近鉄富田駅下車。「富田」は「飛田」が由来。富田2「鳥出神社」。日本武尊が能褒野で逝き、白鳥となり、熱田に向かう途中でここに憩い再び飛び発つ。古代〜平安期、海浜が現在の近鉄・JR線路近くまで広がり、聖武東国行幸や壬申の乱の隊列は、この西の大矢知の丘陵を通過。海岸は松並木が続く絶景地で魚豊富な漁場だった。
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近鉄富田駅下車。「富田」は「飛田」が由来。富田2「鳥出神社」。日本武尊が能褒野で逝き、白鳥となり、熱田に向かう途中でここに憩い再び飛び発つ。古代〜平安期、海浜が現在の近鉄・JR線路近くまで広がり、聖武東国行幸や壬申の乱の隊列は、この西の大矢知の丘陵を通過。海岸は松並木が続く絶景地で魚豊富な漁場だった。
国無形文化遺産・鳥出神社祭礼。富田四町から各々鯨船が曳き出され、鯨船捕鯨を表現。鯨発見より銛打ちまで鯨船を使い演じる祭り。伊勢湾でも捕鯨できたのだ。
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国無形文化遺産・鳥出神社祭礼。富田四町から各々鯨船が曳き出され、鯨船捕鯨を表現。鯨発見より銛打ちまで鯨船を使い演じる祭り。伊勢湾でも捕鯨できたのだ。
塩役運河跡「せせらぎ公園」。イオン四日市北店に巨大な煉瓦倉庫が残る。公園北の大きな龍泉寺と松の巨木群。北隣に飛鳥神社。その角が「海運橋」八風街道の起点。
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塩役運河跡「せせらぎ公園」。イオン四日市北店に巨大な煉瓦倉庫が残る。公園北の大きな龍泉寺と松の巨木群。北隣に飛鳥神社。その角が「海運橋」八風街道の起点。
海運橋を南東・伊勢湾方向に歩くと古民家が密集。古くから廻船業で繁栄、八風街道を往来する人々、忍藩の年貢米・鈴鹿の山の花崗岩・紡績繊維製品の積み出し、漁業で賑わった時代の雰囲気が残り漂う。陸路と海路の交差点。
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海運橋を南東・伊勢湾方向に歩くと古民家が密集。古くから廻船業で繁栄、八風街道を往来する人々、忍藩の年貢米・鈴鹿の山の花崗岩・紡績繊維製品の積み出し、漁業で賑わった時代の雰囲気が残り漂う。陸路と海路の交差点。
明治からは鰹節削り生産が盛ん。紀州や志摩半島方面から鰹が荷揚げ、同時に鮪等の遠洋漁業の基地。
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明治からは鰹節削り生産が盛ん。紀州や志摩半島方面から鰹が荷揚げ、同時に鮪等の遠洋漁業の基地。
国道23号線を潜り、富州原漁港に出合う。八風街道は朝明川にほぼ平行するが、ここはその朝明川河口より約五百mほど南の運河出口。この場所を八風街道起点としてもよい。四日市のコンビナートなど大工場進出で名四国道建設によりかつての美しい遠浅の海浜や松並木は消滅。
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国道23号線を潜り、富州原漁港に出合う。八風街道は朝明川にほぼ平行するが、ここはその朝明川河口より約五百mほど南の運河出口。この場所を八風街道起点としてもよい。四日市のコンビナートなど大工場進出で名四国道建設によりかつての美しい遠浅の海浜や松並木は消滅。
港から戻り飛鳥神社まで直線的に延びる広小路通り。幅が広い。名残の松が一本残る。1639年(寛永16年)大火発生後、富田一色の町衆は大胆な通りを建設し復興発展を支えた。1838年(天保9年)八風街道改修。1860年(万延元年)飛鳥神社の拝殿造営。
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港から戻り飛鳥神社まで直線的に延びる広小路通り。幅が広い。名残の松が一本残る。1639年(寛永16年)大火発生後、富田一色の町衆は大胆な通りを建設し復興発展を支えた。1838年(天保9年)八風街道改修。1860年(万延元年)飛鳥神社の拝殿造営。
水産加工会社や漁業倉庫が残る。明治・大正・昭和とインフラの基盤作りや諸産業・文化を積極的に育成。「伊藤平治郎」による橋・運河建設。「生川平三郎」による水産業設立拡大。1968年(昭和43年)完成の海岸埋め立て地では、大遠冷蔵など遠洋漁業の基地など整備。
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水産加工会社や漁業倉庫が残る。明治・大正・昭和とインフラの基盤作りや諸産業・文化を積極的に育成。「伊藤平治郎」による橋・運河建設。「生川平三郎」による水産業設立拡大。1968年(昭和43年)完成の海岸埋め立て地では、大遠冷蔵など遠洋漁業の基地など整備。
