日本海海岸線・滑川〜富山・射水
- GPS
- 24:00
- 距離
- 37.3km
- 登り
- 5m
- 下り
- 12m
過去天気図(気象庁) | 2008年05月の天気図 |
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アクセス |
写真
感想
5月6日(代)4日目
海岸線行脚4日目。前夜は魚津の蜃気楼ロードの小公園で仮眠。4時頃目覚めて簡単に朝食を済ませ、道の駅・ウエーブパーク滑川に移動する。
青森を振り出しにワンボックスカーで旅行をしていると言う初老の夫婦が朝の支度をしている隣に車をとめる。室内はベッドを置いた生活空間で、後部には炊事道具一式をキチンと収納できる棚が設けられ、ペットの犬と猫がゲージに入れられていた。几帳面な夫婦の微笑ましい旅のスタイルにちょっと共感。
最終日なので小型のアタックザックに雨具と食料・飲料,医療バッグだけの軽装で6:20発。5kgにも満たない重さなので走れるほどだ。
道の駅を海側に突き抜けるとすぐに海岸で、その辺りを和田の浜と言う。道の外側は護岸壁で、反対側にはビッシリと家が並んでいて、その多くは漁業関係の業者らしく、おりしもホタルイカを茹でる作業の最中でどこまで歩いてもその匂いがついてくると言う感じだった。まさにホタルイカの季節である。
早朝からの釣りで大きなチヌとメバルを上げた人がいたので写真を撮らせてもらっていると、別の人が『俺のも写してくれ』とわざわざ魚篭から出して広げて見せ、ルアーで釣ったと自慢そうに言った。
本来なら停滞の日を設けて1日中釣りをして過したいところで、それが本当にやりたい旅なのだが、今回はそのような用意をしていないので情報収集のみ。自分が釣る時は気持ちが逸って他の人の釣りが目に入らないことが多いが、その点今回は見るだけなので参考になることが多いと言う利点もある。
道の海側には高い護岸壁があり、その壁には壁画が描かれ、反対側には立派な生垣があったが、どこまで歩いても高い護岸壁に遮られて海が見えないので、階段を見つけて壁の上に登り、幅20cmほどの細い壁の上を歩く。
壁の外側は20mくらい先まで厚い波消しブロックに覆われており、さらにその30mほど沖合いにもブロックが積み上げられていて、その間のプール状なった海で釣りをしている人が見えた。
しかし壁のすぐ外側のブロックには部分的には草に覆われたり木が生えている所もあってブロックの上を人が行き来している形跡はなかったし、壁のすぐ下には大量のゴミが固まっていたりして、海と内陸が1枚の高い護岸壁で隔絶され、内側は外側にまるで無関心であるかのような印象を受けた。
さらに進んで壁の内側の道路がなくなると護岸壁は家々の敷地と海を隔てる仕切りとなり、なおもその壁の上を歩くと嫌でも民家の裏庭を見ながら歩くことになる。荒れ果てた建物は高波などの自然の猛威によるものか、あるいは不況によるものか・・,人々の生活の裏側を覗き見るような心苦しさを覚えながらも廃墟のような建物の多さに目が吸い寄せられる。
ノンストップで1時間歩いて7:30,上市川に到達。魚躬橋を渡って再び海岸線に戻り、なおも護岸壁の上を進んで程なく富山市に入る。
壁のすぐ内側のわずかな空き地にも野菜が植えられていたり、狭い地域に不釣合いなほど大きな神社があったりするのを見下ろしながら歩き続けるとやがて水橋と言う町で白岩川と言う川に突き当たってそこで護岸堤が終わる。
川に沿って上流に向かうために左折すると、そこに『艀場』と書かれた常夜灯があり、側に艀場なるものの説明板があった。
水橋港・艀場跡 説明板
『水橋は藩政時代,藩倉や給人倉があり、船便によって上流から米が運ばれました。当時、水橋川の河口は水橋湊として重要な海運港でした。水橋川とは、常願寺川と白岩川が上流で合流していた頃、河口付近で言われていた名称です。
江戸後期から大正の初めまで北前船、明治末から昭和10年頃にかけては汽船で、主に北海道との往来が著しく、米穀や縄筵などの移出や魚粕肥料,石材,木材などの移入で港町は賑わっていました。
河口の水深が浅いため、大船の進入は困難で、この場所から沖に停泊している北前船や汽船までの荷物の運搬には艀が利用されました。
艀は木造船で、3〜4人の人力で櫓を漕ぎ、艀場での荷扱いは若衆やおかか達で組織された仲仕組が仕切っていました。
昭和63年、艀の発着場として賑わっていた跡地に県のご好意で常夜灯を建立し、先人の業績を偲び、伝承することとしました』
常夜灯の先から左手に1本の支流が運河のように伸びており、それを越えるためにその運河にかかる橋まで遡ってその橋を渡り、白岩川まで戻って上流に向かう。かつて水橋川とも呼ばれた川は今も重要な交通路のようで、次々と上流に向かう船が見られた。
