船通山 宣揚祭
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船通山鳥髪宮由緒書
建立者 内藤岩雄氏末子 内藤英雄氏記(抜粋)
「古事記」「日本書紀」の神代の巻にスサノオノミコト比乃川上に八岐の大蛇を退治した。
その折、大蛇の尾から剣が現れ、
天照大神へ献上されたという。即ち天叢雲之剣(あめのむらくものつるぎ) 出雲国風土記には記載なし
十二代景行天皇御台皇子日本武命(ヤマトタケルノミコト)駿河国焼津に於いて、蝦夷を征伐された折、賊の放った火に囲まれた時、天叢雲之剣で周囲の草を薙ぎ給うと、火は賊の方へ流れたという。それ以来、草薙剣と申し上げ三種の神器の一つとして天皇御即位の御徴とされた。
大正12年(1936)宮内省は船通山頂の島根県側に、天叢雲之剣出現地と直刀を型どる表徴の石碑を建立。
現存する石碑は、昭和五十年八月、落雷の為、台のみを残して破損、直ちに船通山宣揚祭復活祭主催の日南町と横田町と相計って、再建の議が起こり、翌年の七月二十八日、第九回の船通山宣揚祭復活祭に再建除幕式が挙行された。
内藤岩雄が日野郡神職会長として斎主となり、第一回の頂上宣揚祭を挙行したのは、昭和五年六月二十一日のことである。中略
(祭典場所で鳥取県側と島根県側が論争あり内藤岩雄氏が私財を投じて山頂付近の土地を購入)
・・・昭和十二年、遂に石の宮を建てたのである。即ち、船通山鳥髪宮である。地元萩山部落全戸が立ち上がって男女総出で、石の宮を頂上へ運んだ。雪橇を振って激励し、平穏を祈願した。岩雄、時に六十五歳であった。(中略)
今日、熱田神社に鎮まりまします草薙剣即ち天叢雲之剣の御神霊、少なくとも年に一度は故郷即ち船通山にお帰りになりたいであろう。・・・昭和十九年九月三日逝去
辞世の歌
吾魂は鳥髪の峯にとどめ置きて
護り奉らん 皇御国を
神域宣揚祭の復活(抜粋)
内藤岩雄先生没後二十五年にして、再び日野郡神職会の非常な決意により、先生の信念を忖度して、遂に昭和四十三年七月二十一日を期して復活し、船通山頂に於いて荘厳な宣揚祭を挙行し、爾来毎年山頂祭を挙行・・・
神域船通山宣揚祭復活趣意書(抜粋)
昭和五年七月時の日野郡神職会長内藤岩雄氏は、此の神域宣揚のため、神域五町余を個人で購入し山頂に石宮を建て、日野郡神職会が主催の中心となって盛大な宣揚祭を挙行し、県内外朝野名士を招いて御神徳の顕彰を行い、熱田神宮奥宮建設を計り、郡民亦之に賛同して数千人が参拝し此の壮挙を賑わした。
爾来十二回七月二十八日を期して宣揚祭を挙行し年々盛大を極めた。然るに惜しい哉、内藤氏逝いて久しく中絶するのやむなきに至り、かてて加えて戦後の思想的混乱はその極みに達し思へど志しまとまらず現在に至った次第であります。・・・
神舞
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