割谷遺跡・青山城址・仙元山・小川町カタクリの里
- GPS
- 02:19
- 距離
- 6.2km
- 登り
- 263m
- 下り
- 263m
コースタイム
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2021年03月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス タクシー
|
写真
感想
午後から新宿デ診察がある日だが春が余りに早く通過しようとしているので始発電車で小川町に向け出発、途中新宿駅で山手線がトラブルで十五分遅れで少し動揺したが池袋発東武東上線急行に飛び乗って一安心、予定より少し遅れて7時過ぎに小川町駅に到着、
トイレにも寄らずすぐにタクシーに乗り込む。割谷遺跡は2014年に国指定史跡になったのだが運転手は知らなかった。下里に向けタクシーで遺跡近くで下車して歩き始める。すぐ先で法面崩落で立ち入り禁止になっていたが通行可能の表示もありそちらを信じてガードを越えて進むとすぐ山道となる。少し進むと遺跡の看板が見え、けっこうその奥に採掘遺跡の一つが見えた。
割谷遺跡(小川町のHPより)
「鎌倉時代から戦国時代の板碑製作遺跡です。13世紀頃から関東では仏教信仰の高まりを受け、寺院建立に加え緑泥石片岩製の石塔である「板碑」の造立が盛んになりました。小川町は板碑石材の有力な産出地と考えられており、平成13年に下里地内で加工石材が採集されたことを契機に、小川町教育委員会が調査を開始したところ、採掘の可能性がある地点が、割谷(わりや)地区、西坂下前A地区、内寒沢(うちかんざわ)地区など19箇所確認されました。
割谷地区では、緑泥石片岩の露頭や、大小のズリによって形成された幅50m、奥行き45m程の平場がみられます。発掘調査では、矢穴痕が残る岩塊や板碑形のケガキ線や溝状の彫り込みの残る石材、平ノミによる削り痕がある石材等が確認され、採掘から板碑形へ加工するまでの工程が明らかになりました。また、出土した未成品の大きさや加工技術を町内外にある板碑と比較検討した結果、割谷地区における採掘の最盛期が関東で最も多く板碑が造られたとされる14世紀中頃〜15世紀後半であることが判明しました。遺跡の規模や採掘の可能性がある地区が多数確認されることから、小川町内で生産された板碑の量は膨大で、武蔵国における板碑の中心的な生産地であったと考えられます。板碑の生産と流通だけでなく、板碑に象徴される中世の精神文化を知る上でも重要な遺跡です。」
また文化庁の文化財オンラインによれば、
「指定年月日:20141006
管理団体名:小川町(平28・5・24)
史跡名勝天然記念物
外秩父山地の北東裾小川盆地に所在する鎌倉時代から戦国時代の板碑(いたび)製作(せいさく)遺跡(いせき)。13世紀頃から関東では仏教信仰の高まりを受け,寺院建立に加え緑(りょく)泥(でい)石(せき)片岩製(へんがんせい)の石塔(せきとう)である「板碑(いたび)」の造立が盛んになる。小川町は板碑石材の有力な産出地と考えられており,平成13年に同町下里で加工石材が採集されたことを契機に,小川町教育委員会が調査を開始したところ,採掘の可能性がある地点が,割(わり)谷(や)地区,西坂(にしさか)下前(したまえ)A地区,内寒沢(うちかんざわ)地区など19箇所確認された。
割(わり)谷(や)地区では,緑泥石片岩の露頭(ろとう)や,大小のズリによって形成された幅50m,奥行き45m程の平場が認められる。発掘調査では,矢(や)穴(あな)痕(あと)が残る岩塊や板碑形のケガキ線や溝状の掘り込みの残る石材,平(ひら)鑿(のみ)による削り痕が残る石材等が確認され,採掘から板碑形へ加工するまでの工程が明らかになった。また,出土した未成品の大きさや加工技術を町内外にある板碑と比較検討した結果,割谷地区における採掘の最盛期が関東で最も多く板碑が造られたとされる14世紀中頃から15世紀後半であることが判明した。
遺跡の規模や採掘の可能性がある地区が多数確認されることから,小川町内で生産された板碑の量は膨大で,武蔵国における板碑の中心的な生産地であったと考えられる。板碑の生産と流通だけでなく,板碑に象徴される中世の精神文化を知る上でも重要である。」、とある。
撮影しながら辺りを見渡すと緑泥片岩の欠片がたくさん落ちている。その先にも道が続いているが遺跡保存のため通行止めになっている。これから行く青山割谷城址に通じている可能性もあったが_地図によればー諦めて一旦下りハイキングコースに出る。当初逆方向に戻ったが、ヤマレコの地図で確認し、すぐ戻って進むーといっても山と高原地図やヤマレコのコースにも出ていないがハイカーが歩いた記録が残っているので進むとすぐ簡易な道標があり、再び山道に入る。最初はやや急な登りだが、やがて緩やかになり、地図の旧道に合流するあたりは尾根の分岐点になる。この分岐の尾根道が先の遺跡の上に続いていた旧道と思われるが、やはり藪になっており、遺跡が整備されて上まで歩けるようになればおそらくこの道も遺跡に直接出られるようになるかもしれない。
その先、5分くらいで稜線に出る。右は仙元山、左は青山城址方面で左に進む。しばらくすると、城址入り口分岐があり、城址のほうに上り始めると、最初に堀切跡に出る。さらに上るともう一つの堀切があり、その先に本郭があった。そこは小びろくなっており、往時が偲ばれる。
青山(割谷)城は、
「青山城は平安末期に藤原氏末裔を称する青木氏宗が築城したと伝えられますが詳細は不明です。「関八州古戦録」の記述によると、戦国時代には腰越城とともに杉山城の支城としての機能を果たしていたようです。現在城址には堀切や土塁などのほか、本丸から二の丸側の虎口にはこの地域で産出する緑泥石片岩を用いた石積が残されています。」
、とあり、昨日「最強の城」に出ていた杉山城と関連する山城らしい。先端まで行ってみると崖になっており、、小川町の市街地の一部が望める。
8時過ぎ、先の分岐まで戻り、次の仙元山に向かう。稜線はなだらかな道が続き、ヤマツツジがもう咲いていた。8時半前に仙元山に到着し、8時54分頃、下里の大モミジを通過、このあたりは分岐が多く、どの道を歩くべきか、悩ましい。
昨日、初めてヤマレコの登山計画を書いて地図をダウンロードしたので、分岐のどちらに進むべきか、わかりやすく助かった。
すぐ先に見晴らしの丘と下里八宮神社の分岐があり、八宮神社方面に下る。計画ではよくわからず、見晴らしの丘から西光寺方面を予定していたが、早めにカタクリの里に出るほうが良いとこちらに進む。15分くらいでふもとまで下り、八宮神社前を通り、9時24分ころカタクリの里入り口に出た。
ニリンソウがたくさん咲いていたが、カタクリはさすがに終わりかけていた。1週間前くらいがピークだったらしい。まだ元気そうなカタクリを探して何とか撮影していると、カタクリ園に来ていた女性3人組が現れ、少し話をして別れた。カタクリやニリンソウ、ヤマエンゴサクや桜などを撮影しながらいったん西光寺方面に出て、道の駅に出る。10時10分くらい前。伝統工芸会館はなぜか今日は閉館、やむなく道の駅で大きなシイタケを購入し、バスを待つ。しばらくしてバスが来て、西新宿の病院に向かった。
コメント
この記録に関連する登山ルート
この場所を通る登山ルートは、まだ登録されていません。
ルートを登録する
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する