徳島市遺跡博物館めぐり


- GPS
- --:--
- 距離
- 36.0km
- 登り
- 75m
- 下り
- 66m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2023年05月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
電車
自転車
|
写真
鮎喰川の対岸の国府建設に関与した粟(阿波)氏に関係する終末期古墳とみられている
感想
昨夜はホテルでブラタモリの屋久島を見てから、世界卓球の早田vs孫戦を見ようとテレビのチャンネルを捻るがさすがにテレ東のチャンネルはなく、やむ無くスマホで観戦も画面が見えづらく、音だけ聴きながら隣のスシローで寿司を少し摘まみながら観戦。大勢待つ客がいたが一人だとすぐにカウンター石がとれた。今風の画面から注文を出す仕組みで少し戸惑う。注文したものが一つの来ず別の皿をとったかも知れず??英語だけのアナウンサーがうるさい😭‼️すでに三セット連取され早田ピンチ、孫は、強い‼️
孫はスンインシャと言うらしいがサーシャサーシャと聞こえてうるさいが強すぎる。早田も第4セットを取り返して気を吐いたが、頑張りもここまで。孫の正確で速い速射砲のような配球の前に破れたのは仕方ない。孫もダブルスで韓国チームに破れて背水の陣だったろう。 朝目覚めて宮沢賢治の春と修羅について僧侶がなにやら話をしている。花巻の空襲で序文の生原稿が焼けたが土蔵と防空壕を弟が保存したお陰で多くの原稿や手帳などが焼けずに残されて現在の宮沢賢治の作品が残されたらしい。
七時に和食朝食を食べ七時二十分のシャトルバスで徳島駅にでて、ロッカーに荷物を預け地下駐輪場でチャリを借りまず城山中央公園の城山貝塚を見学し、鳥居龍蔵が最初に調査したものと知る。大きな岩の割れ目に貝塚が残されたらしい。ここの城跡には登らず次の阿波史跡公園、徳島市立考古資料館に向かった。
城山貝塚から、最初に穴不動古墳に向かう。眉山の山並みを見ながら進むと徳島大学病院を過ぎた当たりで道が湾曲し、しばらくナビの通り進むと穴不動が見えてくる。入口を間違えて戻り、不動の中にはいると外から見てそれとわかる小さな墳丘がある。上には何かの石塔があり、石室内には祠のような祭祀施設に使われたようだが、石室内部はよく見えなかった。次に阿波国分寺跡に向かい、さらに徳島市立考古資料館のある阿波史跡公園に向かう途中矢野遺跡の青銅器、銅鐸出土地(何もなかった)や矢野遺跡の標注のある場所に立ち寄り資料館に向かった。
徳島市立考古資料館から文化の森にある県立博物館に向かう。借りた電動チャリは安物らしく馬力も弱く坂道を登る力がない。急坂はやむを得ず押しで進み、20キロ越えるとバッテリーが、切れると言うので平坦地は電源を入れずに走らせる。こうなると電動でない方が軽いのでましだったか?阿波史跡公園から文化の森まではさほどのアップダウンもなく比較的スムースに走れた。11時前に到着し、県博と鳥居龍蔵記念博物館が同じ建物のなかにあり、かつカフェタントも同じ建物内なので博物館の会場の位置を確認しとりあえずタントでモーニングサンドウィッチセットとコーヒーを注文し一息つく。エネルギーを補給してまず二階の鳥居龍蔵博物館で城山貝塚出土土器片を含め展示を見る。ここは、五六年前に、一度見学したことがあるがその時は余り時間の余裕がなく今回は少しじっくり見ることが出来た。博物館の学芸員の方に鳥居が、調査をした城山貝塚の土器の年代などについて質問した。市立考古資料館の城山貝塚と三谷遺跡の縄文晩期末から弥生時代前期の土器が、およそ2,200~2300年前頃のものと出ていたが同じところから出土したものか?
