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2018年05月28日 23:05未分類レビュー(書籍)全体に公開

「新版 山を考える」からエベレストの遭難を考える

普段、このような場所に日記など書かないが、少々思うところあり発信(ただしコメントはご遠慮して)。

https://tetsutarou007.blogspot.jp/2014/02/blog-post_7141.html

このリンクで触れられている、疋田桂一郎氏の山岳遭難報道のことが、大昔に読んだ本多勝一氏のエッセイ「新版 山を考える」で引用されているのを思い出し、押し入れから苦労して掘り出した。

それによると、昔の山岳報道記事は遭難を美化したロマンチックなものが多かったそうである。「山男は彼らしく山で美しく死んだ」といった風に。 社会は登山者には寛容で、 事故の検証も不十分なことが多く、高名な登山家に事故のことを根掘り葉掘り聞くのはご法度という雰囲気もあったそうだ。

1959年10月24日に疋田記者は「英雄扱い、お門違い、準備不十分の事故死」というタイトルで、北アルプスの東大スキー山岳部の遭難のずさんさを鋭く指摘した記事を報道した。とても長く、巷ではテキスト化もされていないようなので全文引用は無理だが、当時としては「刮目すべき遭難報道」(@本多氏)だったとのことである。登山家といえども事故には厳しい目が向けられていくように社会も変化する契機となった、画期的な記事だったのだろうと推測する。

もちろん当時私は生まれていない。しかし私が物心ついたときから、どちらかというと登山者の事故には厳しい目が向けられることが多かったと記憶している。死が美しく語られることなど聞いたことはないし、世間様は厳しい目一色、むしろ厳しさ過剰にもなり、果ては論点がずれた批判に辟易することもしばしばである。でも百歩譲って、基本的にそれは良いことであると思う。先人の失敗から貴重な知見も得られるし、何よりそこから来るプレッシャーが遭難抑止に大きく効いていると思うから(もちろん私もその恩恵に大いにあずかっている)。

ある青年のエベレストでの遭難について、そしてそもそも過去多数回の登頂失敗に対して、当然ながら厳しい目も向けられているが、不可解なのはそれと同様に寛容な目も向けられていることである。まるで彼の周りにだけ1959年以前のロマンチシズムが再来したかのような?先祖返りの文言も目にする。彼の華々しいTV報道も過去に何回かあったが、そのような印象がちらりとよぎって違和感を感じたのも記憶している。こういった謎の懐古現象はどう説明されるものなのだろうか? 私には皆目わからないし、過去と同様の危険を孕んでいるようにしか思えない。

報道がたどった歴史を見れば、世間の厳しい目こそ、長い時間と多くの犠牲を経てようやく得られた我々の貴重な価値観だとわかる。その価値をいとも簡単に投げ捨てることなどあってはならないだろう。山岳遭難報道の記事がこのような変遷を経て「進化」してきたことをマスコミはもっとアピールしても良いのではないかと思う。
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