先日、某SNSで流れてきた『登山の責任論』というレポートを読んだ。
https://drive.google.com/file/d/1k8L8XwiuQkWBAI9_p6lchB7EHVdHEI_D/view
登山者と社会の関係や冒険的登山の行く末を論じたレポートで、何となく感じてたことや新しいことがつながってすっきりした。とはいえ、「読んだ。わかった。すっきりした。」で終わるのも寂しい感じがするので、気になったところを感想として書いてみた。用語はなるべくレポートに沿うようにしたつもりで、内容はレポートと重なるところもあるが独自解釈もある。だって感想文だもの。
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レポートの結論は、冒険的登山を排除させないために、社会矛盾していることを認め、対立を克服するために表現を公共に提示するということだ。民主・功利主義的な(日本)社会と自由・完全自由主義的な登山社会は対立していて、自由主義の立場から表現(以降、記録)の開示で価値を認めさせようという話だと捉えている。
だが、ここでいう記録についてちょっと疑問があった。記録を世間に提示して説明すれば、非登山者も登山について理解が進むとあるが、これは民主、功利主義に立つ強い・弱い登山者の手法ではないかという疑問だ。社会に組み込まれている強い・弱い登山者が非登山者に理解してもらい領分を広げるなら、こういう記録も十分に役に立つように思う。だがその結果、市場を広げて功利主義を強化することになるにもつながる可能性がある。これは、自由主義に立つ冒険的登山をする人たちにとっては良い話ではないだろう。相当うまくやらないと、民主・功利主義から自由・完全主義への批判を強くすることになりかねないわけで、難易度は高いように思う。
冒険的登山を認めさせるには、別の記録が欲しい。どういう記録かというと、外部から既存の価値観を揺さぶる記録だろう。そういう記録は、冒険した人が書けるものだ。冒険は地理的空白を解明したり犬橇単独行したりするだけではなく、それぞれの人が感じた未知の領域に足を踏み入れて追及することと捉えればいい。でかいことをやらなくても、各々が感じるちょっとした未知の部分を少しずつ確かめて、記録にまとめて提示する。一撃で既存の価値観を揺さぶることはなくても、すこしずつチクチクやれればいい。結果として社会に認められるかもしれないが、認めさせるために記録を提示しようとすると、前述のように冒険的登山にとって良いことはない。
こう考えると、民主・功利主義的社会と自由・完全自由主義的登山の対立関係は、社会からの批判と登山からの記録提示のことだろう。冒険的登山を守りつつ対立を解消できるだろうか。解消したい(すべき?)批判は、感情に起因した強い責任論が根本にある批判だ。これは登山の理解・無理解とは関係なく、非登山者だけでなく登山者でもやりがちである。そのため、理解してもらう記録ではあまり効果が無く、価値観を揺さぶって弱い責任論へ転換させる記録が必要だ。弱い責任論を基にして「構造問題を検証した」批判は傾聴すべき批判であるから、結局のところ対立はなくならず、批判され続けて記録提示し続けることになる。どのみち、冒険的登山の自由主義は、民主・功利主義の(日本)社会の外側にある。
Covid-19の拡大は実生活にも関わる話で、自由主義的な冒険登山は抑圧されている。Covid-19で強化された弱い責任論に対し、記録の開示はどれくらい力を発揮できるだろうか。一口に記録と言っても様々で、面白おかしいブログ、紀行文、ノンフィクション小説、レポート、ルート解説、お茶の間TV番組、ドキュメンタリー等々あり、どう使うかで状況は良くも悪くもなりそうだ。どうすればいいか今すぐパッとは思いつかない。記録の使い方は今後の課題になりそう。
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『登山の責任論』を読んで考えたことを、記録を中心にして書いてみた。別のSNSで見たことをココに書くのも変な話だが、理由は2つあり、一つはこんな長文を連投したらウザがられるから。もう一つは、登山の記録の話だから。登山の記録を扱うプラットフォームなら無関係というわけでもないだろう。
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