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ヤマレコ

記録ID: 1289062 全員に公開 ハイキング近畿

天皇陵巡礼10(古市/ 安閑・翡・仁賢の三天皇 + 日本武尊白鳥陵)

日程 2017年10月14日(土) [日帰り]
メンバー
アクセス
利用交通機関
電車
高見の里 − 古市 往復
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地図/標高グラフ


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コースタイム [注]

日帰り
山行
1時間26分
休憩
55分
合計
2時間21分
S古市駅10:1910:30安閑天皇陵10:4011:02日本武尊 白鳥陵拝所11:0711:15清寧天皇陵11:2011:25峰塚公園11:4311:49仁賢天皇陵12:0212:19墓山古墳12:2312:40古市駅G
コースタイムの見方:
歩行時間
到着時刻通過点の地名出発時刻

写真

古市駅をスタート(振り返って駅舎)
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古市駅をスタート(振り返って駅舎)
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車道を渡って撮影
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車道を渡って撮影
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北側、途中まで行ける
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北側、途中まで行ける
住宅街の路地から日本武尊 白鳥陵東辺
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住宅街の路地から日本武尊 白鳥陵東辺
北東角に案内板あり
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北東角に案内板あり
軽里南の交差点の歩道橋から清寧天皇陵を望む
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軽里南の交差点の歩道橋から清寧天皇陵を望む
清寧天皇陵拝所到着
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清寧天皇陵拝所到着
峰塚公園内、峯ヶ塚古墳
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峰塚公園内、峯ヶ塚古墳
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公園のベンチでちょっと休憩
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公園のベンチでちょっと休憩
公園内の小山から東を望む 白鳥陵の向こうに寺山、二上山が見える
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公園内の小山から東を望む 白鳥陵の向こうに寺山、二上山が見える
周濠の土手をぐるりと回ることができる
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一周して拝所に戻ってきた
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一周して拝所に戻ってきた
仁賢天皇陵の東隣にある池にある遊歩道を行く(北へ)
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仁賢天皇陵の東隣にある池にある遊歩道を行く(北へ)
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墓山古墳へは工場の敷地内のような道を行く
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墓山古墳へは工場の敷地内のような道を行く

感想/記録
by MOZART

 水曜日は桜井・熊ケ岳に登る予定だったが、雨の予報で断念。しかし少なくとも桜井方面は雨が降らなかったようで残念…。
 御陵巡りにもなかなか行けなかったが、15時頃から降る予報の今日、近場で距離も短いということで、羽曳野行きを決行。

 古市駅を出発し、国道170号線を南下、線路と川を高架で跨いですぐのところに、第27代 安閑天皇陵(高屋築山古墳)。
 周濠を持つ、墳丘長122メートルの前方後円墳だが、中世から戦国時代に畠山氏の居城の本丸として利用されたため、くびれ部分が消えているとのこと。
 拝所は国道に面しており、静かにお眠りいただくという感じではない。周濠の回りも住宅に囲まれているが、濠北側の土手は歩くことができ、陵墓の形を感じることができる。
 国道170号線をしばらく戻って 西の住宅街に入る。路地から 日本武尊 白鳥陵の東辺に出る。周濠の土手に小道が付けられており、陵墓を眺めながら北辺に進む。陵墓北辺はきれいな舗装道。墳丘長190メートルの前方後円墳を感じながら歩く。住宅街の路地を通って、脇から拝所入り口の前に出る。
 日本武尊は 第12代 景行天皇の第2皇子。日本統一に貢献した超人的ヒーローだ。伊勢で薨じたのち白鳥となってこの地に降り立ったとされる。なお皇子の墓を「陵」というのは、記紀においては日本武尊の3つの陵(伊勢能褒野陵とふたつの白鳥陵)のみとのこと。そのこともあってか、日本武尊を天皇とする説もあるようだ。
 国道170号(大阪外環状線)を跨ぐが、軽里南の歩道橋の上からは白鳥陵、これから行く清寧天皇陵、あるいは峰塚公園の茂みが望める。
 さて 第22代 清寧天皇陵(河内坂門原陵)。周濠のある墳丘長115メートルの前方後円墳。しかし例によって周りには住宅街が迫っていて、スカッと見渡せる場所はない。

