2017年5月24日午後、津幡・金沢から加賀・福井へー七野墳墓群・カン山前山古墳群


- GPS
- 32:00
- 距離
- 55.9km
- 登り
- 333m
- 下り
- 317m
コースタイム
天候 | くもり時々雨 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2017年05月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車 タクシー
|
写真
感想
午前中の富山市内の遺跡見学を終え、津幡町に移動。津幡は歴史のある町だ。古くは河北潟の東端にある津(港)のある交通の要所、また倶利伽羅峠などの史跡でも知られる。まず昼過ぎにタクシーでふるさと歴史館に向かい、展示を見る。撮影は残念ながら許可されない。縄文から現代までの様々な出土品展示やパネルが回廊のように並ぶが、メインの一つは加茂遺跡。その出土品の一つ「加賀郡牓示札」(かがぐんぼうじふだ)」(平安前期=9世紀前半)は、交通の要衝に建てられた古代の(最古の)お触書とみなされている。
「津幡町英田(あがた)地区の加茂区にある加茂遺跡は、古代の交通史を考える上で重要な遺跡として注目されています。加茂遺跡の調査は、国土交通省が施工する国道8号(津幡北バイパス)の改築工事に伴い行われました。これまで6回の発掘調査が行われ、その結果、弥生時代から室町時代にかけての遺跡であることが分かりました。奈良、平安時代については、五畿七道(ごきしちどう)の1つである古代北陸道と河北潟に向かい流れる大溝(おおみぞ)、掘建柱建物(ほったてばしらたてもの)群、井戸などが発掘され、また、出土遺物には木簡(もっかん)、漆紙文書(うるしがみもんじょ)や大量の墨書土器などの文字史料や帯金具、瓦など一般集落ではあまり出土しない遺物も含まれています。これらのことから、同遺跡は陸路と河北潟を介した水路の両交通の要衝に位置する官衙(かんが=役所)であったと考えられています。
同遺跡から発見された「加賀郡牓示札」(かがぐんぼうじふだ)は、律令政府が人々に向けて出した命令に、加賀国と加賀郡がそれぞれ文書を付け、加賀郡が郡内の村の有力者に宛てて出した命令書です。平安時代の前半にあたる嘉祥年間(848〜851年)に書かれました。その用途は、禁令などを交通の要衝に掲示し、律令政府の命令を広く伝達するもので、いわば古代のお触れ書であることがわかりました。
その内容からは、勧農政策や命令伝達の方法、文書行政の実態、律令制の変容など、当時の状況を具体的に知ることができます。また、地名・人名などの固有名詞を除けば、全国的に通用する内容です。おそらく同様の牓示札が全国に掲示されていたと思われ、加茂遺跡での発見はその第1号で、文字が明瞭である点では、国内の同種資料の中でも第1級の折り紙が付けられています。
牓示札の大きさは、縦23.7センチ、横61.3センチ、厚さ1.7センチです。上下の割れた部分を復元すると、およそ1尺×2尺となり、古代の紙と同じ大きさになります。ヒノキの横板を用いており、27行360字が書かれていたと考えられます。この牓示札は現在、石川県立歴史博物館(金沢市出羽町3-1)1階の第1展示室で常設されています。
牓示札が出土した場所は、国道8号線(津幡北バイパス)の加茂インターチェンジを降りた陸橋下にあります。「加茂遺跡広場」として整備され、南側に駐車場があります。
◆2010(平成22)年6月29日 石川県重要文化財指定」(津幡町)
また次に倶利伽羅峠の古戦場や北国街道に関する展示も目をひく。
「石川県と富山県にまたがる歴史国道「北陸道」が走る倶利伽羅峠は、1183(寿永2)年の源氏と平家が興亡の明暗を分けた倶利伽羅源平合戦の舞台となったところです。中でも、『源平盛衰記(げんぺいせいすいき)』に記された木曽義仲(きそ・よしなか)による「火牛の計(かぎゅうのけい)」はあまりにも有名です。
