【過去の記録】 風雲竹田城 天空の城にあこがれて


- GPS
- --:--
- 距離
- 0.9km
- 登り
- 40m
- 下り
- 21m
コースタイム
14:29 竹田城址
14:39 天守閣跡
その後下城 時間不明
天候 | 雨のち曇り 時々雷 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2012年07月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
現在は登城者多数によりお金を取るようになったとかならなかったとか・・・。 現在については私はわかりません。 |
コース状況/ 危険箇所等 |
基本的には歩きやすいし、登山でも何でもない。 ただし、この城登りをヤマレコに書いている人もいるので一つの記録として書いておく。 もちろん、登山靴なんていらないしストックなんて持っていたら「足にけがなどを抱えている人?」扱いをされる。 みんな、普段着、靴、サンダル、ミュール、ハイヒール・・・何でもアリだ。 |
写真
感想
私が、日本百名城登城に挑戦していた時の記録です。この旅は、職場の夏休みを活用して行ったたびですが、本当に日本百名城登城にけりをつける旅でした。
この日は、朝一から小谷城、福知山城(日本百名城ではない)、竹田城、鳥取城と回った一日であった。その後、月山富田城、津和野城、吉田郡山城、備中松山城、鬼ノ城、玉藻城、大洲城、府内城、飫肥城、鶴丸城、大野城、門司城(日本百名城ではない)、丹波篠山城と行き。日本百名城登城は完遂した。
当時のmixiには次のような記録が残っていた
引用
午後2時ごろ、竹田城に着く。天空の城と言われ、よく旅行番組などで取り上げられる。
登城時、ちょうど夕立で雷注意報も出ていた、傘をさしながら、雷に驚きながら登り続けると、そこにはテレビで見たような天空の城があった。竹田の街を見下ろす、毎日登城する武士も大変だったろうなあと思う。
丹波と播磨の境目の要衝の地として戦略上重要であったのであろう。築城は山名宗全とされている、1400年代に作られた城です。堀の技術などが未熟な時代の城は山上に作られることが多く、逆に政庁としての機能を持つような近代の城は平地に濠をめぐらせて作られることが多かった。
雷が怖くてできるだけ早めに降りてくる。
引用終わり
1400年代に作られた城である。虎が伏しているように見えることから虎臥城(とらふせじょう、こがじょう)と呼ばれている。この城が歴史の中で大きく取りざたされるのは1500年代後半からである。織田軍と仲が悪くなった毛利軍を攻めようとした羽柴秀吉は、姫路城から本体を出し、羽柴秀長軍を但馬に送った。
当時この地は、太田垣氏が守っていた。山名宗全が築城した際に、腹心の部下であると太田垣氏を配置したのである。その後太田垣氏は離反し、一時信長に帰順した。しかし、信長が将軍義昭を追放したことから、毛利家の吉川元春らの調略により毛利家に付き織田家に対抗しだしたところである。
かくして、1577年に起きた竹田城の戦いでは、太田垣氏は山上から石や岩を落としながら城を守ろうとするが、織田の鉄砲300丁が現れると遂にかなわず降参した。
しかし、1578年に秀長が丹波攻めのため竹田城を後にしたところ、再び太田垣氏が入場した。1580年に再び竹田城攻めが行われ太田垣氏は滅亡した。今回は英世日は部下を各城に配置し支配体制を強めていった。
最後の城主である赤松広秀は羽柴氏や徳川氏の援助を受け竹田城の大改修を行った。しかし、関ヶ原の戦いでは西軍に付き、鳥取城攻めを行ったため、家康の命令で切腹。竹田城は徳川幕府の方針により廃城となった。廃城から400年以上たっているが、遺構は崩れることもなく保存状態も良い。現存する山城としては日本の中で最大規模を誇っている。
壮大な歴史の息吹を感じながら、草原に寝転んで本を読むのもよし。平和のありがたさを感じながら弁当を食べるのもよし。ただただ風景を眺めるのもよし。(晴れだったら)
今回は雨模様、雷模様なのでまるで大河ドラマのオープニングのような雰囲気であった。そそくさと登り、そそくさと帰ってきたのがちょっと残念であった。
しかし、この城は結構さまざまなドラマや番組などで見ることも多い、その度に「ここには行ったことがあるぞ」とほほ笑むことができるのはいいことだ。
純粋に山行であるかどうかというとわからない、ヤマレコに書くことかどうかというのもわからない。しかし、楽しい時間であったことは間違いない。
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