2015年5月2日〜10日の9日間、南アルプスの仙塩尾根を単独で歩いたが、その際、5月3日の昼頃から5月10日まで誰とも出会わなかったので、一人で色々なことを考えた。山行記録はそのうちアップする予定だが、そのとき考えたことを山行記録に書き加えると記録が冗長になってしまうので、ここに記録しておこうと思う。
(水の旨さについての論考)
先に述べたように南アルプスを歩いている間、特に水の摂取を制限していた訳でもないのに、水をやたらと旨く感じた(水もお湯も)。喉から腹に水が浸み渡る感じで、風呂上がりのビールを上回る旨さだった。
お酒が大好きな自分は、お酒を飲み始めると、気が付くとかなりの量を飲んでしまうので、山行の準備にあたり、9日間で毎日自分が満足する量、となると、どれだけの量のお酒を持って行けばいいのか見当がつかなかった。食料を始めとする必需品で、既に自分が背負えるのか怪しい重量に達してしまっていたので、今回の山行は潔くお酒は持って行かないことにした。当初は、お酒がないことで山行が味気ないものになるのではと危惧していたが、結論から言うとその心配はなかった。
毎日忙しく、また疲れていて、お酒をゆっくり飲む時間などなく、寝始めるとすぐ寝入ってしまったから、と云う物理的な理由もある。だが、自分にとっては、山を歩いている間、休憩の度に飲む水の旨さに深く満足していたから、という精神的な理由の方が大きい。その水の旨さが、最終日(5月10日)の午後、強い日差しの中で林道を歩いていたときの休憩時に水を飲んだときには消えていた。何度も水を飲み直して確かめたが、あの旨さは還ってこなかった。なぜだろうか?
最終日に飲んだ水は南荒川の上流部を流れている水をそのまま汲んだもので、煮沸等はしていない。そして、最終日の前夜も、最終日の午前中に登山道の無い山を歩いているときにも、同じ水をそれ迄と同じように旨いと感じていた。最終日より前に飲んでいた水は積雪を融かして作った水で、地層というフィルタで濾過された沢(南荒川)の水よりも旨いということは物理的に無いと思う。だから、最終日の午後に林道で水を飲んだときに旨さが感じられなくなったのが、水が物理的に不味くなったためとは考えにくい。
自分は、水を旨く感じられなくなった理由を次のように考えた。すなわち、先にも述べたように、南アルプスを9日間歩いたうち、5月3日の昼頃から5月10日までの8日間、誰とも出会わなかった。また、雪との格闘が連日続き、数度の滑落や数度の雪の壁の登攀を経験し、脆い岩や樹林帯の急斜面の途中で進退に窮まってしまったこともあった。また、5月9日の終日と5月10日の午前中は、登山道の無い山の中をGPS、地形図、コンパスを頼りに、より安全な下山ルートを探しながら必死に下山した。このようなことから、山行中の自分はずっと強い緊張状態にあり、その緊張状態が自分の中に眠っていた生存本能を呼び覚まし、発動された生存本能が水をやたらと旨く感じさせていたのではないかと思った。
人類が水や食料をいつでも容易に入手できるようになったのは、人類の誕生からの長い歴史の中でごく最近の事に過ぎず、大半の期間は水も食料も足りない、軽い飢餓状態にあったと思う(後進国の多くの人は多分今でも)。そして、その軽い飢餓状態で個々の個体を行き永らえさせるために、水や食料を摂取した際には味覚から快感が湧くように生存本能が進化していったことは大いに考えられる。自分は、最終日の午前中に登山道の無い山の下山が無事終わり、まず遊歩道を5km程歩き、その後林道を延々と歩くうちに、どうやら無事に帰れそうだという確信を徐々に得たが、同時に緊張感が解けていき、発動していた生存本能が役目を終えて眠りについたことで、同時に、水をやたらと旨いと感じる感覚も消えてしまったのではないだろうか。
この仮説が正しいとすると、たまに聞く「野外(アウトドア)で飲食すると旨く感じる」と云うのは、例えてみれば、屋根のないビアガーデンで飲食したときに感じる開放感と同種のものであり、実際には次の段階、すなわち、生存に不安を感じるような強い緊張感により生存本能が呼び覚まされた状態になり、生存に必要な水や食料の摂取により強い快感が生じる(より強く旨いと感じる)段階があるのではないだろうか。
それにしても、今回の山行では水に比べて食事をそこ迄旨いとは感じなかった。自分に料理のセンスが無いことは自覚しているし、今回自分が作った食事は、料理とはとても呼べないような手間の掛からないものだったが、生存本能が発動している状態でもさほど旨いと感じられないと云う事は、自分の作る食事はよほど・・・?
