01随願寺駐車場
駐車場前に梅が咲いていました。駐車場は午前8時から利用可能ですが、時間外利用のために道向かいにも駐車場があります。
1
01随願寺駐車場
駐車場前に梅が咲いていました。駐車場は午前8時から利用可能ですが、時間外利用のために道向かいにも駐車場があります。
02随願寺開山堂
正面三間、側面三間、背面一間通り下屋付の奥の院の中心である方三間のお堂で、正面に承応三年(1654)の銘をもつ石燈籠が二基あり、随願寺に現存する建造物の中で最古のもので、国指定重要文化財です。
1
02随願寺開山堂
正面三間、側面三間、背面一間通り下屋付の奥の院の中心である方三間のお堂で、正面に承応三年(1654)の銘をもつ石燈籠が二基あり、随願寺に現存する建造物の中で最古のもので、国指定重要文化財です。
03榊原忠次墓所唐門
享保16年(1731)に建てられ、霊廟建築の遺構として貴重な存在で国指定重要文化財です。内部には徳川四天王と言われた榊原康政の孫で須賀藩、館林藩、白河藩、姫路藩の藩主を歴任した榊原忠次の墓所があります。鍵がかかっており中には入れませんでした。
1
03榊原忠次墓所唐門
享保16年(1731)に建てられ、霊廟建築の遺構として貴重な存在で国指定重要文化財です。内部には徳川四天王と言われた榊原康政の孫で須賀藩、館林藩、白河藩、姫路藩の藩主を歴任した榊原忠次の墓所があります。鍵がかかっており中には入れませんでした。
04随願寺本堂
随願寺は奈良時代の創建と伝えられる天台宗寺院で、慶安2年(1649)頃に姫路藩主榊原家の菩提寺となりました。本堂は元禄5年(1692)に建てられた大型仏堂で国指定重要文化財です。内部の見学は可能です。
1
04随願寺本堂
随願寺は奈良時代の創建と伝えられる天台宗寺院で、慶安2年(1649)頃に姫路藩主榊原家の菩提寺となりました。本堂は元禄5年(1692)に建てられた大型仏堂で国指定重要文化財です。内部の見学は可能です。
05随願寺経堂
経堂は宝暦13年(1763)頃に建てられ、撞木(しゅもく)造りという珍しい構成をとる堂です。正堂の仏壇下に建立されている石碑とともに国指定重要文化財です。
1
05随願寺経堂
経堂は宝暦13年(1763)頃に建てられ、撞木(しゅもく)造りという珍しい構成をとる堂です。正堂の仏壇下に建立されている石碑とともに国指定重要文化財です。
06随願寺鐘楼
鐘楼は享保3年(1718)に建てられたもので、入母屋、本瓦葺、桁行3間、梁間2間、袴付で、鐘楼建築の遺構として大変貴重な存在で国指定重要文化財です。
1
06随願寺鐘楼
鐘楼は享保3年(1718)に建てられたもので、入母屋、本瓦葺、桁行3間、梁間2間、袴付で、鐘楼建築の遺構として大変貴重な存在で国指定重要文化財です。
07実相院の墓所
実相院は33代姫路城主榊原政邦の側室です。婦人病に悩んだことから死後は同じ病に苦しむ人を救いたいと遺書を残しました。そのため、しもの病に神様のご利益がすぐに現れるとして詣る人が多いようです。
1
07実相院の墓所
実相院は33代姫路城主榊原政邦の側室です。婦人病に悩んだことから死後は同じ病に苦しむ人を救いたいと遺書を残しました。そのため、しもの病に神様のご利益がすぐに現れるとして詣る人が多いようです。
08榊原政邦と夫婦の墓所
榊原政邦は宝永元年(1704)に姫路藩に入封し、領民の道徳と倹約を奨励する読書条目を発布したり、駿府城修築工事を担当するなど、名君と言われました。夫婦共に遺言により増位山に葬られました。
1
08榊原政邦と夫婦の墓所
榊原政邦は宝永元年(1704)に姫路藩に入封し、領民の道徳と倹約を奨励する読書条目を発布したり、駿府城修築工事を担当するなど、名君と言われました。夫婦共に遺言により増位山に葬られました。
09砥堀古墳(仮称)正面
砥堀(とぼり)の集落から有明山(増位山北嶺)に通じる道は、在原業平により、糸の細道と詠われました。その道中にある分岐点に古墳がありました。
0
09砥堀古墳(仮称)正面
砥堀(とぼり)の集落から有明山(増位山北嶺)に通じる道は、在原業平により、糸の細道と詠われました。その道中にある分岐点に古墳がありました。
10砥堀古墳(仮称)側面
古墳は石室がむき出しになっており、側面からは内部の様子が垣間見られます。
2