広小路通りにて。立派な卯建が上がる民家の蔵。明治以降は火事は数回しかなく、防火建築、防火精神が徹底。戸締りなしで留守にする家が多く、隣組等地域の地縁・血縁の目を構築。
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広小路通りにて。立派な卯建が上がる民家の蔵。明治以降は火事は数回しかなく、防火建築、防火精神が徹底。戸締りなしで留守にする家が多く、隣組等地域の地縁・血縁の目を構築。
富田一色飛鳥神社。創建は824年(弘仁2年)。産土神。氏子神社。広小路大通り正面。隣に浄土真宗の龍泉寺。現在の拝殿は1860年(万延元年)建立。ガニ祭り。毎年10月開催。村人が捕獲したワタリガニを神前で供え大漁を祈る。
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富田一色飛鳥神社。創建は824年(弘仁2年)。産土神。氏子神社。広小路大通り正面。隣に浄土真宗の龍泉寺。現在の拝殿は1860年(万延元年)建立。ガニ祭り。毎年10月開催。村人が捕獲したワタリガニを神前で供え大漁を祈る。
飛鳥神社前角の公会堂前の「富田一色けんか祭り」の謂われ説明板。けんか祭(喧嘩祭と呼ばれる大念仏)が毎年お盆に開催。祭では各町毎に提灯櫓が建立。思い思いの絵柄の提灯が飾られて、夜間に灯点火。
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飛鳥神社前角の公会堂前の「富田一色けんか祭り」の謂われ説明板。けんか祭(喧嘩祭と呼ばれる大念仏)が毎年お盆に開催。祭では各町毎に提灯櫓が建立。思い思いの絵柄の提灯が飾られて、夜間に灯点火。
飛鳥神社より広小路通りと漁港方面を見る。昔は「陣屋河岸」と呼ぶ。江戸時代初期より魚問屋があり寺町中横町通りには伊藤氏が最初の魚問屋を建設。初代渡部与助問屋は代々渡部与助襲名。宝進社・宝積社・豊富講など20名〜30名で組織される問屋講結成して繁栄。
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飛鳥神社より広小路通りと漁港方面を見る。昔は「陣屋河岸」と呼ぶ。江戸時代初期より魚問屋があり寺町中横町通りには伊藤氏が最初の魚問屋を建設。初代渡部与助問屋は代々渡部与助襲名。宝進社・宝積社・豊富講など20名〜30名で組織される問屋講結成して繁栄。
一色山観浄寺。飛鳥神社より一つ北の通り。富州原地区最古の寺と言われ、本尊千手観音(室町期)。けんか祭り(大念仏)の発祥の地とも。
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一色山観浄寺。飛鳥神社より一つ北の通り。富州原地区最古の寺と言われ、本尊千手観音(室町期)。けんか祭り(大念仏)の発祥の地とも。
海運橋南公園内。1959年(昭和34年)伊勢湾台風。伊勢湾台風の襲来で甚大な被害。地区の死者60名。水害と台風の災害対策のために高潮を防ぐ防波堤工事と名四国道の工事により松原の砂浜は潰滅。
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海運橋南公園内。1959年(昭和34年)伊勢湾台風。伊勢湾台風の襲来で甚大な被害。地区の死者60名。水害と台風の災害対策のために高潮を防ぐ防波堤工事と名四国道の工事により松原の砂浜は潰滅。
八風街道(八風道)起点。海運橋。八風街道は、ここから大矢知・平津を経て八風峠で滋賀県に向かう4里17町の街道。
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八風街道(八風道)起点。海運橋。八風街道は、ここから大矢知・平津を経て八風峠で滋賀県に向かう4里17町の街道。
江戸末期、大矢知に忍(おし)藩の陣屋が置かれ、八風街道は年貢米輸送の幹線となり、富田一色は米の積み出し港となる。
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江戸末期、大矢知に忍(おし)藩の陣屋が置かれ、八風街道は年貢米輸送の幹線となり、富田一色は米の積み出し港となる。
忍藩(埼玉県行田市)とこちらの関係は1823年桑名藩・奥平松平忠堯が10万石で忍藩に転封国替え。桑名藩領の一部が忍藩領となり陣屋を大矢知に設置。忍藩奥平松平家は、藩内諸問題より困窮していた上に、異国船警備を任じられ、1853年品川砲台(台場公園)を担当。経済的には破綻状態。
