弥生文化博物館「中国文明展」+藤井寺のフジ+津堂城山古墳スケッチ旅

- GPS
- 32:00
- 距離
- 7.0km
- 登り
- 2m
- 下り
- 14m
過去天気図(気象庁) | 2025年04月の天気図 |
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アクセス |
利用交通機関:
電車
自転車
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写真
感想
とあるサークルで中国北魏など、五胡十六国時代の勉強を始め、拓跋鮮卑と北魏、漢族と北方諸民族との血と文化の融合過程を調べ始めた。ここ数十年の中国各地で激増した出土資料の中で多くの漢墓や北魏の墓から出土した墓誌や陶俑の研究を調べてきたが、やはりそれ以前の中国文明の歩みを知るべく、弥生文化博物館にやって来た。今回の展示は同博物館が所蔵する後漢までの土器や鏡、青銅器等結構多くの考古遺物を持っていたものと感心する。土器では七千年前、紀元前五千年頃の仰しょう(ヤンシャオ)文化の彩文土器(彩陶)などがあり、七千年前というと縄文時代早期末または前期初頭に当たる。また龍山文化の黒陶高脚杯は脚部が異様に高く特別な時の器か?紀元前3000年というと縄文時代中期の中頃に当たる。表面を磨いて黒光りしているようだが照明の関係で文様などよく見えないのは残念。また、入口付近には戦国時代の蟠螭文(ばんちもん)という文様を施した青銅器壺がガラスケースに入っている。角や足の欠けた若い龍が複雑に絡み合う精緻な文様に感心する。
中国先史古代の土器に関しては縄文土器とは異なるユーラシア(西アジアやインドなど)の彩文土器と似ているがヤンシャオ文化において高度に発達した。かつては西アジアから伝播したと考えられたが、現在では独自に生まれたとする説が有力らしい。土器ではそれほど驚かないが何と言っても青銅器の発達は目を見張るものがある。中国では龍山文化のあと紀元前二千年期、日本では縄文時代後期にあたる時期に中原に二里頭文化(司馬遷史記の夏王朝か?)から青銅器時代に入る。今回の展示では、残念ながら二里頭文化などの古い青銅器の展示はないが、最も古いもので、殷王朝時代の「とうてつ文(難しい漢字=中国神話の財と食を貪る妖怪)」の杯のような青銅器だけだ。戦国時代の蟠螭文の杯は、先に述べたが、大半は戦国時代の酒にまつわる器が多い。殷王朝時代は酒にまつわる祭祀が発達したらしい。お酒を暖めて神様に捧げたのだろうか?展示品は漢代のものが多い。
中国の青銅器に関しては新石器時代には、あまり大きな戦争はなかったようだが、殷王朝時代になると剣や鉾、戈などの青銅器製武器が登場する。日本列島では、縄文時代晩期から弥生時代早期〜前期辺りになる。戈は日本では馴染みがないが戦国時代前後、戦車の登場、馬の登場で、敵の首に引っかけて切付ける武器だ。戦国時代になると柄がより長くなり馬上での戦いが起こっていたらしい。強力なボーガンのような弩も戦国時代に現れ、鉄の鎧の登場でそれをも貫く強力な武器となったようだ。日本でもまれに出土するが使われなかったようだ。
さらに貨幣は殷代に貝殻が用いられ貝貨、貝幣などと呼ばれるが、春秋戦国時代になると青銅製の貨幣が登場、各地で独自の貨幣が作られた。鋤に似た布銭、刀の形の刀銭、貝貨の形を継承する蟻鼻銭など様々だ。度量衡を含めそうした地域バラバラを統一したのが秦の始皇帝だ。それに比べると列島では奈良時代に初めて貨銭が作られるが都など大都市以外はあまり普及せず、江戸時代半ばまで稲束が貨幣代わりの役割を果たしたという。役人や武士の給料もお米だった。
