記録ID: 994779
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ハイキング
槍・穂高・乗鞍
上高地
2010年05月03日(月) [日帰り]



- GPS
- --:--
- 距離
- 4.5km
- 登り
- 21m
- 下り
- 7m
コースタイム
今思えばこの日を境に写真のために山を登るというより登山が目的になった日だった。穂高の峰が心に深く残った1日でした。
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2010年05月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
バス
|
写真
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訪問者数:86人
松本城を見学した後、街中の食事処が一杯だったので、車のナビに宿泊先の電話番号を入力し、向かう途中で昼食を摂る事にしたのだ。ナビの指示では方角が上高地方面だった。松本城から五十分ほど走った所に道の駅(風穴の里)があって、ようやく昼食を摂れた。 信州牛の肉蕎麦を注文して、ようやくありつけた時に友人0君が言った。
「せっかくここまできたのだから上高地まで行きませんか? ここだと後1時間くらいでいけますよ」
上高地は一度は行ってみたい場所だった。友人の言葉とその日に泊まる旅館が上高地方面ならば尚更その気持ちは強くなった。早速、旅館にチェックインを遅らせようと連絡したのだ。ところが、電話が通じない。実はナビに入力した番号の一つだけ入力間違いをしていた。不思議な事に何故か分からないがナビの指示がその一番違いで上高地方面へと導いていたのだ。自宅へ連絡して正確な連絡先を確認してナビに入力したら、全く別方向だった。 松本市内より西南の山形村の小高い場所にある旅館で三十キロ以上あった。上高地へ行くとすると夕食時間までも間に合わなくなる。今回は縁がなかったのだと思い、後ろ髪を引かれる思いの中、Uターンして宿泊先へ向かった。
休日のETC利用車を対象に高速道路料金を上限千円に割引する制度が、この年の六月までの二年二ヵ月の期間、大都市区間を除く高速道路で実施されていた。割引を活用して近場へはあちこち行っていたが、本格的な遠出はこれが初めてだった。候補地は四月二十八日に0君と呑んだ席で割引適用中にどこへいくかと話し会い、二つ候補地をあげ一つは山梨(富士山をみにいく)それから長野上田方面から松本城見学だった。これが後々に予想外の展開となったのだ。
決定事項のない旅に、愛機のカメラ二台とレンズ六本を持ち、五月二日の夜中二時半に自宅を出発した。二人とも睡眠を取ってからいこうという予定だったが共に一睡もできなかった。
ナビを松本城へセット。片道五百キロの旅だ。東北道から磐越道へ抜け、トンネルをくぐると私の大好きな磐梯山がみえてきた。朝日が出てきて、会津を抜ける頃に日の出が磐梯山の山頂を照らしていた。
新潟平野に入り北陸自動車道へのジャンクションを抜けて富山方面へ向かうと、空は快晴になってきた。米山サービスエリアからみる日本海は去年の暮れに仕事で訪れた時の荒れ狂った海とは全く違って静寂でキラキラしていた。仕事の事ばかりを考えるの毎日だった。光に揺れる日本海を見た時に、仕事を忘れようと時計をはずし、更に電話の電源も切った。足早に長野自動車動へ向かう途中の米山の景色は霞んだ春の空が輝いて幻想的でもあった。
上信越自動車道へ入っていよいよ長野へ。目の前にそびえ立つのは右から火打山それから名山、妙高山と左奥が黒姫山。その奥にも朝日岳とか乗鞍岳も複合してみえてるのかもしれない。この山脈の裏側あたりが飛騨山脈になるのだ。雄大に聳える山の景色は心の休息には最高だった。妙高サービスエリアで妙高山の写真を撮る為に休憩した。天辺もハッキリとみえてファインダー越しの山頂はまだ厚い雪を冠って美しかった。野尻湖にも寄りたかったが時間はないので通過し、長野に入った。いよいよ松本まで六十キロとなったが道中のサービスエリアはどこも満車で昼食は松本に入ってから摂る事にした。
松本市内は初夏のような陽気でじんわりと汗が出てくるほどだった。初めて見る松本城にどれほど感動を覚えるのかなと思ってたけど、長野迄来たことの方が楽しくて構図を探しに場内を歩いて写真を撮った。見学を終えると、付近の街を歩いて食事処をさがしたのだがどこも一杯。だから宿泊先の番号をナビに入れてそこに向かうまでの間で食べる事にしたのだ。
宿泊先のホテルは松本市街が一望でき星空も見え、温泉の後の夕食も美味しく語り合った。彼とは中学からの付き合いで共に趣味も共通。一時は一緒に東京で生活をした事もあった。二人で泊まるのはロックレコードを買い付けに都内に行ってた頃以来だった。0君と酒を飲むとお互い疲れていたのか寝るのは早かった。
朝目を覚ますと空は一面真っ青窓から見える街もよかったが、片隅に見える雪渓の山がまた美しかった。どうやらそれが上高地方面だと気付いた。朝食の間、頭の中は昨日の上高地の事ばかりだった。しかも天気が雲、風ひとつない朝だった事も拍車をかけた。
俺は行く事に決めた。
「0君、すまん、予定変えて悪いが上高地行こう! 後で後悔したくないんだ」
