天皇陵巡礼15(深草 / 仁明・白川・鳥羽・近衛+深草北陵(12天皇)の計16天皇)
- GPS
- 02:21
- 距離
- 8.6km
- 登り
- 13m
- 下り
- 21m
コースタイム
- 山行
- 1:50
- 休憩
- 0:30
- 合計
- 2:20
天候 | 晴れ・曇り・一時雨 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2017年12月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
●帰り = 墨染 13:20 − 淀屋橋 |
写真
感想
少し空いたが、15回目の天皇陵巡礼。深草から竹田の5陵を廻る。院政を開始した白河天皇、崇徳天皇との確執で有名な鳥羽天皇の御陵も楽しみだが、なんといっても持明院統・北朝の12天皇陵が眠る「深草北陵」があるのが大きな特徴。参拝が楽、一気に数を稼げるという利点もあるが (不遜ながら…)、天皇略歴の記載が大変という恐怖もある。まあ急がず ぼちぼちやろうということで…。
京阪はトラブルでダイヤが乱れており、淀屋橋 (通勤特急) 京橋 (準急) くずは (特急) 丹波橋 (普通) と乗り換えて、やっとこさ藤森 (ふじのもり) 駅 着。
京都は空気が冷たいと思っていたら、なんと雨。なんだかついてないぞと 嫌な予感を感じながら、名神沿いを東に進む。
工事をしていたこともあって道を間違い、県道35線まで南下してしまったが、深草谷口町の交差点には仁明天皇陵を示す石標があり、よかった。この頃には雨も上がった。
第54代 仁明天皇陵 着。住宅に囲まれているが、拝所後方はガレージで やや広さが感じられるのが救い。
名神沿いを西に進む道からは前方に山が望まれたが、小塩山、ポンポン山のようだ。小塩山は仁明天皇のおじにあたる 先代の淳和天皇の御陵がある。
JR奈良線の踏切手前に深草北陵。第89代 後深草天皇、92代 伏見天皇、93代 後伏見天皇、北朝第4代 後光厳天皇、北朝5代 後円融天皇、100代目 (北朝6代) 後小松天皇、101代 称光天皇、103代 後土御門天皇、104代 後柏原天皇、105代後 奈良天皇、106代 正親町天皇、第107代 後陽成天皇の計12帝の遺骨が納められている納骨堂だ。時代としては鎌倉後期から南北朝、伏見桃山時代の天皇。
神道を本来とする朝廷は基本的に土葬で、ひとりずつの陵墓が造られてきたが、仏教を信仰した天皇は火葬を望むことがあり、後深草天皇を始祖とする持明院統の天皇たちは「家墓」として、ひとつの墓に皆で入るという形を望んだようだ。
節約のためかとも思ったが、火葬には大量の薪が必要で、かつ技術も要したことから、贅沢な葬儀だったとのこと。
さて ここからは西へ移動。琵琶湖疏水と京阪本線をまたぎ、名神沿いから竹田駅の手前の東高瀬川を南下、近鉄京都線を横断して、安楽寿院。その書院・庫裏の南側に第76代 近衛天皇陵あり。
美しい多宝塔には驚いた。すぐに昨晩 本で写真を見たことを思い出したが、それにしても立派だ。3歳で即位、17歳で崩御、政治的な業績はないのになぜとも思ったが、父母である鳥羽天皇・皇后の強い哀惜の念の反映なのかもしれない。調べてみると、もとは別の寺院に納骨されていたのを ここに改葬したらしい。その当時の三重塔 (新御塔) は慶長伏見大地震で倒壊したが、その後 豊臣秀頼の命によって再建されたとのこと。
第74代 鳥羽天皇陵は指呼の間。方形堂があり こちらもなかなか立派。天皇は生前 ここに三重塔を建てており、崩御後は遺骸が納められたとのこと。北側には濠がある。
北向山不動院をぐるりと回り 新城南宮道で白河天皇陵へ。油小路通り(阪神高速)を横切って、そのまままっすぐ進み すぐを右折すると、御陵の裏手だった。工場があり、なんとも不憫だ…。
油小路通りに戻って 拝所。第72代 白河天皇陵。院政を始めたこと、あるいは三不如意の言葉で有名な天皇。方丘墳で、四角く石垣が積まれており、周囲には濠がある。生垣のツバキが白い花を咲かせていた。