左の道が旧道八風街道、右が新道。両方ともすぐに国道1号線と交差。
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忍藩(埼玉県行田市)とこちらの関係は1823年桑名藩・奥平松平忠堯が10万石で忍藩に転封国替え。桑名藩領の一部が忍藩領となり陣屋を大矢知に設置。忍藩奥平松平家は、藩内諸問題より困窮していた上に、異国船警備を任じられ、1853年品川砲台(台場公園)を担当。経済的には破綻状態。
左の道が旧道八風街道、右が新道。両方ともすぐに国道1号線と交差。
1号線を横断して、古い民家が並ぶ松原町をまっすぐ進むとT字路。左折れすると左角に阿弥陀堂がある。この角を右に折れると近鉄名古屋線踏切。南に約百mほどの松原公園横には聖武天皇社。
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1号線を横断して、古い民家が並ぶ松原町をまっすぐ進むとT字路。左折れすると左角に阿弥陀堂がある。この角を右に折れると近鉄名古屋線踏切。南に約百mほどの松原公園横には聖武天皇社。
踏切を渡り、真っ直ぐ進む。渡った踏切右には洒落たコーヒーショップなのか音楽スタジオのようなものがある。平安期まではこの辺りまで伊勢湾の浜辺だった。
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踏切を渡り、真っ直ぐ進む。渡った踏切右には洒落たコーヒーショップなのか音楽スタジオのようなものがある。平安期まではこの辺りまで伊勢湾の浜辺だった。
真言宗・田村寺。ここを右に見て進むと旧東海道と交差。往時は東海道と八風道の交差するこの辺りは、大八車や商人・旅人で賑わい混雑。八風街道は東海道の脇道でもあった。
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真言宗・田村寺。ここを右に見て進むと旧東海道と交差。往時は東海道と八風道の交差するこの辺りは、大八車や商人・旅人で賑わい混雑。八風街道は東海道の脇道でもあった。
交差した蒔田(まいた)1丁目より北を見る。旧名は「西富田」この通りが旧東海道。交差してすぐ向こうにJR踏切が見える。
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交差した蒔田(まいた)1丁目より北を見る。旧名は「西富田」この通りが旧東海道。交差してすぐ向こうにJR踏切が見える。
JR踏切には「八風踏切」とある。ここの南の集落は「十志」昔は「十四」。伝説によるば、十四川は壬申の乱時に大海人皇子(天武天皇)が戦勝祈願の狼煙をあげた遙拝所。「久留部遺跡」の場所と符合。
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JR踏切には「八風踏切」とある。ここの南の集落は「十志」昔は「十四」。伝説によるば、十四川は壬申の乱時に大海人皇子(天武天皇)が戦勝祈願の狼煙をあげた遙拝所。「久留部遺跡」の場所と符合。
踏切から下さざらい町まで途中にある街道沿いの墓地の六地蔵。「礫井(さざらい)」は字名。朝明川の堰があったことに由来。
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踏切から下さざらい町まで途中にある街道沿いの墓地の六地蔵。「礫井(さざらい)」は字名。朝明川の堰があったことに由来。
下さざらい町交差点に出る。右から来る新道と再び出会う。左の道に入る。右を真っ直ぐ行くと朝日町の東名阪高速入口に向かう。
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下さざらい町交差点に出る。右から来る新道と再び出会う。左の道に入る。右を真っ直ぐ行くと朝日町の東名阪高速入口に向かう。
北勢バイパス下を潜る。大矢知。大矢知は素麺特産地。幕末から農閑期の冬に副業として農家が手延素麺に従事。今でも素麺作りは続く。鈴鹿の豊富な伏流水との関係。同様に、酒醸造も沢山。
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北勢バイパス下を潜る。大矢知。大矢知は素麺特産地。幕末から農閑期の冬に副業として農家が手延素麺に従事。今でも素麺作りは続く。鈴鹿の豊富な伏流水との関係。同様に、酒醸造も沢山。
左を見ると三岐鉄道が走る。先程通過した北勢バイバス工事中にここより1キロ南の丘陵で「久留部遺跡」が発掘。大規模集落跡を発見。聖武東国行幸や壬申の乱の隊列等の宿舎や遙拝所の関連も。現地に資料館あり。