白岩川にかかる『浦の橋』を渡って下流に向かい、水橋漁港の側を通って再び海岸線に出る。
沖合いに常願寺川から流れ込む前夜の雨水と思われる白く濁った部分が一筋の線となって見えている。
旅を終えてすでに1ヵ月半が過ぎ、モタモタしているうちに記憶が怪しくなってきた。こう言う時にデジカメの写真はメモ以上の記録力があって頼りになる。
だがたとえそれがなくても忘れられない光景と言うものはある。極言すればそう言う強いインパクトを脳に刻み込むことができればそれだけで充分であり、その他のことはどうでもいい瑣末なことに過ぎないと言ってもいいくらいだ。
常願寺川の土手を埋めつくしたハマダイコンの花の特大群落は今もはっきりと思い浮かべることができる,その忘れられない光景の1つだった。
8:20,常願寺川の土手に到達。水橋から堤防道路を歩いて20分,道の駅・滑川からは2時間で6.5km。体調が回復したのと荷物が軽いのとでここまでほどよいペースで来ている。
河口を見ると常願寺川の泥水が沖にまで達して海の色とは違う層を成しているのがよくわかり、上市川辺りの沖合いに見えていた白く濁った帯の正体を確かめることができた。
河口から200mほど遡って県道1号線の今川橋を渡る。橋から上流の堤防もびっしりとハマダイコンの白い花に埋めつくされていた。
今川橋を渡るとそこから富山港に至るまでの長い長い松林にそって走る自転車道路が始まる。8:40に浜黒崎と言う名の海水浴・キャンプ場で最初の休憩をとる。 当初,目的地とした古志の松原はわずか2km先であり旅は大詰めを迎えた・・,筈であった。
クロマツの林と砂浜が美しい浜黒崎海岸は海水浴場としてキャンプ場として市民の憩いの場となっていると思われた。
だが、進行方向に従って東側から入って最初に炊事棟を覗いて唖然とした。そこは、宮崎海岸からここまであまたあるキャンプ場の中でこれほど汚くて不衛生なキャンプ場はないと言うほど酷かった。
どう言う神経でこんな使い方が出来るのだろう〜と思うが、1つのグループだけがこんな使い方をしたのではないのかもしれないとも思う。多分,はじめは小さなゴミの取り残しがあってそれが次第に溜まって汚れが酷くなると、それを全面的に掃除しようとする人が出ない限りどんどん溜まって行き、一旦ゴミ溜めと化すと止めどもなく酷くなって行くのだろうと・・。
ところが炊事棟はもう1つあり、そこには一心不乱に清掃している人がいてそこはこれ以上ないというほどきれいにされていた。声をかけて『向こうは酷いことになってますネ』と言うと『すみません 一生懸命やってるんだけど相棒が休んじゃって間に合わなくて・・』と、あたかも自分の責任であるかのように謝られてしまったので恐縮して少しだけ手伝い、写真を撮らせてもらった。
白砂青松の海岸とキャンプ場を仕事とは言え美しく保とうと言う人と、汚して省みない利用者との落差をどう埋めていけばいいのだろう・・。
あまり書きたいことではないが、このキャンプ場は『いらっしゃいませ』の歓迎の横断幕の横にどぎつい色で使用規定を大書したものものしい看板があり、禁止事項が高飛車な調子で並べられていた。多分,様々な問題に手を焼いているのだろうと思われるがキャンプ場の雰囲気にはそぐわない気がする。松林も白浜も海もみな美しいのに・・。
8:20に浜黒崎海岸に着き、キャンプ場を見たり清掃員の方と話したりして8:45に出発。クロマツの中のサイクルロードを歩いたり、時には林と浜の間の護岸堤の道を歩いたりして丁度1時間,諏訪川,琵琶川と言う2つの小川を越えて古志5丁目の町名表示板に到達。
古志の名はあるものの、今川橋から2.2km地点のこの辺りが『古志の松原』なのかどうか、それらしい目だった標識がなくて分からずそのまま日方江と言う地区に入る。
背後から照りつける太陽が暑い。10:05,村川と言う名の3つ目の小川を越えた先にあずまや風の休憩所を見つけて日陰に逃げ込む。
浜では腕にタトゥを入れた5〜6人の若者達が声高に騒いでいて、彼らのものと思われるバーベキューの用具や食材がテーブルを占領していたが、構わず椅子にかけて休む,と言うより暑さ疲れに放心して40分もの間ぼんやりと過ごす。
10:45,戻って来た若者達と入れ替わって発ち、10分歩いてサイクルロード終点に到達。今川橋からの距離4.5km。
サイクルロードが終わる辺りから海岸が広くなり、パラグライダーの練習をする人や常設のコートでビーチバレーに興じる集団等,浜での遊びも多様になってきた。11:00,木陰に腰をおろして地図を見ながら今後の行程を検討する。
