今から30年以上前のことです。飯豊連峰の北端・朳差岳に初めて登った時、今でも忘れることができない奇妙な体験をしました。この時は、関川村大石ダムから西俣コースを経由して、山頂を目指しました。
ダムの先、滝倉沢に架かる吊り橋の手前に車を置き、西俣川沿いに歩き始めたのが、午前六時でした。橋を渡って、間もなくすると、けもの道とまではいきませんが、頼りなげな踏み跡が細々と続く道となりました。右側に深い沢があって、道は沢に沿って、高巻きに登って行きます。さすが飯豊連峰の北の果ての奥深い山、朳差岳にふさわしく人跡稀な登山道なのだと、自分を納得させて進むのですが、道はますます険しく、細くなっていくので、いささか不安ではありました。しかし、まだ山に登り始めて、いくらも経たない頃だったからでしょうか、さしたる疑問も持たず、どんどん前に進んでいきました。
そのうち、沢に下ると、道らしきものは消え、河原伝いに登るようになってきました。どれくらい沢を遡行したでしょうか、眼の前に大きなスノ―ブリッジが立ちはだかったのです。それを越えるには、流れに入って、雪のトンネルをくぐるか、それとも左右どちらかの岩の壁を登らなければなりませんでした。沢登りや岩登りの、道具も技術も持たない身にとって、これを越えるのはとうてい不可能でした。そして、うかつなことですが、ここまで来て初めて、道を間違えたことに気が付いたのでした。
その日は、すばらしい快晴で、見上げると、沢の両側にそそり立つ岩壁の間から、初夏の紺碧の青空が切り取られたように輝いていました。
ここまで来ると、今日の朳差岳登頂は諦めるしかありません。しばらく元来た沢を下るうち、日も高くなって来たので、河原に腰を下ろし昼飯を食べることにしました。
そして、一時間ほど休んでから、再び沢を下り始めました。満腹のせいか、何か地に足が着かない感じで、しばらく歩き続けたところで、はっと我に帰ったのです。まるで、夢から覚めたようでした。そして、それまでぼんやりしていたあたりの風景がはっきりと焦点を結んだのです。
何と、沢を下っているつもりが、再び登っていたのです。一瞬、頭が混乱し、動悸が激しく打ちました。こんなバカなことがあるわけがないと、何度も記憶を呼び起こそうとしました。
昼食を食べた後、間違いなく、沢の下流に向かって歩き始めたはずです。確かに、それほど傾斜は急ではなかったのですが、自分が、登っているか、下っているかの区別は付くだけの斜度はあったはずです。
静まり返った渓谷の底で、恐怖がじわりと湧いてくるのを感じました。この谷には得体のしれない何かが存在していて、それが自分に強く働きかけてくるように感じたのです。このままでいると、その力によって、この谷から抜け出せなくなってしまうような恐ろしさに駆られ、逃げるように、夢中で沢を下りました。そして、何とか車のとめてある登山口に辿りついた時は、ほっと胸をなでおろしたものです。
ところが、車のエンジンを掛けようとしたら、始動しません。バッテリーがあがっていたのです。ここに来る途中に、トンネルがあって、そこでライトを点灯しましたが、抜けた後に確かに消したはずです。
この時間、こんな場所には金輪際人など来ないだろうと、途方にくれたものでした。近くに県外ナンバーの車が一台とまっていましたが、山登りの人だとしたら、夕方か明日にでもならないと帰ってこないだろうと思いました。当時は携帯などないので、麓の集落まで歩いて、助けを求めるしかない。それにしても、今日は何という日だ、と落ち込んでいると、ダム湖の方から二人の男性が登って来ました。二人は、渓流釣りの人らしく、近くにとめてあった車に近づいてきました。
二人に事情を話したところ、トランクから、ケーブルを取りだして、手慣れた手つきで、二台の車のバッテリーをつないで、見事エンジンを掛けてくれました。お陰で、その日の早い時間に無事帰宅できたのでした。
こんなふうにして、初めての朳差岳への挑戦はあえなく、失敗に帰しました。
朳差岳にはその年の九月に、同じコースを登り、無事山頂まで登りました。前回間違えた個所に来たところ、広いはっきりした正しい登山道が左の方についていました。右のけもの道のようなところに、どうして入って行ってしまったのか、どう考えても分かりませんでした。
後日、ある人にこの話をしたら、それは狐に化かされたんだよ、といわれました。あの時の不思議な体験と感覚を思い起こすと、それは妙に説得力のある解釈だと感じたものでした。
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