秦の始皇帝を継承した漢帝国も前漢が新に変わる時期は社会全体が不安定になり、民衆の間で神仙思想などの新興宗教が流行した。こうした世相を反映するのが漢の鏡だ。戦国時代の「山海経」で初めて登場した「西王母」は、半人半獣の恐ろしい妖怪だが、前漢末頃から仙人同様の不老不死の象徴となった。より恐ろしいものから人を守ってくれるのだ。四神の玄武、朱雀の配置される南北方向の位置に東王父も新たに登場、陰陽五行説による四神や日月などが鏡に配置された。また、魔除けや現世利益を願い、様々な銘文が、加えられた。こうした漢鏡は、弥生時代の日本にもたらされ、魔除けのような祭祀に用いられた。
中国春秋戦国時代に、当時残っていた殉葬の代わりとして人をかたどった俑などを副葬するようになった。殷、周時代から春秋戦国時代まで、華やかな青銅器や陶器の副葬が続いたが、漢代に入り、次第に華美な副葬を廃し、薄葬の方向に進んだ。墓誌と壁画、俑などが漢墓を特徴付け、その後も北魏以降継承されたようだ。
大阪弥生文化博物館から信太山駅に戻り天王寺駅で近鉄に乗り換え藤井寺駅に向かう。まだ六時すぎ、駅周辺にはカフェやレストラン、飲み屋などがそこそこあるが、王将は休み、すき家は明日朝の予定。しばらくゲストハウスの方向に歩くと、AEONショッピングモールがあり、その中にフードコートがあり、豚カツ屋や弁当屋などあり、弁当屋に入って春定食を頼む。筍菜の花天麩羅やかやくご飯、冷たいうどんなどがあり、疲れたので生ビールを流し込む。先週は疲れのせいか?イビキがひどかったらしいので疲れをいやそうとパフェも注文、思いの外プチ贅沢となる。送られてきたゲストハウスのデジタル合鍵で部屋に入りテレビはないのでNHK+でブラタモリを見てから、風呂に入りしばらく日記をつけて眠りについた。
朝5時過ぎに置きだし、二階の共有スペースで日記を書き始める。7時前、朝食とチャリ確保のため、駅方面に向かい、とりあえず数寄屋で卵かけ朝定食を注文、反対側の南口のシェアサイクルを予約する。昨日は一台も空きがなかったが数台戻ってきている。帰りの返却も可能らしい。食事を終え、一旦ゲストハウスに戻り、8時まで日記の続きーーするとゲストハウスのオーナーが現れ、今回はどこに行くのか尋ねるので、予定を話すと藤井寺に行ったことはあるかと尋ねられ、あるというといつのシーズンかと尋ねられ、藤井寺のフジが今見頃というので津堂城山古墳に行く前に立ちよった。10分足らずで到着し、早速撮影、多くの市民がカメラを向けていた。ムラサキと白いフジもあり、光輝いていた。グルッと散策しながら撮影し、最後に野帳に簡単なスケッチ。花や枝振りなど観察し、ゲストハウスで荷物を受け取り、津堂城山古墳に向かった。
藤井寺を後にして津堂城山古墳に向かった。墳丘の下にある神社前に出て、まだガイダンス施設が開いていないので墳丘に登って見る。主体部らしき高まりは境内の中なので何枚か違う角度で撮影し、ガイダンス施設に向かう。中は大きな衝立埴輪を中心に出土土器や須恵器などが展示されている。津堂城山古墳は、墳長210m、二重周溝を持つ巨大古墳だ。
長持形石棺の複製も置かれている。他に水鳥形埴輪三点が、国の重要文化財に指定されている。古市古墳群の中では最初の王陵級古墳で被葬者には諸説あるが、大王陵ご大和から河内に移動する最初の先鞭を切る重要な古墳であることは間違いなさそう。過去二回くらいは来ているがなぜかガイダンス施設の記憶が抜けている。展示品が少ないせいか?あまり重要なものは置けないだろうしー
終盤の菜の花咲く城山古墳を後にして藤井寺駅に向かい、チャリを返却して大阪歴史博物館に向かった。
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