市立考古資料館の学芸員の女性は城山貝塚の実物資料は東大博物館が所蔵しているが三谷貝塚も城山貝塚もこの時期には百年程度しか居住しておらず出土場所もほぼ同じ層から出ており、同時期のものと考えてよいとのこと、鳥居龍蔵記念博物館の学芸員は、城山貝塚に関しては何せ古い時代の調査で今のような精密な記録を録るようなやり方でないので不明点は多いが後代の土師器などは別として縄文晩期末の凸帯文土器が出土しているのは確かで弥生土器と供伴していても不思議はないと言う。市立考古資料館では、縄文晩期の土器を持つ集団と弥生土器を持つ集団がここで一緒に暮らしていたと考えていた。
また城山貝塚に関しては鳥居は報告書を出す予定だったが 関東大震災で、印刷所ごと原稿が燃えて無くなりそれっきりになったらしい。たた、当時のメモのような記録は、展示されていた。
また、鳥居のモンゴル調査のうち慶城の東墓の地下の石室内の壁画などの一部が復元模型で展示され、学芸員に解説していただいた。これがこの博物館の目玉らしい。この遺跡は劣化が激しくその後中国政府が1990年台に調査をしたが壁画の剥落や水の浸水など状況が悪くなる一方で、鳥居の調査記録は貴重らしい。京大も同時期に調査をしたが報告書の刊行が敗戦間際になり、辛うじて残されているようだ。
鳥居龍蔵記念博物館から、県立博物館の展示室に移動し、常設展をまず見学。徳島県の地質、化石、旧石器から古墳時代辺りまで見て一階に降りて企画展の若杉山辰砂採掘遺跡展示を見る。
若杉山は、戦時中には水銀鉱脈探査が行われていたが遺跡の発見は戦後のミカン山開発の際に石器などが発見されてから、辰砂採掘遺跡とわかったようだ。昭和29年に富岡西高校教諭の常松卓三氏が加茂谷村史刊行のための調査により弥生時代末から古墳時代初頭の150年間の間の採掘遺跡と判明した。1969年には早大考古学研究室の市毛勲氏が調査を行い、同時期の採掘遺跡と報告したことから全国的に注目されることとなった。
また1980年代には徳島県博物館(現県立博物館)の発掘調査により辰砂採掘から加工に使ったと考えられる石臼、石杵なども土器や勾玉などと共に出土し、採掘から加工、精錬までの工程も明らかにされた。2015年以降、徳島県教育委員会は、若杉山の国指定史跡を目指し、詳細な確認調査を行い、晴れて国史跡となり、また出土品の一部は国の重要文化財となった。展示解説では、学芸員の植地氏が発掘調査の歴史から、熱の入った解説を行い、中々先に進まず多分一時間では半分までしか行かないかなと思ったら本当にそうなった。その中で出土品の重要文化財指定は審議会で了承されたが実はまだ実現しておらず、官報に載って初めて指定が終了するのになぜかまだ掲載されていないとのこと、展示は今日が最終日で期間中には掲載されると見込んでいたのがまだなので相当やきもきしている様子だった。展示解説ではそのあと若杉山の出土品の解説があり、さらに徳島市や周辺の遺跡から出土する水銀朱関連遺物、縄文時代など若杉山以前の朱の利用など多くの観点から若杉山の理解を深めるための材料を解説された。それにしても若杉山辰砂採掘遺跡は、弥生末から古墳時代初頭の150年前後と言う短い期間で、古墳時代のそれ以降に古墳主体部などで朱の利用が、増大するのになぜ活動が終わったのか?それらの古墳などの朱は、どこで入手したのか?ー大型古墳などでは、中国産水銀朱が使われているらしい。産地同定のための理化学分析は戦後盛んに行われてきた。まだまだ解らないことは多そうだが、採掘から精製加工までわかる遺跡は今のところ若杉山だけなので今後は三重の丹生遺跡などより大規模な水銀鉱山の調査研究が進展することを期待したい。
コメント
この記録に関連する登山ルート
この場所を通る登山ルートは、まだ登録されていません。
ルートを登録する
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する