途中に三木神社があります。そのすぐ下よりに五輪塔があり右手に説明板がある。城主と何らかの関係があったよう。
五輪塔から分岐しているが海に向かって左に進むと物見台跡に至る。
物見台跡には祠の残骸のようなものがあるほか、説明板、満州事変3周年の石柱が立つ。
この祠は浅間神社とのことで三木浦の歩き方というサイトによると「御祭神は、木花咲耶姫。山上の石室には修験者の石像を安置。集落に悪魔や悪病が入るのを防いでくれると伝わる。」とあります。
また「浅間神社の隣にある祠に不動明王が祀られている。三木浦の漁師が海上安全、大漁満足、村の繁栄を祈願したのが始まりと言われ、明治年代にはすでに存在していたと伝わる。」ともあります。
▼ガーミン軌跡
https://connect.garmin.com/modern/activity/10811771214
▼これまでの訪城記録
http://nack1003.livedoor.blog/archives/6463470.html
▼攻城団
https://kojodan.jp/profile/11671/
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