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緊急度 3山の情報
野呂川、深沢下降点の吊り橋はいつまで使えたのか? 1974年5月のこと
質問2022年08月06日 11:15 (2022年08月17日 19:17更新)
1974年5月11日(土)、1泊で北岳を目指した。当時、マイカー規制はなく、バスも5月には広河原まで通じていた。
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-1703005.html

深沢(下降点)バス停。


急斜面を野呂川まで下りたが、橋が無い。5月の野呂川は雪溶け水で増水、体ごと簡単に流されるほどの濁流で徒渉は不可。
1977年07月23日(土)の kazusan1さんのヤマレコでは、橋は壊れていたと書いてあった。確かに、上の方に壊れた吊り橋があったような記憶も有る。

林道に登り返し、広河原まで林道を歩き、草すべりから登ることにした。草すべりにツエルトで露営。登頂後、白根御池小屋経由で広河原に下山。


深沢下降点から下れば橋が有ると信じていた。インターネットなどない当時、このような情報の伝達に時間がかり今とは隔世の感がある。

質問:
1.野呂川の吊り橋はいつまで使えたのか?
2.できれば吊り橋の画像を見たい。
3.当時、鷲ノ住山からのルートはすでにあったのか?
登山者にはその情報が伝わってなかった。
4.鷲ノ住山からのルートは1974年当時なかった。

長い年月、モヤモヤしていたが、ぽっくり行く前にはっきりさせたいと思い質問しました(笑)
よろしくお願いします。
回答2022年08月17日 17:48 (2022年08月17日 19:17更新)
手元にある山と渓谷社「南アルプス」アルパインガイド
昭和42年(1967)発行、昭和46年(1971)4月1日 7版
を見ると、荒川本谷から農鳥岳へのルート案内中に鷲住山から野呂川への
下降ルートが紹介されてました。
略図には野呂川を渡る手前に荒川小屋の表示。
奈良田からの電源開発道路を歩くよりも時間的に有利という内容です。

池山吊尾根へのルートは深沢下降点からのルートが案内されてます。
略図には深沢下降点からのルートは2つあり、直接吊尾根末端へ下る道と、
広河原方向へ車道を少し辿った後野呂川を吊り橋で渡り、
今の地図に出てるあるき沢橋手前から登るルートです。
案内されてるのはあるき沢橋からのようです。

私も北岳へ向かう途中、深沢下降点バス停と、たぶん鷲住山で大きなキスリングザックを背負った一団が下車した事と共に記憶に残ってます。未だカールの旧北岳小屋にテント泊が見られ、北岳稜線小屋と言われた頃でした。
結構モヤモヤはあります。
お礼 
その後、県庁や早川町、芦安村等、電話しまくりましたが、結局わからずでした。現地の状況を知る方は、退職後10年以上経過してるので、わからないとのことでした。

ただ、芦安資料館で1日時間をかけて調べれば分かるかもしれないという情報も得ました。

分かったことは、1970頃は、バス停の深沢から真っ直ぐ下り対岸に渡ったところに吊尾根の末端があり、そこが尾根取り付きのようでした。歩き沢橋からののルートはその後できたのか、すでにあったのかイマイチ分かりませんでしたが、いま現在は歩き沢橋が主流のようで、尾根末端からのルートは廃道化いてるようです。

鷲住山から野呂川への下降ルートは農鳥岳方面に行く方が利用したんですか。なるほど。
深沢下降点からのルートは2つありは、興味を引きますね。芦安資料館に行ったら、そちらも調べてみます。

旧北岳小屋って北岳山荘の100mちょい下ったところの北岳小屋跡のことですよね。
1976年8月1〜3日に白根三山縦走したときには、北岳山荘の前がテン場でしたので、それより随分前の話ですよね。北岳山荘の前でテント泊↓
https://yamareco.org/modules/yamareco/upimg/167/1671476/b2f0656797e8d71547419d6fc8f85de1.JPG
toshiyukjさんは大先輩なんですね。

荒川から農鳥方面にも行ってみたい夢というかロマンがありますが、爺がソロで行けるところではないことは百も承知です。

少しずつ絡んだ糸がほぐれてきました。

回答ありがとうございました。
回答2022年08月07日 12:14 (2022年08月07日 12:52更新)
自己回答です。その後調べて分かった範囲ですが。

★1968年1月1から6日
http://hobofuji.chips.jp/1yamanituki/kitadake/kitadake.htm
深沢から野呂川まで下降し、一人一人傾いて橋げたの所々飛んだ吊橋を渡る.とあます。
つまりその時までは吊橋が渡れたということ。
その当時の吊り橋の画像。
http://hobofuji.chips.jp/1yamanituki/kitadake/IMGP1345.JPG

