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かいがけの道は、交野三山の内、東部に広がる龍王山の中腹を横切る峡い崖に囲まれた山あいの道で、古代には修験の道であったそうです。
その後、大和と河内を結ぶ重要な交通路として、 奈良時代には大仏建立の際に仏師たちが行き来した道です。
途中、枚方の百済寺や交野の獅子窟寺に宿泊し、かいがけ道を通って奈良の都に入ったと言われています。
平安時代から鎌倉時代にかけて、京の天皇や貴族たちの熊野詣でが盛んな頃、熊野街道への道となったようです。
京都から鳥羽あたりで、淀川を船で下り交野に上がり、交野古道と言われる「かいがけの道」を上り詰めて奈良、王寺、五条を通って紀州へと向かったそうです。
室町時代には、天正年間に織田軍と戦った武将たちが、馬駈ける道とするなど、多くの人たちが往来したとあります。
摂津国伊丹城の城主伊丹兵庫守親興は、室町幕府足利義昭に加勢して織田信長と戦って敗れ、高槻で討死。
残った伊丹一族は淀川を、渡って交野の地に逃げ、一族は交野の寺村の竜王山の後ろにある「傍示の里」に逃れ住んだと記されてあります。
山間の谷や森の中に、隠れ田や隠れ畑がひっそりと残っており、落人の暮らしを偲ばせています。
かいがけの道をヤブ蚊に追われるように下ると、道沿いに、地蔵様や碑(後で「伏拝」と判りました)を見かけます。
何だろうと心の片隅に置いて、帰宅後、気になり調べてみました。
「伏拝」自体、詳しく知りませんでしたが、直接、お参りし、お願いすべきところを、ここから、お参りさせていただき、御利益をいただきたいと、「伏し拝がむ」その方向を示した碑だそうです。
坂道を下ると石柱が並んでいるところがあり、それが、伏し拝みの辻だった様で、石碑の一つに愛宕山大権現は読んで確認しましたが、こんなところにも愛宕さんと、然程、気にも止めず下ってしまいました。
調べてみると愛宕山大権現(鎮火の神様)の他に、柳谷伏拝(眼の仏様)や石清水八幡宮(開運の神様)、能勢妙見大菩薩の伏拝まであるようです。
当時の人たちは、色々な理由から自由に参詣できないため、それに代わるものとして身近の地に設けた「遙拝所」が「伏拝」なのでしょう。
交野市内の道路脇には、二月堂・愛宕山・大峰山などの聖地・聖山の名を刻した石塔・石柱などが立てられています。
庶民の間に純朴な社寺信仰が広がっていたのでしょう、前もって、調べておけば良かった、不勉強もいいところです。
いつか確認してみようと思います。
また、傍示とは河内の国と大和の国の国境であると、傍(ふだ)を立てて、ここが国境であることを示したものだそうで、「傍示の里」は、国境の里と言う意味もあるのですね。
トレッキングルートの通過点でしかなかったものが、歴史の狭間でもあったようです。
うーん。かいがけの道もいいですねぇ。
あぁ、懐かしや。
懐かしいでしょ
いつも思う、津田バーガー食べようと。
が、いまだに食べていません。
傍示の里で「かいがけの道」、あれ。
歩いたことがない。
で、またしても食べ損ねました。
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