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左を見ると三岐鉄道が走る。先程通過した北勢バイバス工事中にここより1キロ南の丘陵で「久留部遺跡」が発掘。大規模集落跡を発見。聖武東国行幸や壬申の乱の隊列等の宿舎や遙拝所の関連も。現地に資料館あり。
まっすぐに坂道を西に上がる。大矢知駅近くで左折れ。県道26号の角の大矢知郵便局の近くに石道標が立っている。
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まっすぐに坂道を西に上がる。大矢知駅近くで左折れ。県道26号の角の大矢知郵便局の近くに石道標が立っている。
西より見て「左 くわなみ 右 四日市みち」安政三年(1856年)
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西より見て「左 くわなみ 右 四日市みち」安政三年(1856年)
南より見て
「左 たどみち」御蔵米問屋石仙などとある。
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南より見て
「左 たどみち」御蔵米問屋石仙などとある。
北より見て「右 こものみち」
写真の方向へ真っ直ぐ行くと忍藩の陣屋跡がある大矢知興譲小学校。松の大木や土塁がある。陣屋西には年貢米を入れる細長い米倉庫があったようだ。
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北より見て「右 こものみち」
写真の方向へ真っ直ぐ行くと忍藩の陣屋跡がある大矢知興譲小学校。松の大木や土塁がある。陣屋西には年貢米を入れる細長い米倉庫があったようだ。
西に続く八風街道を見る。この辺りから大矢知駅前、小学校と陣屋に関する多くの建物が往時はあった。
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西に続く八風街道を見る。この辺りから大矢知駅前、小学校と陣屋に関する多くの建物が往時はあった。
民家前の大きな石臼。
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民家前の大きな石臼。
丸井屋老舗。和菓子の店。
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丸井屋老舗。和菓子の店。
街道左手南側堤防土手上。常夜灯。1833(天保4年)。
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街道左手南側堤防土手上。常夜灯。1833(天保4年)。
常夜灯前「陣屋公民館」。この堤防は南にある陣屋や米蔵を朝明川の洪水が守る役目。
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常夜灯前「陣屋公民館」。この堤防は南にある陣屋や米蔵を朝明川の洪水が守る役目。
市神社。市が定期的に開かれた。陣屋公民館の建物。
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市神社。市が定期的に開かれた。陣屋公民館の建物。
古い民家。八風街道が続く。ここから右(北)に降りると山分橋。多度道へこちらかも通じている。雨乞祈願で多度神社への参拝がよく行われた。
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古い民家。八風街道が続く。ここから右(北)に降りると山分橋。多度道へこちらかも通じている。雨乞祈願で多度神社への参拝がよく行われた。
四日市市立八郷小学校の角。学校南を通過。
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四日市市立八郷小学校の角。学校南を通過。
道がやや左にカーブ。前の古い民家の北裏は朝明川。
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道がやや左にカーブ。前の古い民家の北裏は朝明川。
三岐鉄道平津駅前。朝明川の水深が深かった頃、港があり、平地であったので「平津」と名がついた。
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三岐鉄道平津駅前。朝明川の水深が深かった頃、港があり、平地であったので「平津」と名がついた。
忍藩への米蔵跡。平津町郷土資料館。
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忍藩への米蔵跡。平津町郷土資料館。
右に地蔵堂
半跏地蔵 左の足をおろして坐った半跏像の地蔵
