(湯ノ沢峠P)→大蔵高丸→ハマイバ丸→大鹿山→(景徳院P)
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- GPS
- 05:19
- 距離
- 12.0km
- 登り
- 404m
- 下り
- 1,329m
コースタイム
↓ (ツアーバス)
景徳院P 0945頃
↓ (タクシー)
湯ノ沢峠P 1025頃
↓
湯ノ沢峠 1039
↓
大蔵高丸 1108 1113
↓
ハマイバ丸 1136
↓
昼食地 1139 1200
↓
米背負峠 1240 1245
↓
大谷ヶ丸 1303 1308
↓
コンドウ丸 1344 1349
↓
景徳院P 1528 1545
↓ (ツアーバス)
大和天目山温泉 1557 1655
↓ (ツアーバス)
新宿 2000頃
天候 | 晴れ時々曇り |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2011年05月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
バス タクシー
|
コース状況/ 危険箇所等 |
危険個所無 |
写真
感想
山名の由来(参考)http://yuyusyumi.hobby-web.net
【大蔵高丸】
湯ノ沢峠から水晶薙の白い崩壊地を覗きながら3,40分登ると大蔵高丸(1781m)の峰頭に立つ、南西面の大倉沢のツメに当る丸頭だからそう呼ぶ。この峰は北方湯ノ沢峠から至る他に、日川から大倉沢を登ってくることもできる。クラは岩石の意で、この沢には露岩が多いが気楽に遡行できる。大倉沢出合から三時間くらいであろう。
出典:岩科小一郎著 大菩薩連嶺 朋文堂 P254
【ハマイバ丸】
丸の語源を山岳会で初めて研究したのは小暮理太郎(初代の日本山岳会長)だった。1936年、「マル及ムレについて」(「山の憶ひ出」に収録)を発表した。それによると、マルは古い朝鮮語の山を指す「モリ」、現代語の峰を指す「マル」が語源ではないかという。根拠として小暮は、持統天皇や続日本書紀に百済人を甲斐に移すという記述があることを指摘。600年代後半から大化の改新を挟んで700年代後半にかけ、多くの百済人が桂川流域に集団で移り住んだ。渡来人が付けた山名であることは、今はほぼ定説となっている。出典:山梨百名山 山梨日日新聞社 P134
山村正光氏の説『正月17日、この土地の山仕事をする人たちが、南方の滝子山の西の浜立山(破魔を立てる山)に向かって矢を射る。そして山神の加護を願い、身の安全、豊猟などを願った。その矢を射た山をハマイバ丸というようになったのではないかと。(そして最後に山村正光氏はこう結んでいる)とにかく、この大菩薩南嶺は不思議な点が多すぎる。』ハマイバ丸山頂から南に数分行くと、眺めの良い場所がある。そこが破魔射場なのだそうだ。
【コンドウ丸】
古名を金洞丸(コンドウマル)の峠といった。この峠道は、田野部落から曲り沢に入って、境沢の分岐から白くザレたコタカンス(沢名)を登り、七曲りのジグザグを経て峠に達し、尾根通し平ッ沢側を絡んでダラダラ登る大谷ヶ丸に行く道と分かれ、やや東の小尾根を絡み開墾地を抜けて南下、岱の久保(ヌタノクボ)のドウを沢沿いに下って、桑原平で大鹿峠の道と合するもので五万図にはこの記載を欠いている(二万五千図にはある)。平ッ沢峠は元来里道ではなかった。昔時、田野方面の人たちが盗伐に往来したためにおのずと道形を生じたもので、その当時は金洞丸付近は頻々と焼かれたそうである。そのため現在でもここの樹木の成長は非常に遅いという。出典:岩科小一郎著 大菩薩連嶺 朋文堂 P260
【感想】
湯ノ沢峠に行く手段はタクシーぐらいしか無いので、毎日新聞旅行のツアーを利用する。満席の22名参加+添乗員2名で出発。若干の渋滞はあったものの、30分遅れぐらいで景徳院の駐車場に到着。 湯ノ沢峠には、11人乗り以上の車が入れないので、景徳院でツアーバスからタクシーに乗り換え、湯ノ沢峠までゆっくり登っても10分ぐらいで行けてしまう駐車場に着く。GPSのトラックが示すように、今回、登りは、大蔵高丸と大谷ヶ丸に少しあった程度で、ほとんど下るだけの山旅だった。
湯ノ沢峠から、なだらかにゆっくり登って着く大蔵高丸は、草原上のたおやかな頂上で、富士、御坂、南アルプスの眺めが良い。振り返ると黒岳、雁ヶ腹摺山の眺めが良い。ここからハマイバ丸までは、眺めの良い草原上の道が続く。ハマイバ丸山頂の少し先の破魔矢を射たと思われる場所で昼食になる。ハマイバ丸からは、桜や曙菫(アケボノスミレ)が咲いている笹と雑木の混じる中を行く。新緑はまだ遠い。天下石という立派な名前の割には、変哲が無い石のところで、やや南に向きを変え、名前の感じが良い米背負い峠に至る。このあたりから、少しづつ新緑が混じるようになる。そこから、今回の山旅では、一番の登りをこなし大谷ヶ丸に着く。雑木に囲まれ展望はあまり無い。大谷ヶ丸から40分ほどでコンドウ丸につく。立派な看板があるが、ここも木立に囲まれ展望は無い。コンドウ丸からは、曲がり沢峠を経て、大鹿山に至る。ここにも立派な看板があるが、やはり木立に中で展望は無い。大鹿山から、ちょっと急に下り大鹿峠に出る。ここは、2008年3月に、笹子雁ヶ腹摺山・お坊山に行った時の下山口である。ここから景徳院まで割と広いゆっくり下る道だったような記憶があったが、実際は、狭く記憶よりは急に下って行く道で、記憶とはかなり異なっていた。ただ、左手に見える特徴的な山の形には記憶があった。最後に、民家の庭先(ここは記憶があり、民家のおじさんと話をした場所だ)を通らせてもらって、景徳院駐車場に着く。武田勝頼を弔うために徳川家康が立てたという景徳院を少し見学する。山門は創建当時のものが残っているらしい。その後、ツアーバスで10分程湯ノ沢峠方面に行った所にある天目山温泉で入浴する。天目山温泉は、有数のアルカリ泉ということで、 (別にうれしくはないが)肌がつるつるになる。最後に、中央高速で事故渋滞に巻き込まれたが、20時頃には新宿に着く。震災の影響で、相変わらず間引き運転している山手線は混んでいた。
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