たしか、もう八年以上も前の話となる。
登山など知らなかった時代に、憧れを抱いた山があった。
そのころの私は東京の大学の学生で三年生の年だったと思う。人気であった希望のゼミナールには抽選漏れで行けず、古代日本文学のゼミナールに配置されていた。青根ヶ峰という山の名前に出会ったのは『万葉集』だったか、『懐風藻』だったか、『古事記』だったかはよく覚えていない。ゼミの女教授が吉野の風景を説明する際に出てきたのが初めてだったと思う。古代人は大陸からの文化を享受し、仙境のような空間を吉野に求めていたような節がある、という話。現代は桜やら紅葉やらがピックアップされることが多いが、古代文学の中では、青々とした吉野の山容が称えられている。幾つかの名前の中に、それを象徴するかのような名前の山がある...。頭から青根ヶ峰が離れないでいた。
そのころ、私の家族は四方に離散していて、大阪に単身赴任していた父を訪ねることになった。単身赴任にも慣れてきてつまらないから、大学の卒業までに一度顔を見せろという。当時私の資金源となっていた塾講師のバイトは時間効率が悪く金は貴重だったが、父の単身赴任先に出向くのならその交通費は持つという。するとどうだろう、新横浜から大阪までの交通費が浮くから、当然の如くこの機会に大阪から吉野に行ってしまおうと企てたのだった。
4月か、5月だったと思う。春というよりは初夏の陽気で、天気も良かったと記憶している。父と久しぶりに会い大阪に一泊したその足で、大阪から近鉄特急に乗り込み吉野駅に向かう。シーズンでもないから、特急は空いていたことをよく覚えている。
吉野に近づくと車窓から朽ちた民家がちらほら見えるようになり、それから列車の両側が山の斜面となる。まるで谷を行く列車のようで疎開するかのような気持ちになった。吉野駅に近づくと、さくらさくら、が到着前に流れる。誰一人いない特急列車の中でそのメロディーを聞いて得も言われぬ興奮を覚えた。
吉野は折り重なる木々の中に寺の水煙のきっさきがのぞき、入り口あたりの土産屋や旅館、民宿などはシーズンではないため閉められている。青々とした木々の中、誰一人いない中道を歩いた。
順路にある地図を見て、あれが青根ヶ峰であると特定したのはしばらく歩いてからのことだった。その時から青根ヶ峰が一番キレイに見える場所まで歩くことが目的に変わっていた。歩いては青根ヶ峰が見えるたび立ち止まって食い入るように眺めた。
青根ヶ峰。根という文字は、道や川の付け根という場合に使われる。青は、植物や木々の青々としている場合や何かが合流する場合の合うという意味だと思われる。
万葉集には、
『み吉野の 青根が峰の 蘿蓆 誰か織りけむ 経緯(たてぬき)無しに』
(吉野・青根ヶ峰の、縦糸も横糸もないくらいに敷き詰められた苔蓆は、一体だれが織り上げたのだろう。)
とあり、これが由来なのではないかと思われる。苔や木々が青々とした、吉野川の源流の付け根となっている山だから、青根ヶ峰。
深い濃い青根ヶ峰の山容を眺めていると、日差しがそのモスグリーンを反射する。目がくらんでそのモスグリーンを下地にして、群青色が広がってゆく。ずっとそれを眺めているうちに、青、はこの浮き上がるような群青色を指しているのではないかと思われた。
当時直感的に思い浮かんだ仮説はこうだった。1300年以上も前の人々も、この『み吉野』の山々に見惚れていた。そしてその照り返されるモスグリーンの中に、群青色を見る。吉野川の源はどうやらあの群青の中にあるようだ...。それが青根ヶ峰と呼ばれた山だった。
登山を始めた今、また同じ時期に青根ヶ峰へまた行こうと思っている。
青根ヶ峰の話、落ちついた文体にとても情緒ある表現にすっかり引き込まれてしまいました(^_^)
実は5年ほど前に大峯奥駈道を半分歩いたのですが、柳の渡し・美吉野橋をスタートして金剛峯寺・奥千本を抜け、青根ヶ峰に辿り着いたのは午後3時を廻っていて焦ったのを覚えています。四寸岩山を越える頃には日が暮れて、暗い中でテントを設営していました。そんな記憶も辿りながら読ませて頂きました。
ぜひ青根ヶ峰への登山を実現されて、また新たな物語(レコ)をアップされることを楽しみにお待ちいたします。
※その時の写真を1枚(^_^)
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/photodetail.php?did=1626231&pid=b2d0f6dd46c68dd28b9a5696ba9e3c75
暖かくなってきたなぁと思っていたら、ふいに思い出されました。
道中のことはかなり記憶も薄れているのですが、あの深い緑はなぜかずっと記憶に焼き付いています。
としみずさんは厳しい修験の路を辿られたのですね。
古道を今も巡っている方がいらっしゃるのは不思議な気持ちになります。
そして添えて頂いた写真は、仄暗い木の間から幽とした景色が趣深いですね。
参考記録は本当にこまめに情報をお調べになられているようで、参考にさせて頂きます。
山に呼ばれたからには、青々とした姿に会いに行こうと思います。
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