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右に地蔵堂
半跏地蔵 左の足をおろして坐った半跏像の地蔵
朝明川が裏にある堤防上の古民家。道は県道620号線になる。すぐ前の朝明川を通して舟に積まれて下りてきた米俵や農産品を保管し、大八車などを使って四日市や富田や桑名に輸送する中間基地。舟で産品を伊勢湾に運んだり、富田から魚などを上流に運んだ。
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朝明川が裏にある堤防上の古民家。道は県道620号線になる。すぐ前の朝明川を通して舟に積まれて下りてきた米俵や農産品を保管し、大八車などを使って四日市や富田や桑名に輸送する中間基地。舟で産品を伊勢湾に運んだり、富田から魚などを上流に運んだ。
千代田橋。昔は神明社がここにあった。朝明川沿いの道になり、やがて新小角橋。
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千代田橋。昔は神明社がここにあった。朝明川沿いの道になり、やがて新小角橋。
左の小山は暁学園高校と安養寺。室町時代に春日部宗方が築いた萱生(かよう)城跡。土塁と井戸跡と曲輪しか残っていない。戦国期には織田信雄配下が守りに就く。左には暁学園駅。
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左の小山は暁学園高校と安養寺。室町時代に春日部宗方が築いた萱生(かよう)城跡。土塁と井戸跡と曲輪しか残っていない。戦国期には織田信雄配下が守りに就く。左には暁学園駅。
萱生城址の暁学園の小山下を通り、前には鈴鹿山脈。釈迦ヶ岳・八風峠・三池岳が正面に来る。朝明川沿いには古代の条里制の跡も残り、奈良の大安寺の寺領だった「大安」という地名も残る。
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萱生城址の暁学園の小山下を通り、前には鈴鹿山脈。釈迦ヶ岳・八風峠・三池岳が正面に来る。朝明川沿いには古代の条里制の跡も残り、奈良の大安寺の寺領だった「大安」という地名も残る。
釈迦ヶ岳・竜ヶ岳・藤原岳。
水辺や水上には野鳥がたくさんいる。
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釈迦ヶ岳・竜ヶ岳・藤原岳。
水辺や水上には野鳥がたくさんいる。
すぐ左は三岐鉄道。走っている荷物列車は藤原岳採掘の石灰岩から生成するセメントなどを積む。右は朝明川。
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すぐ左は三岐鉄道。走っている荷物列車は藤原岳採掘の石灰岩から生成するセメントなどを積む。右は朝明川。
山城(やまじょう)集落付近の雰囲気のある民家。装飾がおもしろい。
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山城(やまじょう)集落付近の雰囲気のある民家。装飾がおもしろい。
山城駅前から櫻神社。昔から富士権現様として呼ばれていた。富士山本宮浅間講との関係。
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山城駅前から櫻神社。昔から富士権現様として呼ばれていた。富士山本宮浅間講との関係。
櫻神社。小高い小山と急な石段。急すぎてまともに上れないくらい。東南アジアやメキシコの寺院やピラミッドへ急階段に等しい。
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櫻神社。小高い小山と急な石段。急すぎてまともに上れないくらい。東南アジアやメキシコの寺院やピラミッドへ急階段に等しい。
櫻神社。あまりに階段が急なので、ぐるぐる廻るように山を巻いて登ることもできる道もある。山頂には山神社。
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櫻神社。あまりに階段が急なので、ぐるぐる廻るように山を巻いて登ることもできる道もある。山頂には山神社。
櫻神社上より階段下を見る。
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櫻神社上より階段下を見る。
下野橋近くの信明寺。ここより街道は朝明川と離れ、山城谷川沿いに西へ。この寺の西裏にある標高50mの源治山は室町期の城跡で「山城」の由来。三岐鉄道建設でほとんど破壊され、土塁などの跡しかない。