難しい水の旨さですが、私の場合、多量に飲む時と、川の水やスキー場から湧き出る雪解け水などを飲んで、うまいと感じるときは別の時が多いです。
うまい水はやはりのどごしと舌触りが、体調の条件にあっている場合感じることが多いです。
この時はラッキー!いつも美味しいわけじゃないけどこの瞬間のうまい水に出会えた!と嬉しいです。帰ってきてから、あの水を飲みに行きたいと憧れます。意外と到達しづらい場所で感じるものなので(反面、ピロリー菌が心配ですが)
また多量に飲んでしまう場合は強い日差しや日焼けなどで見えない脱水症状を起こしている時、重い装備、速いペース時(一人登山)に多いので、ミネラル分をしっかり補充しないとどんどん汗と共に流れてしまい、その結果水を欲するようになり、今度水を飲み過ぎて、最終的に血液が薄くなり筋肉に力が入らなくなり夏バテのように動けなくなります。特徴は固形物を受け付けなくなることです。もし固形物も食べれるようでしたら心配ない現象だと思います。(これはあくまでも自分の場合ですので参考までに)
こんにちは。
面白い仮説ですね。何らかの脳内物質が出ているのでしょうか?
ただ、残雪の山や沢登りでは「いつでも水が飲める」という安心感があるために逆に水を飲まずに行動していることが多いと思います。逆に砂漠だと途端に口が渇きます。本能?
また、この時期の日本の高山の春山(ヨーロッパの夏山)は雪があってもそこそこ気温が高いし運動量による発汗も多く、そのために水分不足になっていることも考えられます。
そうした知らず知らずの水分不足の状態に加え、ザックに入れた水は春と言えども気温が低いのでビールの適温のように「飲みごろ」の水温のために格別にうまいと感じるのではないでしょうか?
私はそんなことを思いました。また、思い起こせば実際に私も同じような状況で「水」が格別に美味いと思った経験もありました。
林道に降りてからの水の不味さは、逆にこちらの方が「もうすぐ美味いものが食べられる」という心理が働いているのかも?
参考になれば。
追記;9日間というのはすごいですね。
kondol007様、m_asai 様
私の駄文にコメント下さり、有り難うございます。
水が旨いと嬉しいですよね。私は水に関しては味覚オンチと自覚しており、もし公園の水道の水とコンビニのミネラルウォーターのどちらかを選ぶことになったら、味に大差が無いと感じるので迷わず無料の公園の水道の水を選ぶと思いますが、今回の山行での水の旨さは別次元に感じました。休憩で水を飲む度に幸せを感じ、次第に、次の休憩で水を飲むことを励みにして歩いているような感じになっていました。
自分が飲む水を自分で背負うとなると、次の給水できる場所に着く前に水が無くなってしまうことは避けたいので、休憩時に飲む水の量をセーブしようという心理が自然と働き、確かに、体が常に水を欲している状態(軽い脱水状態)だったのかも知れません。残雪は常にあったのですが、なかなか予定通りに進んでいなかったことと、樹林帯が大半で30cm位は雪を掘らないとゴミの混ざっていない雪が出てこないことから、昼間に行動を一時中断して水作りすることは考えていませんでした(軽量化のためスコップは持参していませんでした)。
ただ、今回は最終日の林道歩きが約20kmと異常に長く(最終的には通り掛かった車に声を掛けて、乗せて頂いたのですが)、水を旨く感じられなくなってしまったのが林道歩きが半分過ぎたか過ぎないかといった辺りで、それ迄に数え切れない程の堰堤と揚水式の発電所も見て川の水を飲める状況ではなくなっていました。それなので、水が旨く感じられなくなったときは、まだ自由に水が飲める状況ではなく、いつになったら自由に水が飲める状況になるのか目処が立っていなかったことは確かです。
また、最終日は快晴で気温も上がり、水をより旨いと感じられそうな天候が続いていたので、水が旨く感じられなくなったのが天候が原因とは考えにくいです。それで、緊張感が解けてきていた→生存本能が役目を終えた、という事が、水の旨さの感じ方に関係があるのでは?と思った次第です。
それにしても、ピロリ菌については頭に全く浮かびませんでした。やはり浄水器は持参した方が良いのかもしれませんね。
コメント有り難うございました。
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