さて帰る。近鉄竹田駅が近いが、丹波橋で京阪に乗り換えないといけないので、京阪 墨染駅へ。駅近くの店で食べることも考えていたが、コンビニでパンとコーヒーを買って 駅で電車を待つ間に食べた。
***
●第54代 仁明(にんみょう)天皇
【諱】正良(まさら)
【生没】810年〜850年3月(41歳)
【在位】833年2月〜850年3月 (18年間)
【父】嵯峨天皇(第2皇子) 【母】橘嘉智子(たちばなかちこ)(檀林皇后)
【女御】藤原順子,藤原沢子,藤原貞子 他
【陵所】深草陵(ふかくさのみささぎ) 方形。現在の京都市伏見区深草東伊達町。ただし 文久の修復の際に造られたもので、本来の深草陵は同区深草瓦町の善福寺周辺と考えられている
◇幼少時から病弱であったとされ、「続日本後紀」には様々な病歴が記載されている。
天長10年(833年)、叔父にあたる淳和天皇の譲位により即位。当初 淳和天皇の皇子 恒貞親王を皇太子に立てたが、承和9年(842年)の承和の変により、恒貞は廃せられ、代わりに仁明天皇の第一皇子 道康親王(文徳天皇)が立太子した。これには自分の息子に皇位を継がせたい仁明天皇の意思とともに、甥である道康を立太子させたい藤原良房(冬嗣のニ男)の陰謀があったと考えられている。
恒貞親王の側近やライバルを流罪、追放、左遷など 徹底的に排除することによって、藤原北家による朝廷支配は加速していく。
嘉祥3年(850年)病により、文徳天皇に譲位。太上天皇になることなく、2日後に崩御した。
●第72代 白河(しらかわ)天皇
【諱】貞仁(さだひと) 【異称】六条帝
【生没】1053年6月〜1129年7月(77歳)
【在位】1072年12月〜1086年11月 (15年間)
【父】後三条天皇(第1皇子) 【母】藤原茂子
【中宮】藤原賢子(けんし・かたいこ)【女御】藤原道子
【陵所】成菩提院陵(じょうぼだいいんのみささぎ)。方丘。現在の京都市伏見区竹田浄菩提院町。近所には同陵の有力な比定候補地があり、陵墓参考地に指定されている
◇尊仁親王(後三条天皇)の第一皇子として生まれる。延久元年(1069年)立太子。同3年に関白 藤原師実の養女 藤原賢子が参入した。
延久4年(1072年)、後三条天皇から譲位され、20歳で即位する。関白は置いたが、同5年(1073年)の後三条上皇の病没後も 父同様に親政を目指し、荘園整理などに力を入れ、摂関家の権勢を弱めることに努める。
応徳2年(1085年)、皇太弟 実仁親王が薨去。翌年 実子である8歳の善仁親王(堀河天皇)を皇太子に立て、即日 譲位した。太上天皇となった白河上皇は自ら政務を執り、いわゆる院政が出現することとなる。以後も引き続き摂政関白は置かれたが、その実態は次第に名目上の存在に近いものとなってゆく。
ただし白河上皇は当初から強い権力を有していたわけではなく、天皇在位中からの摂関であった藤原師実とは協調を図っていた。
しかし承徳3年(1099年)師実の子 師通が急逝し 摂関家内部が混乱すると、白河法皇が天皇の補佐をおこなうようになる。さらに嘉承2年(1107年)には堀河天皇が崩御し、その皇子で白河法皇の孫である鳥羽天皇が5歳で即位、加えて若い摂政 藤原忠実が未熟ということで、法皇に権力が集中することとなった。
政治的権限を掌握した白河法皇は、受領階級や武家出身の近臣を用いて専制的な政治をおこなった。叙位・除目に介入して人事権を掌握。また2度にわたって藤原忠実の職権を停止し、摂関の権威の低下を内外に見せつけた。さらに堀河・鳥羽・崇徳の異母兄弟に対しては、親王宣下も臣籍降下も認めずに出家させて、皇位継承権を剥奪した。
大治4年(1129年)77歳で崩御。院政は43年間に及んだ。天皇の王権を超越した政治権力を行使を 後世「治天の君」と呼ぶようになる。