 住宅街を北上して 峰塚公園。峯ヶ塚古墳と小口山古墳を擁する。国の史跡に指定されている峯ヶ塚古墳は、江戸時代には日本武尊白鳥陵に比定されていたとのこと。
 土曜日ということで 人がチラホラ憩う中、少々 休憩をば。トイレ、そしてベンチでオヤツを。そして小山に登って展望を楽しむ。
 曇り空、快適な気温。もちろん距離が短いこともあるが、疲れがほとんどない。このまま雨が降らなければ最高だ。

 北上して 第24代 仁賢天皇陵(埴生坂本陵)。長めで軽い下り坂の参道。周濠を持つ墳丘長122メートルの陵墓で、ここも住宅が迫る。
 参詣時にポツポツと降り出してきた。とはいえ まだ傘をさすほどではない。
 拝所左手、住宅との間に細道があり、それを行ってみると、周濠の土手に続いていた。
 金網の向こうは長屋のような小さな家が並ぶ。その裏手を行くわけだ。生活音が聞こえ、またくつろぐ姿が見えたりもし バツが悪いが、失礼してそのまま進んでみる。御陵の北から東辺の向こう側は民家はなく溜池。北東角あたりの向こう側は通る道なので、ここから出られれば都合がいいが、金網に切れ目はなく出られない。まあ 周濠の土手を一周ずっと歩けるのも珍しいということで、そのまま濠の土手を行く。
 拝所へ戻り、もと来た参道から出る。住宅街を通って 溜池脇の遊歩道を北上。仁賢天皇陵が北東から見える。先ほど出られないかと思っていたところだ。
 幅の狭い階段を下って 街に下りる。外環を横切ったところで 雨脚が強くなり、ついに傘をさした。
 工場の敷地内のような道を横切り、狭い路地の先に墓山古墳。応神天皇陵の陪冢に治定されているが、全長約225メートルの前方後円墳で、陪冢にしては大きすぎる。
 墓地を通って 西の出入口から出る。すぐ右手には浄元寺山古墳(方墳)がある。

 古市駅へ戻る。雨は止まず、天気予報が当たらないことに腹立たしさも感じたが、山登りならともかく、御陵巡りでは小雨ならそれほど問題ない。カンカン照りの猛暑に比べればよっぽど楽で、雨の予報を出さなかったことに むしろ感謝すべきかなとも思った。しかし 写真がぶれていたのが残念だった。雨中の撮影はいつものテキトーではだめなようだ。

 ***

●日本武尊(やまとたけるのみこと)は古代の皇族(王族)(生年不詳〜景行天皇43年(西暦113年))。「古事記」では主に「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記。諱は小碓命(おうすのみこと)。第12代 景行天皇の第2皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。双子の兄である大碓命(おおうすのみこと)がいる。 妃に両道入姫皇女(ふたじなのいりひめのひめみこ)など。幼少から武芸に秀で、怪力無双。九州・中国地方を平定し、さらに東国を平定する。
 しかし伊吹山(岐阜・滋賀県境)で、その神の化身である大蛇に氷を降らされて病身となり、能褒野(のぼの・三重県亀山市) で亡くなった。30歳であったいう。日本武尊は白鳥に化身して飛ぶ。まず大和琴弾原(奈良県御所市)に降り立ち、次に河内古市(大阪府羽曳野市)に至り、その後 天に昇った。ゆえに3箇所に陵墓を作ったとされる(2陵が「白鳥陵」)。ただし「古事記」では大和を経由していない。

●第22代 清寧 (せいねい) 天皇
【諡号】白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)
【生没】444〜484年1月(40歳)
【在位】480年1月〜484年1月 (約4年間)
【父】雄略天皇 【母】韓媛(かんひめ)
【皇后】なし
【皇居】磐余甕栗宮(いわれのみかくりのみや) 現在の橿原市東池尻町の御厨子神社が伝承地
【陵所】河内坂門原陵(こうちのさかどのはらのみささぎ)。現在の羽曳野市西浦6丁目。前方後円。遺跡名は白髪山古墳。墳丘長112メートル。
◇生来 髪が白かったため、父 雄略天皇は霊異を感じ、皇太子としたという。雄略天皇崩御後、異母兄弟の星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ)が権勢をほしいままにし、皇位を伺ったが、父帝の側近らが討伐。翌年 即位した。
 皇子がいなかったが、清寧天皇2年、父帝に殺された市辺押磐皇子の子である億計王(後の仁賢天皇)・弘計王(後の顕宗天皇)兄弟が播磨で見つかり、翌年 ふたりを宮中に迎え入れ、億計王を皇太子に、弘計王を皇子に立てた。
 清寧天皇5年 崩御。