★南アルプス 白峰三山縦走 1974(S49)年12月28日〜1975年1月2日
http://watacchi.com/mountain/7501-1.html
私と同じ年の1月の記録。しかし11月中旬に行った偵察山行の結果、深沢下降点の野呂川に架かる吊り橋の破壊....最終的には奈良田から入山することに決定した。とあります。

★夏の池山吊り尾根から北岳 1992年8月23〜24日
http://sudo.life.coocan.jp/920822kitadake/9208.htm
深沢バス停隣の赤リボンから廃道化した道を2時間近くかけて河原に下る。途中急なガレ場を懸垂下降したとあります。
そして「ガイドブックには今回私が降りた深沢下降地点からの路がまだでている物もあります」と書かれてるのでガイドブックを信じて深沢下降地点から降りたのでしょう。多分、私も彼と同じ理由で深沢下降点から降りたのでしょう。ただ私の時は、まだ道はしっかりしていた。
私の時からすでに18年経過してても、鷲ノ住山からのルートは周知されてなかったようです。


分かったこと。1968年1月時点では吊り橋は使えた。
なぜ、1970年代に鷲ノ住山からのルートが出てこないのでしょうか。
推測するに、鷲ノ住山下に発電所の設備があるので、河原までの道はあったが、そこに対岸に渡る橋はなかった。

以上は8月7日の自己回答。他に分かったことがあれば、この下に追記します。
回答2022年08月07日 12:09 (2022年08月07日 12:51更新)
お久しぶりです、以前もこのようなご質問を拝見し、体験や実際に見たわけではないのですが回答させていただいた者です。避難小屋のお話だったと記憶しています。
今回もネット検索で見つけた記事で恐縮ですが、GOOGLE画像検索で「野呂川、深沢下降点の吊り橋」と検索すると、白黒の古い写真が出てきました。登山記事もあるようです。1968年の記録かな?記事に日付あり。すでにご存じでしたらご容赦ください。↓
http://hobofuji.chips.jp/1yamanituki/kitadake/kitadake.htm

写真はこちら
http://hobofuji.chips.jp/1yamanituki/kitadake/IMGP1345.JPG

昔はこういった個人運営のサイトが数多くあり、山の情報も面白くて見ていたのですが、snsの普及ですっかり減ってしまいました。すでに閉鎖されたサイトも数多く・・・
お礼 
お久しぶりです。
って言いながら、思い出せませんm(__)m。
最近特に物忘れが酷く、今朝何食べたかも思い出せないんです。
kuraganeさんの回答、ちょうど私が自己回答書いてるときで運悪く見られませんでした。

1968年の記録と吊り橋の写真は。私も見つけました。
これで吊り橋の写真の件と、いつ壊れたかもおおよそ分かりました(1968年1月から1974年5月の間)。
一番モヤモヤしてるのは、鷲ノ住山からの降った先の発電所設備から、いつ、橋ができ登山者が通れるようになったか?です。
当時、鷲の住山から発電所設備までの道はあったような記憶が僅かにあります。しかし対岸に渡る記録はなかったので深沢から降りたのだと思います。

回答ありがとうございました。
回答2022年08月06日 20:41 (2022年08月06日 21:33更新)
昭和50年の3月に深沢下降点から三伏峠まで歩きました。その時点でつり橋は崩壊しているという情報は得ていました。野呂川は渇水期で雪代の出る前の早朝でしたので流木を使って簡単に渡ることができました。昭和52年発行の「アルパインガイド南アルプス」白籏史朗著に本文中にも地図上でも深沢つり橋は老朽化で使用不可と記されています。実際のところ河原で見まわしましたが、つり橋の痕跡は見当たりませんでした。池山吊り尾根は当然末端から登りましたが、雪をかぶってとてもきれいな森でした。なを鷲住山のルートは当時から記載はありました。
お礼 
昭和50年だと1975年で、私の1年後ですね。私はどこから情報を得たのか思い出せませんが、とにかく深沢下降点でした。
1977年07月23日(土)、kazusan1のレコ
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-2539991.html
によると、「深沢下降点から降りた所の吊橋が壊れており、野呂川を渡渉。」と書かれてます。私より3年後でも鷲住山のルートからではなく深沢下降点でした。

ということは、鷲住山のルートを知らなかった方も一定数いたということですね。
私が行った1974年は昭和49年で、昭和52年発行の「アルパインガイド南アルプス」は見ること能わずでした。

しかし、今なら間違いなく、深沢BSの下降点にロープが張られ「吊り橋崩壊のため通行止め」と書かれ、「迂回路は鷲住山」と書かれていたことでしょう。とりあえず、登頂はできたので、悔しいとも思いませんが、吊尾根が未踏になってるので、近い将来リトライします。

鷲ノ住山からのルートは昭和50年時点であったのか!
しかし、いつ橋が壊れ、いつから鷲住山のルートができたのだろう?

回答ありがとうございました。