天皇陵巡礼2(御所〜高取/ 孝昭・孝安・皇極-齊明の四代・三天皇 + 草壁皇子)


- GPS
- 03:21
- 距離
- 12.8km
- 登り
- 172m
- 下り
- 144m
コースタイム
- 山行
- 2:35
- 休憩
- 0:53
- 合計
- 3:28
天候 | 晴れ・曇り |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2017年06月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
●帰り = 壺阪山 14:23 (近鉄吉野線急行・大阪阿部野橋行・710円) 阿部野橋 15:12 |
写真
感想
天皇陵巡り第2弾は、第5代 孝昭天皇陵、第6代 孝安天皇陵、第35・37代 皇極・齊明天皇、プラス 草壁皇子陵を廻る。
近鉄御所駅は久しぶり。葛城山を最後に登ったのはどのルートでだったか。
金剛山地を右手にしながら南下。
鴨都波 (かもつば) 神社に寄る予定はしていなかったが、雰囲気がよさそうなので吸い込まれた。アジサイ咲く林の中の参道がいい。
その先のコンビニで 寿司飯のおにぎりみたいなものふたつを買ったが、孝昭天皇陵はそこからすぐだった。
そこから蛇穴 (さらぎ) の集落を通るが、方位磁石を忘れたため、ちょっと迷ってしまった。しかし金剛山地の位置によって ほどなく間違いに気付くことができた。
蛇穴の昔ながらの町並みを楽しむが、すぐに抜け、周囲は田んぼに。
草むらから「ギョギョシギョギョシ」の鳴き声。オオヨシキリだ。
しかし京阪奈自動車道をくぐる手前で、道が無くなった。
野良仕事をしておられるおばさんに あぜ道の行き方を教えてもらうことができ、迂回をせずに済んだ。
御所実業高の脇を進み、県道116号を横切って、万願寺参道の石標の立つ分岐を左折。
道標のある分岐を少し進めば、孝安天皇陵 着。とはいえ、御陵は森の中の石段を登った先。大変立派で威厳の感じられる御陵。奈良の町並みを見守っておられるようだ。
JR和歌山線 玉手駅を越えたところで、距離短縮のため 失礼して あぜ道ショートカット。
八幡神社からは県道118号を行く。殺風景であるうえ暑くて堪えるところだ。
郡界橋手前にはランチを検討していた喫茶店が。
車木の集落に入る。道標のある分岐。先に望まれる石段。立派な御陵であることが想像できる。
息を弾ませ 汗を掻き々々 石段を登っていくと、天武天皇妃大田皇女の御陵。
さらに登って皇極・齊明天皇陵 着。間人皇女・健皇子もここに葬られているということだ。
ここで失礼して、腹ごしらえ。「ホーホケキョ」が近い。
さて草壁皇子陵へ。
ここから距離があり、天皇陵でもないので 行くこともないのだが (皇子陵まで行っているときりがない)、地図上に「岡宮天皇陵」と書かれていることに、誰だ??と興味を持ち、草壁皇子だとわかって、ついでに参拝しようということになった。
兵庫の集落を抜け、県道118号から薩摩の集落へ。ともに名前が面白い。
森の集落から北上して、到着。
汗まみれのシャツを着替える。ポロシャツも替えたいくらいだ。
大いなる疲労感を感じながら、壺阪山駅へ。
電車はちょうど行ったところだった。特急をやりすごして、急行に乗車。
帰ってからログを見てみると、12キロ以上歩いている。これからますます暑くなるので、10キロ以内に収めたいところだ。
***
●第5代 孝昭 (こうしょう) 天皇
【諡号】観松彦香殖稲天皇 (みまつひこかえしねのすめらみこと)
【生没】前506〜前393年 (113歳)
【在位】前475〜前393年 (83年間)
【父】懿徳天皇 【母】天豊津媛命 (あまとよつひめのみこと)
【皇后】世襲足媛 (よそたらしひめ)
【皇居】掖上池心宮 (わきのかみのいけごころのみや) 現在の御所市池之内
【陵所】掖上博多山上陵 (わきのかみのはかたのえのみささぎ) 現在の御所市大字三室 ※山形
◇「欠史八代」のひとりで、記紀に事跡の記載なし。
后の世襲足媛は、中部地方の大豪族 尾張氏の遠祖である奥津余曾 (おきつよそ) の妹であるため、畿内政権と尾張氏との同盟が暗示されているのではないかとの説あり。
●第6代 孝安 (こうあん) 天皇
【諡号】日本足彦国押人天皇 (やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)
【生没】前427〜前291年 (137歳)
【在位】前392〜前291年 (102年間)
【父】孝昭天皇 【母】世襲足媛
【皇后】押媛 (おしひめ)
【皇居】室秋津島宮 (むろのあきつしまのみや) 現在の御所市室周辺
【陵所】玉手丘上陵 (たまてのおかのえのみささぎ) 現在の御所市大字玉手 ※円丘