10砥堀古墳(仮称)側面
古墳は石室がむき出しになっており、側面からは内部の様子が垣間見られます。
11有明山構居跡
「地蔵院」とも称し、黒田職隆(もとたか)の弟(高友)が「安芸法印休無(きゅうむ)」(休夢)と名乗って、ここを姫路城の北の守りとしていた…と記されていました。この説明板の南西には堀跡のような溝が延びていました。
0
11有明山構居跡
「地蔵院」とも称し、黒田職隆(もとたか)の弟(高友)が「安芸法印休無(きゅうむ)」(休夢)と名乗って、ここを姫路城の北の守りとしていた…と記されていました。この説明板の南西には堀跡のような溝が延びていました。
12増位山ピーク
“増位山”と聞いて、元大関(相撲力士)、演歌歌手でもあった姫路出身(公称)増位山の名前が浮かぶ人は増位山通です。
1
12増位山ピーク
“増位山”と聞いて、元大関(相撲力士)、演歌歌手でもあった姫路出身(公称)増位山の名前が浮かぶ人は増位山通です。
13増位山三角点&展望
増位山の三角点を中心に展望広場のようになっています。360度展望が効き、姫路市内が一望できます。
4
13増位山三角点&展望
増位山の三角点を中心に展望広場のようになっています。360度展望が効き、姫路市内が一望できます。
14増位山ピークから東景観
東には市川(手前)や姫路セントラルパーク(左奥)や播但連絡道路沿いの山々が見えます。
1
14増位山ピークから東景観
東には市川(手前)や姫路セントラルパーク(左奥)や播但連絡道路沿いの山々が見えます。
15増位山ピークから南景観
南には蛇行した市川を中心に姫路の南部の街や山々が見えます。
2
15増位山ピークから南景観
南には蛇行した市川を中心に姫路の南部の街や山々が見えます。
16増位山東尾根から市川景観
増位山の東尾根には所々に景観が広がるスポットがあります。進むにつれ、姫路の街がよりはっきりと見えてきます。
1
16増位山東尾根から市川景観
増位山の東尾根には所々に景観が広がるスポットがあります。進むにつれ、姫路の街がよりはっきりと見えてきます。
17随願寺念仏堂
常行三昧堂として応徳2年(1085)白河天皇の中宮賢子の菩提のため造られました。太子谷には風羅堂跡があり、芭蕉につながる俳諧の地でもあります。
0
17随願寺念仏堂
常行三昧堂として応徳2年(1085)白河天皇の中宮賢子の菩提のため造られました。太子谷には風羅堂跡があり、芭蕉につながる俳諧の地でもあります。
18念仏堂石棺手水鉢
境内にあったこの手水鉢は古墳の石棺が使われているようです。何世紀も経っているので時効か・・・
1
18念仏堂石棺手水鉢
境内にあったこの手水鉢は古墳の石棺が使われているようです。何世紀も経っているので時効か・・・
19念仏堂境内梅
たまたまこの時間帯に天気がよくなり、白梅が綺麗に見えました。
2
19念仏堂境内梅
たまたまこの時間帯に天気がよくなり、白梅が綺麗に見えました。
20念仏堂福分け狸&鬼瓦
念仏堂の入り口近くに福分け狸となぜか鬼瓦が設置されていました。“福分け”という言葉に反応し、思わず拝んでしまいました。
0
20念仏堂福分け狸&鬼瓦
念仏堂の入り口近くに福分け狸となぜか鬼瓦が設置されていました。“福分け”という言葉に反応し、思わず拝んでしまいました。
21随願寺参道梅
参道から流れる川沿いに梅の花が咲いていました。車で来ると気がつきませんが、歩道を歩いて行くと、この辺りから梅を何か所かで観賞できます。
0
21随願寺参道梅
参道から流れる川沿いに梅の花が咲いていました。車で来ると気がつきませんが、歩道を歩いて行くと、この辺りから梅を何か所かで観賞できます。
22びょうぶ岩の侵入を拒む難敵
途中、幻のびょうぶ岩を求めて道なき道を進んだところ、見た目超危険なカラスザンショウを発見しました。さすがにこれはイバラと異なり強行突破できずに巻きました。
1
22びょうぶ岩の侵入を拒む難敵
途中、幻のびょうぶ岩を求めて道なき道を進んだところ、見た目超危険なカラスザンショウを発見しました。さすがにこれはイバラと異なり強行突破できずに巻きました。
23幻のびょうぶ岩!?
幻のびょうぶ岩発見!?カラスザンショウを越えて程なく、突然岩が連なる所に行き当たりました。一応、ここを勝手にびょうぶ岩としておきます。
1
23幻のびょうぶ岩!?