0君は勿論ですと言わんばかりで大賛成。お陰で気持ちもすっきり晴れ渡った。仕事の都合上、その日の夜には帰宅予定だったがその判断は正解だった。
朝食を慌てて取り、早めのチェックアウトで昨日のルートを再度走りバスが出る沢渡駐車場へ向かった。沢渡駐車場へ車を止めて、シャトルバスに乗る。 白なぎトンネルから坂巻温泉と渓谷沿いを高山方面へ向かい、上高地へ続く釜トンネルを走り抜けると空の色が変わって見えてきた。
大正池ホテル前のバス停で降りて眺めた景色は思い描いていたイメージを遥かに超えた。0君が一度歩いた事のある周遊コースをトレッキングする事にした。大正池に出ると次々にバスが観光客が増え始めた。この時は雲もなく風もなく、一瞬の間、この時期の特有の「逆さ穂高」を見る事ができた。息を呑む瞬間というのはこうゆう事かと感じた。澄み渡る大正池の水面に冠雪の穂高の稜線が写り込んでどこまでも深い青の水と淡い緑の木々のコントラストは絵画を見ているようでもあった。
水が引いた川床をギリギリまで歩いて大正池越しに焼岳を撮影していた時、ある男性に目が止まった。遺影を持ってなにやら独り言を話しているようだった。意識が彼に集中した。読唇力はないのだけれど言葉として伝わってきた。
「あなたが一度は来たいと言っていたこれが上高地だよ。空が本当に綺麗だね。連れてくるのが遅くなってごめんね」
その後も何かつぶやいていたようだった。 私は「空が本当に綺麗だね」という言葉に感情を持って行かれた。この世にいないに愛する人との接続詞のようで、じんわり瞳が濡れて、私の心を浄化させていった。
大正池の川辺林を眺めて川床を濡れないように歩いていると、なんだか三途の川を渡っているよう思えたのだ。林間コースを歩いて散策ルートを一枚一枚写真に収める。田代橋麓でもう一度、焼岳を眺める。見渡すと河畔林には北海道と長野でしか見れないケショウヤナギが並ぶ。エメラルドグリーンの梓川の水にどうしても触れたくなって、川辺に降りてみた。梓川に沿って薫る風が吹き、川面を渡り行くケショウヤナギの穂は陽光を抱いて、淡く黄色く花盛る。美しい水の色に心も癒されて過ぎ行く時間が止まってすら見えた。
田代橋から歩き、霞沢岳と六百山を望む梓川のほとりにある、ウォルター・ウェストンの石碑を見た後に昼食をとるのに西糸屋山荘に寄った。悩む事なくカツカレーを注文して戴いた。山荘は混んでいたが注文後もそれほど待つ事もなく、食べ終えてから休憩をせずにすぐに店を出た。時間がなかった。五尺ロッジ付近で三脚を立て穂高の稜線を撮る事にした。カメラのレンズをズームに変え、ファインダーを覗いた。レンズ越しに見える峰の雪の深さは一体どれほどの深さなのだろう。あの場所から見る空はいったいどんなだろう? と考えながらシャッターを切る時に、ふと言葉が漏れた。
「登ってみたいな。。」?
何考えてるんだ? 俺は高所恐怖症で高い所は行きたいと思わない。まして登山をしたいとすら思った事など一度もなかった。 どうかしてると首を振って深呼吸し、再びレンズを覗いて穂高の頂上にシャッターを切った瞬間、見た事もない一枚の繪が映った。
自分が穂高なのかはわからないのだけど、山頂に自分が立っている。そしてその向こう峰を眺めている。そこにはとんがり山頂があって背後に日が差している。そしてその麓には沢山の人達が手を振っているという繪だ。一瞬の間だった。その繪を観た事で、さらに山への想いが増幅してきた。我に還り、カメラを収めた。その後は人で賑わう河童橋へ向かった。
梓川のエメラルドと、穂高の白と、空の青を心のキャンバスに描く。
橋を渡った時に、ふと中学時代に読んだ芥川龍之介の小説『河童』を思い出した。河童の国の滞在記をひとりの精神病患者の口をかりて綴った架空の物語だった。思い出したのは情景からか、後から調べたらやはり小説の河童の国の舞台は、上高地から槍ヶ岳、穂高岳に至る梓川周辺でそのまま忠実に描写されているらしかった。芥川もこの地を愛したのだ。
記憶に残るくらい眺めた。どれほどの時間その場所にいたのかわからないくらい。反対側を歩いて先ほど昼食を摂った、西糸屋山荘方面を眺めながらバスターミナルへ向かう。帰りの十四時過ぎのバスに乗り、釜トンネルに入る前に、もう一度振り返った。悠々と聳える穂高を確かにこの目に焼き付けたかった。
「登ってみたいな」と思ったのは何故だろう。そしてあの瞬きで見えた一枚の繪は何だったのか。バスの中で考えた。この地にまた訪れる時はカメラではなくリュックを背負って立っているかもしれないと。
あの穂高の稜線に登る姿を思い描いてみた。何故かはよくわからない。登山で制覇したいという思いではなく、あの場所に行けば何か(答え)を見つけられるのではないかという想いだったと思う。あの時の一枚の繪の意味を知りたかった。
あの日、ナビに入力違いがなければ、上高地を訪れる事は無かっただろう。そして、もしかしたら、その後に起きる東日本大震災で生き残る事も無かったかもしれない。 会社からの命令で嫌だと思っていた研修に行く事もなかっただろう。故に自己の存在価値に気づかないまま被害者意識が占めた人生を歩いていたかもしれない。感謝力の欠乏を埋める為に……
あの日、確かに私は山に呼ばれたのだ
二0一一年五月三日 上高地にて
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