一方で仏教に深く帰依したという側面がある。また中宮 賢子と、その娘である皇女媞子(ていし・やすこ)内親王をとりわけ寵愛し、ともに若くして亡くなった時の悲嘆ぶりは有名。嘉保3年(1096年)の媞子内親王 病没の際は、それを機に出家し、法皇となっている。
「平家物語」には、白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという有名な逸話がある(天下三不如意)。その3つのこと以外はすべて自分の思い通りになるという豪語と解されがちだが、不満があると都に雪崩れ込み、強訴を繰り返した比叡山延暦寺の僧兵に対する苦悶こそが真意であるとの説がある。
●第74代 鳥羽(とば)天皇
【諱】宗仁(むねひと)
【生没】1103年1月〜1156年7月(54歳)
【在位】1107年7月〜1123年1月 (17年間)
【父】堀河天皇(第1皇子) 【母】藤原苡子(いし)
【中宮】藤原璋子(しょうし・たまこ)(待賢門院)
【皇后】藤原泰子(高陽院),藤原得子(美福門院)
【陵所】安楽寿院南陵(あんらくじゅいんのみささぎ)。方形堂。京都市伏見区竹田浄菩提院町
◇生後間もなく母 苡子が亡くなり、祖父の白河法皇の下に引き取られて養育された。生後7ヶ月で立太子され、父 堀河天皇の死後、5歳で即位する。当然ながら政務を執ることができず、また当時の摂関の藤原忠実は立場が弱かったため、政務は白河法皇が執った。
永久5年(1117年)、白河法皇の養女である藤原璋子(待賢門院)が入内、翌年には中宮となり、5男2女を儲ける。
保安4年(1123年)、第一皇子 顕仁(崇徳天皇)に譲位。鳥羽天皇は皇子 顕仁を、実は祖父 白河院と 自分の中宮 璋子との間にできた不義密通の子ではないかと疑い「叔父子(おじこ)」と呼んで遠ざけており、譲位も白河法皇の意向によるものだった。
その後も法皇が実権を握り続けていたが、法皇崩御の後、大治4年(1129年)より鳥羽上皇が院政を敷く。白河法皇から遠ざけられていた前関白 藤原忠実ら反白河派を院の要職につけて身辺を固め、娘の泰子(高陽院)を入内させ、上皇の妃としては異例の皇后とした。さらに白河法皇の後ろ盾を失った待賢門院璋子にかわり、藤原得子(美福門院)を寵愛、その間にできた皇子 体仁(なりひと)を皇位に就けるべく、生後3ヶ月で立太子させる。
永治元年(1141年)、崇徳天皇に譲位を強要、3歳の体仁親王(近衛天皇)を即位させ、権力基盤を一層 磐石にした。翌年 康治元年、法皇となる。
久寿2年(1155年)近衛天皇が早世。第4皇子で崇徳上皇の同母弟である雅仁親王(後白河天皇)を即位させたが、翌年 保元元年、鳥羽法皇 崩御。院政は28年に及んだ。
●第76代 近衛(このえ)天皇
【諱】体仁(なりひと)
【生没】1139年5月〜1155年7月(17歳)
【在位】1141年12月〜1155年7月 (15年間)
【父】鳥羽天皇(第8皇子) 【母】藤原得子(とくし)
【皇后】藤原多子(まさるこ)
【中宮】藤原呈子(ていし・しめこ)(九条院)
【陵所】安楽寿院南陵(あんらくじゅいんの みなみの みささぎ)陵。多宝塔。京都市伏見区竹田浄菩提院町。
◇鳥羽上皇と美福門院得子の皇子として生まれる。上皇に即位を望まれ、生後3ヶ月で立太子。翌々年の永治元年(1141年)、わずか3歳(満2歳)で崇徳天皇の譲位を受けて即位した。在位中は鳥羽法皇が院政を敷いた。
久安6年(1150年)1月、12歳で元服。内覧 藤原頼長の養女 多子(11歳)が入内、女御となり、3月に立后、皇后となった。4月には関白 藤原忠通の養女 呈子(20歳)も入内して、6月に立后、中宮となる。
近衛天皇は病気がちで、仁平2年(1152年)には一時失明の危機に陥り、譲位の意思を関白 忠通に告げたという。久寿2年(1155年)、御所としていた近衛殿において崩御。左大臣 藤原頼長の呪詛によるものという噂が流れた。
その他の天皇略歴は後日、ボチボチと…。
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