近畿
楯岩城跡(たていわじょうせき) / 太田城

最終更新:Ham⭐
基本情報
場所 | 北緯34度50分25秒, 東経134度36分29秒 |
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楯岩城(太田城)
https://www.nishiharima.jp/yamajiro/tateiwajo_page
楯岩城(太田城)
大岩が楯のように並ぶことからその名がついたといわれる楯岩城は、揖保郡と飾磨郡の境で、眼下に山陽道(西国街道)を望む重要な位置にあります。資料が少なく、具体的な姿はよくわかりませんが、江戸時代の地誌『播磨鑑』によると南北朝の頃(650年余り前)の赤松刑部少輔則弘(広岡氏の祖)が最初の城主で、その後、嘉吉から天正の頃(1440〜1580年代)まで栄えました。戦国時代には広岡氏が居城し、永正18年(1521)、播磨国守護・赤松義村と守護代・浦上村宗の争いの最前線にあって緊迫した様子が、斑鳩寺に伝わる鵤荘政所の記録『鵤庄引付』に記されています。その後、羽柴秀吉が播磨の国を治めるようになって廃城になりました。 令和2年度 兵庫県・太子町
(出典:若王子神社に立つ看板)
https://www.nishiharima.jp/yamajiro/tateiwajo_page
楯岩城(太田城)
大岩が楯のように並ぶことからその名がついたといわれる楯岩城は、揖保郡と飾磨郡の境で、眼下に山陽道(西国街道)を望む重要な位置にあります。資料が少なく、具体的な姿はよくわかりませんが、江戸時代の地誌『播磨鑑』によると南北朝の頃(650年余り前)の赤松刑部少輔則弘(広岡氏の祖)が最初の城主で、その後、嘉吉から天正の頃(1440〜1580年代)まで栄えました。戦国時代には広岡氏が居城し、永正18年(1521)、播磨国守護・赤松義村と守護代・浦上村宗の争いの最前線にあって緊迫した様子が、斑鳩寺に伝わる鵤荘政所の記録『鵤庄引付』に記されています。その後、羽柴秀吉が播磨の国を治めるようになって廃城になりました。 令和2年度 兵庫県・太子町
(出典:若王子神社に立つ看板)
展望ポイント |
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