幻のびょうぶ岩発見!?カラスザンショウを越えて程なく、突然岩が連なる所に行き当たりました。一応、ここを勝手にびょうぶ岩としておきます。
24随願寺参道東屋
参道沿いには所々休憩ができる東屋があります。梅を見ながらゆっくりと散策するにはとてもいいコースです。東側の斜面に赤テープが何か所か見えましたが、ここが幻のびょうぶ岩への取り付き点なのでしょうか。
0
24随願寺参道東屋
参道沿いには所々休憩ができる東屋があります。梅を見ながらゆっくりと散策するにはとてもいいコースです。東側の斜面に赤テープが何か所か見えましたが、ここが幻のびょうぶ岩への取り付き点なのでしょうか。
25随願寺参道紅梅
寒紅梅のようで開花が早く、梅特有の非常にいい香りがしています。車で通過すると、この辺りの梅はスルーしてしまう可能性があるので、歩きながら観賞するのがよいでしょう。
2
25随願寺参道紅梅
寒紅梅のようで開花が早く、梅特有の非常にいい香りがしています。車で通過すると、この辺りの梅はスルーしてしまう可能性があるので、歩きながら観賞するのがよいでしょう。
26随願寺参道紅白梅
この辺りは梅の香りが満ちています。梅によっては5分咲きから7分咲きといったところでしょうか。来週辺り(20日前後)ぐらいがベストな状態になっているかもしれません。ここから石段の参道と新しい擬木の階段状の道とに分かれます。参道は沢沿いのため、濡れた石には要注意です。
2
26随願寺参道紅白梅
この辺りは梅の香りが満ちています。梅によっては5分咲きから7分咲きといったところでしょうか。来週辺り(20日前後)ぐらいがベストな状態になっているかもしれません。ここから石段の参道と新しい擬木の階段状の道とに分かれます。参道は沢沿いのため、濡れた石には要注意です。
27随願寺参道沢&瓦
随願寺の本堂が近づくにつれ、沢や参道に沿ってなぜか無数の瓦のかけらが転がっています。昔36坊もあったとされている大寺院の名残でしょうか。
0
27随願寺参道沢&瓦
随願寺の本堂が近づくにつれ、沢や参道に沿ってなぜか無数の瓦のかけらが転がっています。昔36坊もあったとされている大寺院の名残でしょうか。
28随願寺参道神社
名前も由来も不明です。
0
28随願寺参道神社
名前も由来も不明です。
29随願寺参道石垣
この辺りは石垣の跡がたくさん見られます。増位山は三木の別所長治との間でたびたび戦場となり、天正元年(1573)に別所の軍勢が寺塔をことごとく破却しましたが、秀吉によって再興されました。
0
29随願寺参道石垣
この辺りは石垣の跡がたくさん見られます。増位山は三木の別所長治との間でたびたび戦場となり、天正元年(1573)に別所の軍勢が寺塔をことごとく破却しましたが、秀吉によって再興されました。
30松尾芭蕉の弟子千山の墓
姫路出身の商人、俳諧師であった井上千山(風羅堂三世)は向井去来を通じて松尾芭蕉を姫路へ招く約束をしていましたが、芭蕉の死により実現しませんでした。
0
30松尾芭蕉の弟子千山の墓
姫路出身の商人、俳諧師であった井上千山(風羅堂三世)は向井去来を通じて松尾芭蕉を姫路へ招く約束をしていましたが、芭蕉の死により実現しませんでした。
31放生池
紅葉の時季に映えそうなロケーションでした。対岸に少し梅の花が咲いていました。
1
31放生池
紅葉の時季に映えそうなロケーションでした。対岸に少し梅の花が咲いていました。
32放生池のカルガモ
カルガモのカップルでしょうか。中睦まじくお昼寝の時間のようでした。引越しの時期は大活躍で忙しそうですね?
0
32放生池のカルガモ
カルガモのカップルでしょうか。中睦まじくお昼寝の時間のようでした。引越しの時期は大活躍で忙しそうですね?
33随願寺梅林
随願寺本堂の南方に梅林がありました。まだ5・6分咲きぐらいでした。3月20日辺りに見頃を迎えそうです。
1
33随願寺梅林
随願寺本堂の南方に梅林がありました。まだ5・6分咲きぐらいでした。3月20日辺りに見頃を迎えそうです。
34梅林紅梅
近づいて見ると、光の当たり具合のせいか鮮やかでした。
3
34梅林紅梅
近づいて見ると、光の当たり具合のせいか鮮やかでした。
35梅林白梅
白梅は非常にプリティでした。桜より和風情緒が漂っています。
2
35梅林白梅
白梅は非常にプリティでした。桜より和風情緒が漂っています。
36池田輝政墓所
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えました。姫路城を現在残る姿に大規模に修築したことで知られ、姫路宰相と称されました。
0
36池田輝政墓所
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えました。姫路城を現在残る姿に大規模に修築したことで知られ、姫路宰相と称されました。
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する