登山者は下界に残す家族の事を想いましょう
雪山本番が始まり、危険な世界へと身を投じていく登山者達。
かくいう私もその一人で、雪山へと登る準備をしている。
「登山は自己責任」という意味の分からない言葉があり、何かあればこの言葉を使って論争が絶えないし、そもそもの語源も不明。
正直「救助隊に迷惑だ」と言った意見はどうでも良い。
救助隊も二次災害の危険が高い時は出動しないし、彼らも日々訓練を積んでいるプロであり、極論を言えば救助することが仕事の一つだ。社会が回っている構図を批判し出すとキリがない。
一つ言えることは、「あなたが死んだら悲しみ、苦労する人がいる」ということだ。
天涯孤独の登山者というのも滅多にいないだろう。
登山者自身が本来目を向けるべきは、自分が傷ついたり、死んだりすることで影響を受ける家族の事だろう。
自分が死ねば、親や子供、妻が悲しみ、場合によっては路頭に迷うことになる。
登山は危険な趣味だと分かっていても、辞められない。
ならばどうすべきか?
・明らかな危険は排除して、チャンスを待つ。
・登山の基礎を遵守すること。
最低限の基本を守ることだろう。
・明らかな悪天候時の猛進山行の常習化。
・パーティーの意味を見失った名ばかりのパーティー登山
・リスク管理に疑問が残る超速攻スタイル
これらの登山スタイルは全て、登山の基礎から逸脱している行為ばかりだ。
このような山行を繰り返していれば、いつか遭難事故を起こすのは想像に難しくない。
SNSではこの様な山行が多量の「いいね」を産みだし、神格化されている所があるが、
この様な山行は危険極まりない行為であるというとを忘れてはいけない。
この様な山行を日々の鍛錬とは言わないだろう。
経験値は上がっているかもしれないが、それと同時に、危険な所に日々身を置き続けることで、危険という概念への感覚が麻痺し、いつか来る死への境界線が見えなくなっていると言えるのではないだろうか。
時代の流れを否定はしないし、私自身、昨今の自由な登山スタイルが心地よい。
成功例から学べる事は多いが、SNSに掲載されている成功例が必ずしも自身の為になるとは限らない。
自分も同じことが出来ると勘違いしてはいけない。
山が近くなり過ぎると、山と私生活の境界が曖昧になり、生と死の境界も曖昧になっていまう。
雪が降る季節、安全に登れるチャンスは1シーズンに数回あるかないか。
その一瞬を待つ必要があるのはないだろうか。
登山は趣味の域を出ない。
家であなたの帰りを待つ家族を残して、明らかに危険な日に危険な領域に行く必要があるだろうか。
安全に登れるチャンスの山でも、死ぬ危険はいくらでもある。
ならば、せめて明らかな危険な時は避けるべきではないだろうか。
それが、危険な行為である登山を続けていく登山者としての、最低限の心構えであると私は考える。
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