◇「欠史八代」のひとりで、記紀に事跡の記載なし。
后の押媛は天足彦国押人 (あめたらしひこくにおしひとのみこと) の娘。天足彦国押人は古代の中央豪族 和邇氏の祖とされている。
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●第35代 皇極 (こうぎょく) 天皇、重祚し 第37代 斉明 (さいめい) 天皇
【諡号】天豊財重日足姫尊 (あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)
【生没】594〜661年 (68歳)
【在位】皇極:642年1月〜645年6月 (3年5ヶ月間) 斉明:655年1月〜661年7月 (6年6ヶ月間)
【父】茅渟王 (ちぬのおおきみ) 【母】吉備姫王 (きびひめのおおきみ)
【皇配】高向王、舒明天皇
【皇居】飛鳥板蓋宮
【陵所】越智崗上陵 (おちのおかのえのみささぎ) 現在の奈良県高市郡高取町 考古学名は車木ケンノウ古墳 ※円丘
◇時代は下って 飛鳥時代。神話ではなく 歴史として学校で教えられる時代。
先代 舒明天皇没後、皇位継承争いを回避するために その皇后 宝皇女 (たからのひめみこ) が即位した。
ただし政治の実権は完全に曽我氏に掌握されており、蝦夷・入鹿はまるで自分たちが天皇であるかのように振舞い、さらには聖徳太子の子 山背大兄王 (やましろのおおえのおう) 一族(上宮王家)を滅ぼした。
そのため 645年 (皇極天皇4年)、中臣鎌足と手を組んだ中大兄皇子が蝦夷を暗殺、入鹿を自殺に追い込み (乙巳の変)、半世紀続いた蘇我氏の体制を終わらせた。
皇極天皇は同母弟の軽皇子 (かるのみこ) (孝徳天皇) に譲位。これが日本初の譲位とされている。皇極天皇は皇祖母尊(すめみおやのみこと)という称号を奉られた。
◇孝徳天皇は大化の改新で次々と改革を進めたが、654年 (白雉5年) に病没。皇極天皇が重祚 (ちょうそ / 再び皇位につくこと) した (斉明天皇)。
とはいえ 政治の実権は皇太子の中大兄皇子が執っており、斉明天皇は土木建築道楽に明け暮れたため、批判されたとのこと。
対外的には 朝鮮半島の諸国と使者を交換し、唐にも使者を遣わした。また蝦夷 (えぞ) を平定。
しかし660年 (斉明天皇6年) 百済が唐と新羅によって滅ぼされる。遺民の抗戦を知ると、百済援助のため 九州筑紫の朝倉宮に移って戦争に備えたが、遠征前に崩御した。
なお 重祚はこれが初の事例で、この後も奈良時代後期の阿部内親王 (孝謙天皇・称徳天皇) の例があるのみ。皇極 ・斉明天皇は初の譲位と初の重祚をおこなった天皇ということになる。
***
◆草壁皇子 (くさかべのみこ・おうじ) は天武天皇と皇后 鸕野讃良皇女 (うののさららのひめみこ) (持統天皇) の皇子 (662〜689年)。
妃は天智天皇の皇女で持統天皇の異母妹である阿閇皇女 (あへのひめみこ) (後の元明天皇)。元正天皇、文武天皇の父。
681年 立太子。686年 天武天皇が崩御。しかし皇子の若さと大津皇子処刑に対する宮廷内の反感からか、鸕野讃良皇后は皇子を直ちに即位させる事はしなかった。
結局 皇位に就くことなく27歳の若さで薨去。
淳仁天皇即位後の758年、岡宮御宇天皇 (おかのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと) の称号が贈られ、岡宮天皇とも称されるようになった。
◆大田皇女 (おおたのひめみこ) は天智天皇の皇女 (?〜667年)。母は遠智娘 (おちのいらつめ)。同母妹に鸕野讚良皇女 (持統天皇)。同母弟に建皇子がいる。
鸕野讚良皇女とともに大海人皇子 (天武天皇) の妃となり、大伯皇女 (おおくのひめみこ)、大津皇子を生むが、夫の即位前に亡くなった。
祖母 斉明天皇、叔母 間人皇女とともに葬られた。
◆間人皇女 (はしひとのひめみこ) は孝徳天皇の皇后 (?〜665年)。父は舒明天皇、母は皇極天皇 (斉明天皇)。天智天皇の同母妹、天武天皇の同母姉にあたる。
斉明天皇陵である越智岡上陵に合葬された。
ちなみに カニで有名な京丹後市の「間人 (たいざ)」の語源とされるのは聖徳太子の母の穴穂部間人皇女で別人。私はゴッチャになっていた。
◆建皇子 (たけるのみこ) は天智天皇の第二皇子 (651〜658年)。母は遠智娘。同母姉に大田皇女、持統天皇がいる。
言葉を話せないという障害を負った皇子を祖母 斉明天皇は可愛がり、自分が崩御した際 一緒に埋葬せよと命じたとのこと。しかし 斉明天皇陵には間人皇女と大田皇女が合葬されていると書かれ、建皇子の埋葬については書かれていないとのこと。
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