●第24代 仁賢 (にんけん) 天皇
【諡号】億計天皇(おけのすめらみこと)
【諱】大脚(おおし)、大為(おおす)
【生没】449〜498年8月(49歳)
【在位】488年1月〜498年8月 (約10年7ヶ月間)
【父】市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)第1皇子
【母】荑媛(はえひめ)
【皇后】春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)
【皇居】石上広高宮(いそのかみのひろたかのみや) 奈良県天理市石上町?
【陵所】埴生坂本陵(はにゅうのさかもとのみささぎ)。現在の藤井寺市青山3丁目。前方後円。遺跡名はボケ山古墳(野中ボケ山古墳)。墳丘長約122メートル。
 元禄探陵では所在不明とされたが、河内のとある学僧が「ボケ山」の「ボケ」を「オケ(億計)」の訛りと考証。これに基づき、幕末に現陵に治定した。
◇安康天皇3年、父の市辺押磐皇子が雄略天皇に殺されると、弟の弘計王(後の顕宗天皇)と共に丹波国、明石などに逃亡、名を変えて 身を隠した。
 清寧天皇2年、仕えていた主人の宴の席で弟の弘計王が身分を明かすと、清寧天皇に伝えられ、子がなかった清寧天皇の後継者となった。
 同5年に清寧天皇が崩じると、弟と皇位を譲り合う(その間、飯豊青皇女が執政)。翌年、弟が即位したが(顕宗天皇)、在位2年余で崩御。億計王が即位した。「天下は仁に帰し、民はその生業に安んじている」と称えられ、国は安定したという。
 皇后は雄略天皇の皇女である春日大娘皇女。父を殺した雄略天皇の皇女を皇后とした理由として、仁賢天皇自身が傍系の出身であるため、直系の皇女を皇后に迎え入れ正当性を強めたと考えられている。

◎飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)は5世紀末の皇族(王族)。履中天皇の皇女、または市辺押磐皇子の王女。清寧天皇の崩御後に一時 執政したとされ、史書には飯豊天皇などと天皇扱いしているものがあり、現在も宮内庁では「履中天皇々孫女 飯豊天皇」として、不即位天皇としている。
 墓は葛城埴口丘陵(かずらきのはにくちのおかのみささぎ)。「日本書紀」は「陵」と表記して天皇扱いしている。奈良県葛城市北花内の北花内大塚古墳に比定されている。

●第27代 安閑 (あんかん) 天皇
【諡号】広国押武金日天皇(ひろくにおしたけかなひのすめらみこと)
【諱】勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)
【生没】466〜535年12月(69歳)
【在位】531年2月〜535年12月 (約4年10ヶ月間)
【父】継体天皇 【母】尾張目子媛(おわりのめのこひめ)
【皇后】春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)
【皇居】勾金橋宮(まがりのかなはしのみや) 現在の橿原市曲川町?
【陵所】古市高屋丘陵(ふるちのたかやのおかのみささぎ)。現在の羽曳野市古市5丁目。前方後円。遺跡名は高屋築山古墳。墳丘長122メートル。
◇父 継体天皇の後を受けて 66歳にして即位したが、5年弱で崩御した。「日本書紀」の「百済本記」から引用した部分には、継体天皇と皇太子が共に亡くなったとも書かれており、継体天皇崩御後、混乱していたのではないかとも考えられている(空位説、ふたつの朝廷の並立説あり)。
 後世、修験道の本尊である金剛蔵王権現と同一視されたため(諡号に「金」の文字があるため)、明治時代の神仏分離以降に、蔵王権現を祀っていた神社で安閑天皇を祭神としたところが多い。
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