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下野橋近くの信明寺。ここより街道は朝明川と離れ、山城谷川沿いに西へ。この寺の西裏にある標高50mの源治山は室町期の城跡で「山城」の由来。三岐鉄道建設でほとんど破壊され、土塁などの跡しかない。
車の多い620号線を川沿いにしばらく進み、一本目の三叉路を右に上がる。竹藪の中を進む。両端の高台上は住宅地。「あさけが丘」という住宅地だ。
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車の多い620号線を川沿いにしばらく進み、一本目の三叉路を右に上がる。竹藪の中を進む。両端の高台上は住宅地。「あさけが丘」という住宅地だ。
「神明社跡」という案内板。(下野)明治初年に他の神社に合祀されたようだ。
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「神明社跡」という案内板。(下野)明治初年に他の神社に合祀されたようだ。
「札場町」という標識。
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「札場町」という標識。
「神崎の常夜灯」5本の道が集まっている面白い交差点。
常夜灯があり、八風街道に関する詳しい案内がある。
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「神崎の常夜灯」5本の道が集まっている面白い交差点。
常夜灯があり、八風街道に関する詳しい案内がある。
神崎常夜灯(両宮灯籠)。両宮とは伊勢神宮の外宮と内宮らしい。
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神崎常夜灯(両宮灯籠)。両宮とは伊勢神宮の外宮と内宮らしい。
神崎常夜灯の詳しい案内。江戸時代より交通の要所だった。
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神崎常夜灯の詳しい案内。江戸時代より交通の要所だった。
五叉路の詳細地図。この地図はなかなか役立つ。
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五叉路の詳細地図。この地図はなかなか役立つ。
常夜灯前。前には意味ありげな巨石がある。江戸期はなにかの目印になっていたのかも。ここには宿屋や茶店がいくつかあったよう。正面の細い道が八風街道。右は365号で小牧集落へ下り、東員から員弁へ。
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常夜灯前。前には意味ありげな巨石がある。江戸期はなにかの目印になっていたのかも。ここには宿屋や茶店がいくつかあったよう。正面の細い道が八風街道。右は365号で小牧集落へ下り、東員から員弁へ。
細道を進むと右側に道標があるはずだがなくなっていた。なくなるというよりもこの辺りの土地全てが区画整理されたようで、ホンダやCKDの大工場と新興住宅地に変わっていた。家に戻り調べると住宅地の中の公園に移転されたとある。道標には「左 四日市 右 田光ちくさ道」「左上ゑび 右多度」とあるはず。
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細道を進むと右側に道標があるはずだがなくなっていた。なくなるというよりもこの辺りの土地全てが区画整理されたようで、ホンダやCKDの大工場と新興住宅地に変わっていた。家に戻り調べると住宅地の中の公園に移転されたとある。道標には「左 四日市 右 田光ちくさ道」「左上ゑび 右多度」とあるはず。
CKDの工場の北を西に向かって歩く。工事中の新名神の工事現場が見える。来年(2019年)春には開通予定。
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CKDの工場の北を西に向かって歩く。工事中の新名神の工事現場が見える。来年(2019年)春には開通予定。
下り坂になって新名神の下を潜る。
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下り坂になって新名神の下を潜る。
大工事が継続。下を潜って「保々」集落に入る。200m程集落の中を進むと墓地が両側にある四つ角に出る。右には小さな地蔵祠がある。
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大工事が継続。下を潜って「保々」集落に入る。200m程集落の中を進むと墓地が両側にある四つ角に出る。右には小さな地蔵祠がある。