1183(寿永2)年5月11日、平家軍の総大将、平維盛(たいらのこれもり=清盛の嫡男重盛の長男)は、倶利伽羅山中の猿ヶ馬場(さるがばば)に本陣を敷いて、7万余騎の軍勢とともに木曽義仲率いる源氏軍を待ち構えていました。一方、義仲は埴生八幡宮(はにゅうはちまんぐう)で戦勝祈願を行った後、平家の動きに合わせて味方の軍を7手に分け配置させ、夜が更けるのを待っていました。夜半に北側の黒谷の方角から、400から500頭もの牛の角に松明(たいまつ)を付け、4万余騎の軍勢とともに平家の陣に突入しました。昼間の進軍で疲れ切っていた平家軍1万8千余騎は、源氏軍の奇襲に混乱し、何もできずに追い詰められ、人馬もろとも地獄谷に突き落とされました。」(津幡町)
館を出て次に七野墳墓群に向かう。弥生終末期の墳墓群で2号墳は四隅突出型=出雲地方との交流を想起させる。まだ新しい倶利伽羅不動寺鳳凰堂が墳墓群の直下に建てられ、威容を誇っているが墳墓群は3基が辛うじて保存されたようだ。
「七野墳墓群は、津幡町七野の丘陵地上に立地する、12基からなる弥生時代終末期の墳墓群です。眼下に富山に抜けていく道があり、西には金沢平野を見渡すことができる交通の要衝に位置しています。最も高い場所に位置する1号墓には10もの墓坑が存在し、素環頭刀子(端部に環のついた刀子)や多くの管玉・ガラス玉が副葬品として発見されています。約1800年前の河北潟東岸における有力者一族の墓だと考えられます。
現在は2・3・4号墓が保存されていますが、2号墓は「四隅突出墓」という正方形の角が外側に伸びた形をしています。これは山陰地方によく見られる形で、当時の北陸地方と山陰との地域間交流を裏付ける好資料です。」(津幡町)
お寺の奥から墳墓群に上るが、そのうち二号墳が四隅突出型、注意深く観察しないとどこが違うかよくわからない。1号墳は奥の大きな墳丘か?しかし保存されたのは2,3,4だけというと???その奥にお寺の大きな施設と「心」と書かれた真新しい黄金の仏様が鎮座しており、「こころ」が文化財を破壊している?
津端に戻って金沢に出て石川県埋蔵文化財センターを訪問、八日市地方遺跡など弥生の大集落(小松市)や江沼、加賀、能美、能登などの核地の古墳と豪族などに関する展示を見る。先の津幡町の「加賀郡牓示札」(かがぐんぼうじふだ)の展示もあったはずだが、この時はこの古代史料の重要性に気付かず、通り過ぎてしまったか?写真が見えない。石川県の弥生・古墳時代の概要を頭に入れ、次に加賀の分校前山古墳群に向かう。加賀温泉駅からタクシーでその一端のカン山前山古墳群のハイキングコースに入る。ここは出現期古墳を含む古い古墳群で多くの墳丘が尾根上に残され、貴重だ。登っていくと、最初にこの支群最大最古の1号墳がみえる。むろん出現期なので規模は小さいが。尾根上にはおびただしい数(30基以降)の初期古墳が連なっている。しばらく尾根上を散策し、下山して、次の目的地、福井の宿に向かう。
参考資料
分校前山古墳群
「分校古墳群は分校町前山、チハカ山、松山町大山の三支群からなり、国の重要遺跡に認定されている。前山支群は3世紀に遡る古墳群で、加賀市では最古と判断される前方後円墳四基が尾根上に分布しており、円墳、方墳合せて30基以上があったと推定される。一部が過去の土砂採取で消滅しているが、現在23基が確認されている。国の重要遺跡にも認定されており、加賀市の歴史上貴重な遺跡である」(加賀市)
「 3世紀後半から7世紀におかけての古墳時代、当地方でも多くの古墳がつくられています。古墳は力のあった豪族や一族のお墓で、加賀市では、特に分校町の国道8号線付近や吸坂町から黒瀬町に至る丘陵地などで数多く確認されています。また、片山津玉造遺跡や国指定史跡で法皇山横穴群や狐山古墳などは全国的によく知られた古墳時代を代表する遺跡です。