地図によると古志の松原はこの辺りを指すらしいが、ここにもそれらしい標識はなく結局分からず終いだった。いずれであってもすでに古志の松原に到達したことは明らかだが、その先の行程をどうするかハッキリとは決めていなかった。
はじめの計画では東富山駅に近い富山港を終点とするつもりだったが、あわよくば次の能登半島の旅への足がかりとして氷見線の伏木まで行けないものかとも考えていた。
その可能性を再検討しようとしたのだがあまりにも大雑把な地図で細かい所がよく分からない。時間的には少なくとも富山新港までは行けるし、伏木までは決して無理ではない〜,とこの時は考えていた。
11:15発,バレーコートのある岩瀬浜と言うその海岸はそのまま広い港湾施設につながり、10分で岩瀬漁港に着く。商業港としての富山港はここより先の神通川の手前にあるのだが、この時点ではよく分からないまま漁港の船や釣りを見て先に進み、やがて富山港に突き当たる。
ここに来てはるか黒部・魚津の海岸から眺めた火発の煙突が目の前に見えてきた。だが岩瀬漁港から一旦富山港に出た道は、港からほぼ直角に東南東に伸びる岩瀬運河に阻まれ、富山港に出るには運河にかかる橋まで遡らなくてはならない。複雑に入り組んではいるが単調なその外縁を海港と陸地の境にそって延々と歩くので煙突までは容易に辿り着けそうにないが、覚悟を決めて忠実に水際を歩くことにする。
11:50,富山湾展望台に着き内部を見学。灯台内部のような螺旋の階段を登って展望階に上がると北アルプス,立山・剣連峰から薬師岳方面がよく見えた。また火発の煙突もほぼその全体像を見ることができる。
12:00のサイレンを聞いて展望台を後にし、港に沿って南進するも沢山の港湾施設の阻まれて海岸線を通ることができず、市道を通って12:20,R415の大きな交差点にさしかかる。ここまで道の駅から16.0km。
ここから右折してしばらくは国道(R415)を歩き、富山火力発電所のある工業団地を通り越して四方に向かう。
12:35,萩浦橋と言う大きな橋を渡って神通川を越え、直進して草島と言う町の食堂で昼食を摂る(13:00)。
神通川を渡って草島と言う町の食堂で久々にまともな食事を摂り、13:40出発。R415をそのまままっすぐ行けば四方漁港付近で海岸線に出るが、それでは端折り過ぎなるので四方荒屋と言う交差点の手前から海岸線に向けて右折し、日本石油の西壁に沿ってまっすぐ海岸線を目指すこと1.5kmで四方西岩瀬と言う海岸線に出る(14:20)。
そこは午前中に通過した岩瀬漁港の神通川を挟んでの対岸に当るのだが、日本石油と北陸電力と言う巨大施設があるためにそちらを振り返ることは出来ず、また河口からの距離もかなりあった。常願寺川河口が開放的だったのに比して神通川のそれは物々しい施設に遮られて近寄ることが出来ない。
西岩瀬の海岸は八重津浜と言う海水浴場で、ここから再び広々とした海原を見ながらの歩きとなる。ゆったりとしたインターロッキングと芝で覆われ、あずまや風の休憩所やトイレが整備された開放的な海浜広場を通り抜けて1時間で四方漁港に到達(14:40)。前方にもう一つの目標だった射水の2本煙突が見えてくる。
四方漁港発15:00。すぐ後には富山の火発煙突が聳え、前方に見る射水の煙突はまだまだ遠いが、少なくともあの煙突を見上げる所までは行くと決めて歩き始める。それが長い長い迷走の始まりだった。
四方から射水市の海老江にかけての海岸は格別美しく優雅で、人々が浜で遊ぶ様もゆったりとしている。
アルプスが次第に遠ざかり、2本煙突近づいて来ていつのまにか射水市に入っていた。
砂浜で遊んでいる少年達の集団があった。テトラポットの上に棒切れを渡して橋をつくろうとしているらしい。
おとなや年長者がついていなくて子ども達だけで海辺で遊んでいるなんて今時珍しく『いいなぁ〜』と思って近寄って写真を撮っていると、子ども達が気づいて怪訝な顔でこちらをうかがい動きをやめてしまった。
叱られると思われたら不本意なので『何でもないよ,ただ写してるだけだから続けなよ!』と言ったが何となく動きがぎこちなくなってしまった。せっかく無心に遊んでいたのを邪魔してしまったかも・・。
16:00,浜辺で遊ぶ女子高生達を見ながら海老江海浜公園を通過。公園を彩るハマナスを撮る。
海老江の海浜公園を直進すると海竜新町と言う町に出る。右手には海竜スポーツランドとか元気の森公園等の施設のある広大な造成地が広がる。左折するとR415につながり、新湊を経て伏木駅に向かうが、ここは富山新港をめざして直進する。
海老江の港付近から左手を見ると2本の煙突が真横に並んでいた。やっとその足元まで来た!
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