墓地を通り過ぎると右下に下りる坂があり、これを下りる。両側は竹藪。これが八風街道。
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墓地を通り過ぎると右下に下りる坂があり、これを下りる。両側は竹藪。これが八風街道。
坂を下に降りると左手に案内板がある。この地図を見ると新名神下を潜り百m程の所で右斜めに入ると真っ直ぐこの場所に着きそう。集落内の道がややこしい。
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坂を下に降りると左手に案内板がある。この地図を見ると新名神下を潜り百m程の所で右斜めに入ると真っ直ぐこの場所に着きそう。集落内の道がややこしい。
案内板下に地蔵祠がある。「北向地蔵尊」と地元で呼ばれている小さい地蔵だ。確かに北を向いている。
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案内板下に地蔵祠がある。「北向地蔵尊」と地元で呼ばれている小さい地蔵だ。確かに北を向いている。
北向き地蔵祠あたり
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北向き地蔵祠あたり
北向地蔵尊案内板。地蔵には関係ないが、ここから北に百mほどの保々集落には、天春(あまがす)家という代々大庄屋を務めた家が行円寺近くにあり、元禄から明和年間にかけての屋敷があった。今でも黒長塀等が残る。なお、天春家の屋敷敷地は、戦国期の中野城跡。
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北向地蔵尊案内板。地蔵には関係ないが、ここから北に百mほどの保々集落には、天春(あまがす)家という代々大庄屋を務めた家が行円寺近くにあり、元禄から明和年間にかけての屋敷があった。今でも黒長塀等が残る。なお、天春家の屋敷敷地は、戦国期の中野城跡。
石標が草に埋もれてある。「左 古もの(菰野)」「右 小島」と読める。明治中期のもの。昭和になると朝明川沿いの道を八風道(新道)と呼んでいた。
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石標が草に埋もれてある。「左 古もの(菰野)」「右 小島」と読める。明治中期のもの。昭和になると朝明川沿いの道を八風道(新道)と呼んでいた。
専照寺付近から西へ進む八風街道。真っ直ぐ先の山並み中央が八風峠である。三池岳の西にある峠だが、北隣の石榑峠よりも標高は高い。
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専照寺付近から西へ進む八風街道。真っ直ぐ先の山並み中央が八風峠である。三池岳の西にある峠だが、北隣の石榑峠よりも標高は高い。
右の道が八風街道。明治以前は山林だった。開拓して田畑を増やした。明治期には、八風街道を旅人は「江州街道」や「四日市道」などと呼んでいたらしい。
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右の道が八風街道。明治以前は山林だった。開拓して田畑を増やした。明治期には、八風街道を旅人は「江州街道」や「四日市道」などと呼んでいたらしい。
農地が広がり鈴鹿の山々がパノラマだ。左に墓地などがある場所を抜けると上条集落に入る。
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農地が広がり鈴鹿の山々がパノラマだ。左に墓地などがある場所を抜けると上条集落に入る。
上条の三叉路にある道標。大字永井字左ヶ谷の辻にある。「右 四日市道 左 くわな道」
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上条の三叉路にある道標。大字永井字左ヶ谷の辻にある。「右 四日市道 左 くわな道」
上条の三叉路にある道標。(西から見て)
左が新道八風道(桑名へ) 右が歩いてきた八風街道。
本日はここまで。この日は一番近い三岐鉄道「保々駅」まで再び2キロ歩いて、保々駅から富田駅まで三岐鉄道に乗った。
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上条の三叉路にある道標。(西から見て)
左が新道八風道(桑名へ) 右が歩いてきた八風街道。
本日はここまで。この日は一番近い三岐鉄道「保々駅」まで再び2キロ歩いて、保々駅から富田駅まで三岐鉄道に乗った。
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