分校ぶんぎょう町から松山まつやま町にかけての丘陵地には40基あまりの古墳が密集みっしゅうしており、全体を分校古墳群と呼んでいます。この古墳群は、分校前山まえやま古墳群、分校地ち墓山はかやま古墳群などの支群に分かれていますが、特に、分校前山古墳群からは中国製で、大和朝廷が江沼の王に与えたものではないかとされる「鋸歯文縁方格矩四神鏡」と称する当地方では最も古い鏡が発見されています。
南郷町から吸坂すいさか町、上河崎かみかわさき町にかけての丘陵地きゅうりょうちには、およそ85基きもの古墳が密集しており、南郷・黒瀬くろせ古墳群と呼ばれています。このうち、支群しぐんである吸坂すいさか丸山まるやま古墳群こふんぐんからは、鉄製てつせい冑かぶとをはじめ、鶏形にわとりがた土製品や金製きんせいの耳環など、貴重きちょうな副葬品ふくそうひんが出土しています。
市内片山津町かたやまづまちの西側の台地だいちでは、昭和34年、35年の発掘はっくつ調査により、4世紀から5世紀前半ぜんはんにかけての玉造たまつくり職人集団が住んでいたとされる片山津玉造遺跡が発見されました。ここでは、33基の住居と工房こうぼうを兼かねた竪穴式たてあなしき住居じゅうきょ跡あとが発見され、首飾くびかざりなどの装飾品そうしょくひんに使う管くだ玉たまや勾玉まがたまなどの玉類ぎょくるいを製造せいぞうしていたと考えられています。ここで使用されていた原石げんせきの多くは緑色凝りょくしょくぎょう灰かい岩質がんしつの頁けつ岩がんで、これらは動橋川の上流じょうりゅうで採取さいしゅしたものと考えられています。
一方、昭和7年に、二子塚ふたごづか町地内で、動橋川の堤防ていぼう工事のために必要ひつようとする土つち取とりをしていたところ、箱型はこがたの石棺せっかんが発見されました。調査の結果、5世紀中頃の前方後円墳ぜんぽうこうえんふんだと分かりました。これが、現在、国くに指定してい史跡しせきとなっている狐山きつねやま古墳です。石棺の中からは、成人せいじん男子だんしの人骨じんこつのほかに銅鏡どうきょう「画が文帯もんたい神しん獣じゅう鏡きょう」や銀製帯ぎんせいおび金具かなぐ、刀かたななどが発見されました。これらの副葬品から畿内きない勢力せいりょくとの強い結びつきがうかがえ、この地域の統治とうちに成功した江沼えぬの臣おみの一族に関係する古墳ではないかと考えられています。なお、この狐山古墳のすぐ近くから、盾たてを持った人物じんぶつ埴輪はにわも発見され、北陸地方では極きわめて珍めずらしいものとされ、こうした出土品は、現在、東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかんに保管ほかんされています。
また、勅使ちょくし町では、大正11年に考古学者の上田うえだ三平さんぺいにより、6世紀中頃から7世紀末にかけて法皇山ほうおうざん横穴群よこあなぐんが確認され、昭和4年には国の指定してい史跡しせきとなりました。法皇山の麓ふもとや中腹ちゅうふくには、現在までに80基あまりの横穴よこあなが確認かくにんされており、古くは、原始人げんしじんが暮くらした洞窟どうくつだとか、宝物たからものの隠かくし場所などと言われていましたが、調査の結果、古代人こだいじんを埋葬まいそうした横穴おうけつ墓ぼであることが分かりました。これらの横穴の数は、詳くわしく調べれば、恐おそらく200基以上はあるだろうと考えられており、日本海側では最大級の横穴古墳群として知られています。この古墳に葬ほうむられた人々は、動橋いぶりはし川がわ中流域に住んだ当地域の有力な一族の墓地ぼちと考えられます。」(加賀歴史文化学習帳より)
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